360°-1

「僕、女の子が好きなんだよね」
 去年の初冬のことだった。ぼんやりしそうに暖房がかかるリビングのこたつで、俺は親友の雪月ゆづきとテレビゲームをしていた。交代型の対戦で、俺がコントローラーをいじっているあいだ、雪月は背後の食卓のお菓子をかじっている。キッチンで食器を片づけていたかあさんが買い物に出かけると、雪月は俺の隣ににじりよってきて、深刻な顔でそう言った。
 俺はポーズをして手を止め、十二歳でまだ幼さが残るかわいらしい印象の雪月の顔を見た。その大きな瞳や快活な口はどうなるか分からないが、輪郭や肩幅の丸みは成長するごとに削れていくのだろう。
 雪月は俺の隣に座り直すと、膝に持ってきたかごに盛られたクッキーを手に取って食べた。
「女の子」
「うん」
 雪月は声変わりもしていない。俺は何度か重ねていて、がらりというほどではなくも、感触は変わった。
「好きな子ができたってこと」
「いや、別に。ただ、何か、女の子のほうが好きなんだよね」
「そりゃ、男なら女を好きになるだろ」
 雪月は、俺に顔を向けた。雪月のぱっちりした瞳は、鏡の役割をよく果たし、俺はそこに印象的だとよく言われる自分の切れ長の目を見る。
「あのね、千晶ちあき
「うん」
「僕、今まで千晶に黙ってたことがあるんだ」
「黙ってたこと」
「僕と千晶って親友だよね」
「ん、まあ」
「気持ち悪いとか変態とか頭狂ってるとか、思わないでね」
「……うん」
「僕、実は女の子なんだ」
 雪月の真剣なまなざしと見合った。しばらく見つめあったかたちで止まり、俺は息をつくと、テレビに向きなおった。「何ー」と雪月は俺の腕を引っぱる。
「僕はまじめに話してるんだよ」
「どこがまじめなんだよ」
「ひどいよ」
「ひどくないよ。女って、じゃあ、何で胸がなくて竿持ってんだよ」
「間違えちゃったんだよ」
「おもしろくない」
「おもしろがらないで」
 俺は胡散臭く雪月を見た。雪月は俺のあしらいに泣きそうにしている。
 息をついた俺は、ひとまず話は聞く体勢としてコントローラーを置いた。俺の所作に雪月はほっと微笑み、リモコンでテレビだけ消す。
「順序よく話してほしいんです」
「僕、軆は男だけど心は女なの」
「何で」
「だから間違えたんだよ」
「間違うもんなのか」
「もんなの。ほら、オカマさんとかあるじゃん。あれだよ、あれ」
「あれは女装趣味なのでは」
「みんながそうじゃないよ。性転換? あっちだよ。趣味で転換はしないでしょ」
「………、ん、まあ」
「前々から、男っていうのがしっくり来ないとは思ってたんだ。おっきくなったら胸ふくらんで、こんなもんぽろっと取れると思ってたしさ」
 雪月は自分のジーンズの股間を見おろし、俺もそこを見おろす。
「でも、胸ひらっべったいし、これも取れないし。軆はめちゃくちゃ男なんだよね」
「めちゃくちゃというか、明らかに男──」
「男って言わないでよ。更衣室だってさ、トイレだってさ、出席番号すら僕にはすごく屈辱だったんだ。分かる?」
「……あんまり」
「うん。ありがとう。分かるって言われたほうがたぶんムカついた」
 俺はクッキーを一枚取り、バターの香りをかじった。
 雪月を下から上に眺め、唐突な話題にどう思えばいいのか分からなくなる。ひとまず、嫌悪とか軽蔑はない。
 驚き、というより、信じられないという感じだ。信じたくない、ではない。女子とばかりつるんだり、男っぽい趣味に見向きもしなかったり、男らしくないなと思ったことは多々あるけれど──
 俺はクッキーを飲みこんだ。
「今まで、雪月は男っぽくないなって感じたことはあった」
「ほんと」
「そっちのが、ほんとの雪月だったってこと」
「そそ」
「ふうん。じゃ、分かった」
「分かったとは」
