360°-4

 そんなわけで、何やら俺は、両者の気持ちを知りながらあいだに立つ傍観者となった。
 その週末にゴールデンウィークが始まり、後半は家族と旅行に行く雪月は、前半に俺と遊んだ。小遣いを取っておきたいそうで、俺の部屋で雑誌を肴に雑談していたら、梨佑香が来た。相変わらず雪月と梨佑香は息が合っていて、俺としては少々やりにくい二対一となる。雪月と梨佑香は一緒に帰っていき、それを見送ったときの感懐を、俺は今、授業も聞かずにノートに頬杖をついて思い返している。
 お互いに好感触だった。特に雪月の梨佑香への親愛には、俺もクラスの女の子に対するのとはひと味ちがうものを感じる。梨佑香の好みとか、言いまわしとかに共感できると楽しいらしい。好きになったのかな、と俺は秒針ばかりめぐって長針は動いてないような時計を漫視する。もしそうだとしたら、雪月にとって初めての恋であるはずだ。
 俺には、今ひとつ所感がにぶかった。自分が初恋をしていないせいだろう。女の子が気になったことはあっても、どうしてもつきあって知ってみたいと駆り立てられたことはない。ふっくらしていく同級生の女に欲情するのは簡単でも、なまじ自分が美形で見ためばかりで追いかけられる鬱陶しさを知っているため、俺は軆だけで恋愛するのは足が早そうで面倒だった。
 教師が熱烈に文法を語るのは無視し、レズビアンなんだよなあ、と改めて感慨深くなる。自分がこういうのに理解があるとは思わなかったが、偏見に駆られて友情を捨てるのも間抜けだ。雪月は女で、そしてやはり、女を好きになった。
 梨佑香はどうなのだろう。梨佑香も雪月が好きなようだが、それが恋愛かは分からない。どちらかといえば、お気に入りの弟分といった感じだ。
 恋愛感情があったとしても、男と見てのものだろう。雪月は男として好かれるのは嫌だと言っていた。梨佑香に告白された場合、その信念をつらぬいて振るか、妥協してつきあうか──
 雪月なら自分の体質を告白し、梨佑香の真意で決めそうだ。試されますよ、と俺は歯が立たない年上の幼なじみに、小気味よくほくそ笑みそうになる。
 登校日を挟んだ連休の最終日、雪月がみやげを持って訪ねてきた。ちなみに俺は、この連休どこにも行かなかった。俺は勝手に、もう自分は家族旅行に行く歳ではないと決めつけている。同じように、家族と出かけるなら家にいるほうがいい友人と近場で遊んでいた。「へへへ」と不気味な喜色をして部屋に入ってきた雪月のあとには、なぜか梨佑香がついてきた。
「何でお前がいんの」
「いたら悪い?」
「あ、くっついた?」
「そ、そこで逢ったんだよ。ね」
 雪月に振り向かれ、梨佑香は肩を竦めてベッドサイドに腰かける。雪月はその梨佑香の挙動にまばたきをすると、ドアを閉めてふくれたリュックを抱きかかえた。
 音楽を聴いていた俺は、つくえの脇のローボードのコンポを止め、ヘッドホンを置いて椅子を立ち上がる。
「帰ってきてたんだな」
「昨日のお昼にね。おとうさんとおかあさんは、くたびれて寝てるの」
「はは。その中、みやげ」
「うん。名物お菓子とー、風景のクリフファイルとー」
「ま、いいから見せなさい。多いな」
「梨佑香さんのぶんもあるの。何だったら、千晶に渡してもらおうと思って。でも逢えたんで来てもらったの」
 雪月は梨佑香の隣に座り、「いらなかったかな」と不安そうに上目をする。梨佑香は微笑んで首を振り、雪月もほっと笑みになる。俺にはそんな優しげな顔はしないよな、と梨佑香にこまねきそうになった俺は、床に腰をおろしてベッドにもたれる。
 お菓子とクリアファイル、イルカの青いボールペン、というみやげを俺はありがたくもらっておく。本音では、最後は男の俺がどう使うんだと思ったが。こういうみやげの選びかたは女っぽいと思う。梨佑香へのみやげは、お菓子とクリアファイル、銀のラメが入った深海のようなマニキュアだった。俺のイルカより、的確なみやげの気がする。
「せっかく綺麗な爪してるんだし」
「そうかな」と梨佑香は自分の爪を見て、「伸ばしたら似合うよ」と雪月は覗きこむ。
「学校で文句つけられるよ」
「卒業したら伸ばしてみなよ。で、濃い色は長い爪に似合うし」
「詳しいのね」
 雪月ははにかみ咲う。雪月こそ塗りたいんだろうなあ、と俺はみやげの包みを開けて、カスタードクリームがはさまったお菓子を食べる。あま、とつぶやきそうになり、くれた本人の手前で飲みこんだ。
