雨に誘われるように【1】
昨日の曇りは、今日になって雫を降りそそいだ。
午前中に受け持つ生徒の部屋で、飛季は降り出した雨に気づいた。おとなしい小雨のささやきに、ノートに向き合う生徒の手元から顔を上げる。景色を霞ませる雨滴を確かめると、情緒もなしに考える──帰りにはやむだろうか。
しかし、昼過ぎには豪雨になった。雨宿りついでに昼食をどうかと生徒の親に言われ、そうさせてもらった。生徒もテーブルに同席し、「明日から旅行なのに」とぼやく。
具がたっぷり絡む焼きそばを食べながら、そうか、と思う。明日から、ゴールデンウイークが佳境なのだ。飛季は連休を自分に投影して、憂鬱になる。何をしよう。とりあえず、こんな雨が降ろうが降るまいが関係ないのは確かだが。
午後に生徒を見たあと、雨は少し弱まった。オートバイでマンションに帰り、駐車場を突っ切っていくとき、正面玄関の花壇の植えこみにうずくまる小さな背中があった。
一瞬しか見えなかったけれど、あの子ではないかと思った。雨はやんでいなかった。小降りであっても、澄みきって冷たい雨だ。オートバイを置くと、小走りに正面にまわる。
やはり、そこには丸くなっている背中があった。緑の毛布をかぶっていなければ、カーキのリュックも背負っていない。白いシャツの背中が、そのまま小雨に濡れている。
しかし、びしょ濡れになったあの栗色のショートカットだ。目を凝らすと、カーキのリュックは丸めた軆の中に厳重に抱えこんでいる。濡れないようにしているようだ。
こんなときこそ毛布をかぶっていればいいのに、彼女は容赦ない雨に打たれている。傘も合羽もなく、その肩は小刻みに震えていた。
飛季は夕食のコンビニのふくろを持ち直し、彼女に歩み寄った。雨の流れるアスファルトを踏むと、ぴちゃっと足音が跳ねる。彼女は身動きし、額に皺をよせて上目をした。澱む瞳は、寒さに揺れている。
飛季は通り過ぎることができず、彼女の前で立ち止まって、腰をかがめた。
「どうしたの」
彼女は顔を上げ、飛季を見つめた。
頬が真っ蒼だった。ずっと雨に打たれていたのだろうか。震える唇は変色し、髪はべったりと額にはりついている。まるで溺れていたみたいだ。背中や足はずぶ濡れで、リュックだけが心地よさそうに乾いている。
彼女は目をつぶり、再び身を丸めた。軆を上下に揺すり、合わせて低く唸りだす。
その不可解な行動に、飛季はとまどうしかなかった。彼女は何がしたいのか。何かしてほしいのか。こちらに何も読ませない。
飛季は前髪をかきあげた。雨を吸った髪が壊れ、眼前に垂れた。雫がこめかみを伝い、肩は湿って視界も濁る。部屋に帰りたくとも、声をかけたあとに無視するのもはばかられる。
困惑して彼女の揺れる肩を見ていると、何やら、うめき声がかたちになってきた。雨声に紛れそうなその言葉に、飛季は耳を澄ます。
冷たい。──そう聞こえた。
飛季は息をつくと、立ち上がった。彼女は唸っている。上下に揺れる肩に、手を置いた。
彼女の動きが止まる。向けられた彼女の目は、澱んでいる。
怪しまれるのは承知で、飛季は言った。
「俺の部屋、来たら?」
彼女はこちらをじっと見つめた。訝った目だ。何もしない──とつけくわえようとしたものの、余計怪しいかとひかえる。
「あったまったほうがいいし」
彼女の瞳の澱みが、かすかに開けて、躊躇が覗く。
「風邪ひくよ」
彼女は飛季を見つめた。飛季は見つめ返した。しばらくそうしたのち、彼女はのそのそと立ち上がった。
秘かに緊張が走る。こんなに幼い女の子と部屋にふたりきりになる。保身で周囲を見まわした。目を留めている人はいない。未成年を部屋に連れこむだけでも、本来は犯罪だ。さいわい、誰とも遭遇せずに部屋にたどりつけた。
静かな廊下に、彼女の震える音が響く。飛季はドアを開けた。空っぽで当たり前だが、思わず誰もいないことを確かめる。それから、彼女を部屋に入れた。ドアを閉め、迷ったものの、習慣にそって鍵をかける。