「今度からは、そう感じたら受け流すんじゃなくて尊重すればいいんだ」
 雪月は瞳を潤わせて開くと、「千晶」と抱きついてきた。同い年ながら、俺は雪月よりがっしりしつつあって、雪月の腕や肩の華奢加減には身体的にも女の子を感じそうになる。「千晶なら分かってくれると思った」と雪月は軆はすぐ離し、得意気に咲う。
「まだよく信じられてないけど」
「ちょっとずつ信じていけばいいよ。突拍子ないもんね。ごめんね、ずっと内緒にしてて」
「何で突然言おうと思ったの」
「あ、そう。それで僕、女の子が好きなんだよね」
「女──え、女、なんだろ。君は」
「うん」
「だったら、男を好きになるのでは」
「いや、女の子が好きなんだ」
「じゃ、お前、男なんじゃないの」
「女だよ」
「何なんだよ」
「僕ね、きっとレズビアンなんだよ」
「レズ」
「ビアン。女の子同士」
 次から次へと──眉のゆがんだ変な顔をする俺に、雪月は睫毛をぱちぱちとさせる。
「ほんとだよ。女なんだけど、女が好きなんだ」
「要は、レズのオカマ」
「うわあ、差別用語」
「違うのか」
「ま、平たく言うとそうだね」
「そんなんあり?」
「ありなの。僕も自分がなって知った」
 暗いテレビ画面を向いて、俺は渋い息をついた。
 いささか突飛な性格を除き、わりあい平凡だと思っていた親友に、そんな複雑な内面があったとは──
「自称は僕なんだな」
「最近、女の子でも『俺』とか言ってんじゃん」
「そうか?」
「そうなの。いや、私って言ったほうがいいかな」
「ま、雪月は雪月だし」
「うん。そだね。へへ。千晶にはね、知っといてほしかったんだ」
 雪月と視線を重ねた。どんな説明をされるより、その言葉が俺に雪月の告白を信じさせた。「うん」と照れ咲うと、雪月はにっこりとした。
 それから、三ヵ月半後──俺は個建の住宅街に暮らす雪月と別れ、マンションの群衆の合間を下校していた。
 空には昨日まで雨だったせいでちぎれ雲はあっても、冬に較べてずいぶん軽い。歩道を見おろす桜にも蕾がつき、流れる風は涼しくても南中の陽射しは暖かかった。
 今日はあってないような終了式で、大した感傷もなく中学一年生が終わった。成績表だけのかばんを肩にかけ、ちらほらする周りの同年代の中、春の匂いにあくびを噛んでいる。
 来月には二年生で、俺と雪月はかれこれ五年のつきあいになる。雪月と知り合ったのは、小学校三年生の春だった。
 今思うと、あの頃から雪月は男らしくなかった。淡い性意識で異性を嫌悪する頃、雪月のそれははっきりと男に向かっていた。
 雪月がいつも女とつるんでいるのもそのためで、だが男女別のときにはやはり男に分類されてしまう。ひとり所在なくしていたところで、同じくひとりだった俺と合流したわけだ。
 現在はだいぶ適当な凡人に溶けこんだけれど、当時の俺はいささか内向的だった。この丁寧な顔を周囲に敬遠されていたせいだ。雪月とつきあっていて、美形で悪いかと開き直って世界に踏みこめたように思う。今は友達もそこそこいるけど、それを持たせてくれたのは雪月だから、あいつは俺にとって別格の友人だった。
 あの告白をされて、改めて雪月を見直してみた。すると、いろんなことがあれが悪い冗談ではなかったのを裏づけた。
 男子用の制服に居心地悪そうにしたり、俺が十六になったら欲しいと思っているバイクの話に曖昧に咲うだけだったり、小学校のときも、男連中と校庭に残ってサッカーやバスケをするより、女連中ととっとと帰ってお買い物にいくほうが多かった。
 現在雪月は、嫌悪するというより人見知りで男とは接さない。代わりに女には屈託なく親愛をしめし、女友達に囲まれている。女の子たちも、さして雪月を異性と思わずに受け入れているふうだ。別にオカマっぽくはないのだけど、感性というか、機微な感触が雪月は確かに女だった。
 雪月は、ゆいいつ俺とは男なのに親しくする。内気で弱かった頃を知っているので、怖くないのだそうだ。
 小学校のあいだは同じクラスだったけれど、中学生になって俺と雪月は一組と五組に別れた。学校ではすれちがいが多いぶん、休日に落ちあって、俺たちはつきあいをつないでいる。
「千晶もだんだん男っぽくなってきたね」
 先日の日曜日、両親は出かけた俺の家のリビングで、俺はゲームをして雪月は少女小説を読んでいた。男っぽい演技をする必要はなくなった俺の前では、雪月はそうして本質をさらせる。少女小説を覗き読み、その凄まじい乙女感覚に俺が毒づくと、雪月は眉を寄せてそう言った。
「そうか?」
「男の子って、こういうのバカにする」
「だってすごいもん。ファンタジーより超現実」
「そうかなあ」
「そんな恋愛が真実で、永遠の愛だったら笑っちゃうよ」
「何で」
「綺麗すぎて汚いもん」
 雪月は本をぱらぱらとして、「やっぱし千晶は男の子だね」と首をすくめた。
「男じゃなかったら何だよ」
「昔は千晶は、男とか女とか感じさせなかったのに。周りの男の子よりは」
「じゃ、もう俺のこと嫌い?」
「んーん。好きでいたいから、あんま遠くにいかないでね」
 俺は雪月を見て、ぽんとその頭に手を置いた。こんなのは、どう見ても男同士の会話ではない。女なんだよなあ、としみじみと思った。
 ──そんな回想をしつつ、住人でなければ区別がつかない、立ち並ぶ似たようなマンションのひとつに踏みこむ。十五階建てで、生まれた頃からの俺の家は九階にあった。郵便受けが入り組んだ先に、自販機つきのエレベーターホールがある。俺はやってきたエレベータに乗りこみ、浮遊感覚に耐えて家に到着した。
「あーら、おかえりなさい」
 ドアを開けると、聞き憶えのない若い女の声がした。顔を上げると、正面に覗けるリビングに、かあさんと知らない女がいた。
 十五、六で、俺よりは年上だろう。茶色の髪を肩に伸ばし、まあ美人だ。眉を寄せる俺に、女はモーヴピンクの唇でからからとした。
「誰?」
 かあさんを向くと、「あんたのよく知ってる子よ」と言われた。よく知っている。恋人を持ったこともない俺に、身近な女なんて雪月以外いない。
「ま、六年ぶりだもんね」
 赤いプルオーバーにアイスブルーのジーンズの彼女は立ち上がり、突っ立つ俺の前に来た。段差があっても俺のほうが背が高いが、それは彼女に好戦的な目を眇めさせただけだった。眉は整えられて唇には口紅が引かれ、軆は量感のある危うい曲線を描いている。シャンプーではない深い香りを嗅いだところで、彼女はにっこりとして言った。
「ち、あ、き、ちゃん」
 俺は頬を凍らせた。俺は、ちゃんづけで呼ばれるのが嫌いだ。それで呼ばれると、千晶なんて命名をした両親を怨みかける。なのに昔、懲りずに俺をちゃんづけて呼ぶ女がいて──たっぷり数秒かけ、ホコリをかぶっていた記憶を掘りあてた俺は、一気に蒼白になった。
梨佑香りゆか!?」
「ご名答」
「嘘だろっ。何で。生きてたのかよ」
「残念ながらね」
「何してんだよ。お前、もうどっか行っただろ」
「戻ってきたのよね」
「戻ってこなくていいよ」
「可哀想に。あたしに捨てられてグレたのね」
「ふざけんな」と毒を吐くと、スニーカーを脱いで右手に伸びる廊下を抜けた。突き当たりの右のドアが俺の部屋だ。部屋にすべりこむと、板張りのドアに背をあてて息を吐く。
 梨佑香。冗談ではない。俺は彼女が苦手なのだ。もう会うことはないと思っていたのに。背中にノックが響き、俺はドアを横目で見る。

第二話へ

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