彼女はびしょびしょのまま部屋に上がろうとし、慌てて止めた。先に部屋に上がると、床にデイパックと夕食を放って、バスルームからタオルを取ってきた。玄関にたたずむ彼女は、リュックを抱きしめて、硬い瞳をしている。
飛季は、彼女に淡い水色のタオルをかぶせた。彼女は動かない。何秒か考え、どうも、拭けという命令表示だと取る。
連れてきた引け目がある飛季は、従順に彼女の軆を拭いた。髪を軽くたたき、顔や首まわりをぬぐう。長袖とジーンズのこの服は、着替えたほうがよさそうだ。
「着替え、持ってる?」
彼女はかぶりを振った。飛季は、自分の服を思い返した。どれも大きすぎるだろうが、濡れた服に較べればマシだろう。彼女を部屋に上がらせ、素足はタオルを床に敷いて踏ませて拭いた。
室内に通すと、もう一枚タオルを取ってきて、それで彼女の軆を包む。ベッドのそばに座らせると、暖房を入れた。「すぐあったまるから」と言うと、彼女はうなずいた。トレーナーとナイトブルーのジーンズを持ってきて、抱きしめるリュックに顔を埋める彼女に渡した。
「大きすぎると思うけど」
彼女は服を見つめ、そろそろと受け取った。バスルームで着替えるのを勧めたが、彼女は立ち上がりもせず、着ている服をごそごそ脱ぎはじめる。飛季はぎこちなく目をそらし、キッチンに行くふりで背を向けた。
衣擦れの音に、息が詰まる。あんな少女の素肌は、やはり男には甘すぎる毒だ。
かがみこんでキッチンの棚をあさると、買い置きのポタージュスープがあった。これくらい、おごってやっても何もないだろう。飛季はコーヒーカップに粉末を入れ、ポットの湯をそそぐ。銀のスプーンでかきまぜると、クルトンが浮かび、クリームチーズの匂いがただよう。
衣擦れの音がなくなったので、彼女のほうを向いた。上下、飛季の服を着ている。案の定大きすぎて、右肩が剥かれていた。彼女は腰をよじってむずがっている。
歩み寄って、どうかしたのか訊く。彼女は落ち着かない顔で飛季を仰ぎ、「パンツ」と言った。
「は?」
「パンツ。ないよ」
何と返せばいいのか、とっさに思いつかなかった。彼女の向こうを見ると、脱がれたシャツとジーンズの上に、下着もある。そこまでぐっしょり濡れていたのか。
「自分のは」
飛季の質問にかぶりを振った彼女は、こちらを見つめてくる。買ってこいというのか。
「……コンビニに行けば、あると思うけど」
「かす」
「は?」
「貸すの。おにいさんの」
「いや、男用しか」
「いいの」
理解できなかった。他人の、しかも異性用の下着なんて普通──いや、彼女が「普通」とかけはなれているのは明らかだ。
「新品なんて、ないよ」
念を押すと、彼女はこっくりとした。立ち上がった飛季がスープを勧めると、彼女はにぶく視線をカップにやって、受け取った。
再度クローゼットを開き、引き出しを探る。適当なトランクスをつかむ。新品ではなくも、洗濯はしている。とはいえ、これをまた洗濯して飛季が履く日は来ないだろう。
かえりみると、彼女は首を垂れてスープに口をつけていた。近づいて下着をさしだすと、彼女は唇を離す。その唇には柔らかな赤みがさしている。口に含むぶんを飲みこみながら、カップを脇に置くと、彼女は下着を受け取った。
部屋は暑くなってきている。彼女の震えが止まっているのを確認すると、暖房の温度を下げた。
ちらつく前髪に触れると、髪は湿り気を残していた。彼女に構って、自分は帰ったときのままだ。風邪はひきたくない。上着を壁のハンガーにかけると、クローゼットから着替えを取った。
彼女は、飛季の動作を視線で追っている。その小さな手は、飛季の下着を握りしめている。何とも言えない気持ちになる。
「俺も、着替えてくるから」
彼女は飛季を見つめている。澱んでいても、分裂はしていない。飛季を捕らえている。居心地が悪くなり、「君も下着、着ておいて」と彼女の視線を逃げ、背中でバスルームのドアを閉めた。
【第五章へ】