 わざわざ俺が口を挟んで空気を軽くしなくても、雪月と梨佑香は俺を抜きにした関係を作っていた。俺は雪月が持ってきた旅行先の小冊子をめくって、邪魔せずにいる。
 あとひと息という空気がもどかしいふたりに、俺は急に現実感を持って雪月の体質を案じる。その雰囲気が成就した場合、本当にどうするのだろう。今度訊いてみようかな、と旅行のことを梨佑香に話す雪月を盗み見る。
 月曜日の登校中に落ち合った雪月に、梨佑香について切り出してみた。鳥が甲高い声で空を飛びまわり、まばゆい朝陽の先には青空が突き抜けている。「梨佑香のことどう想ってる?」と通学かばんを肩の負担にしながら訊くと、雪月はきょとんと俺を見上げた。
「どうって──」
「あ、詮索されたくなきゃいいけど」
 雪月はかすかに愁眉をして、「怒ってるの?」と言う。思いがけない言葉に、「何で」と俺は首をかしげる。
「だって、千晶には梨佑香さんは特別でしょ」
「………、どういうふうに特別なんでしょうか」
「特別な──女の人」
「俺にとってあいつは女じゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに。あいつだけは嫌だ。あいつしかいないなら、一生童貞でもいい」
「綺麗なのに」
「綺麗とかブスとかの問題じゃないの。雪月のがよっぽど女だよ」
「僕は千晶やだよー。男だもん」
「例えですよ。何、俺と梨佑香に何かあると思うの」
「梨佑香さんのこと、どう想うかって話なんでしょ」
「うん」
「それはつまり、梨佑香さんに告白したいけどどう想──」
「違う。純粋に君のことを訊いてるんです」
「僕」と雪月は窮屈そうに肩を身じろがせる。雪月は急激な成長期には入っていなくても、ちょっと背が伸びたように思う。
「どうって、その、深い意味で」
「うん」
「何でそんなの訊くの」
「クラスの女と違うなら、そういうことかなあと」
 雪月はどぎまぎとした様子を見せる。
 左手にはマンション、右手には住宅街のまっすぐの通りには、制服すがたばかりでなく通勤中の大人も混じっている。
 雪月の大きな瞳や柔らかな線の頬は、ややこわばっていた。
「分かん、ない」
「分かんない」
「こういうのが、好きってことなのかな」
「梨佑香といると楽しいんだろ」
「うん」
「知りたいんだろ」
「うん」
「知ったことが自分に合ってると、嬉しいんだろ」
「うん」
「好きなんじゃない?」
「そうなのかなあ」と雪月は天を仰ぎ、「えらそうには言えないけど」と俺こそいまいち恋愛感情を知らないのでひかえめにしておく。
「まあ、僕もそんな気はしてるんだ。どうしよ。やばいよね」
「好きな子、欲しいって言ってたじゃん」
「好きになって、こんなさくさく仲良くなれるとは思ってなかった。いまさらほんとのこと言って、嫌われるのも怖いよ」
「じゃ、隠しとけば」
「やだっ。後ろめたい。応えてもらえたとして、男として愛されるのもやだし」
「じゃ、あきらめられば」
「もっとやだあ」
「どうすんの」
「どうしよお」
「俺もどうするのかと思ったんで訊いたんだよな」と俺はこの会話の趣旨を述べる。
「分かんないよ。でも、ストレートだったらよかったとか、心も男だったらよかったとかは思わないよ」
「はいはい」
「梨佑香さんが分かってくれたらなあ」
「しばらく、お友達としてつきあって、梨佑香が受け入れるか様子見たら」
「いいのかな。試してるみたい」
「いいんじゃない。それぐらい警戒することだしさ。嫌われたくないんだろ」
「……うん」
「梨佑香なら、それは怒らないよ。ただ、女として愛してほしいのはなあ」
 雪月は陽射しに目を細め、「同性愛って大変だよね」と暖かな風に渋い吐息を乗せる。
「僕、梨佑香さんが男を好きになるんだったら踏みにじりたくないと思うよ。僕だって、女の子を好きになるの踏みにじられたらムカつくし。性の方向って同性愛ばっか弁護されることでもないよね。ストレートだから応えられないって、異性愛にも尊重される権利はある」
「……まあな」
「失恋なんだろうな。梨佑香さん、恋人とかいたんでしょ」
「あー、そうだったな」
「もうやだ。もっと望みのある人を好きになるべきだった。やっぱあきらめようかな。気まずくなるには、あいだに千晶もいるし」
「らしくないな」と咲うと、「僕も自分でそう思う」と雪月は自嘲に眉をゆがめる。
「自分が惹かれた奴だからって信じて、開いてみればいいのに」
「できないよ。ま、今んとこは様子見る。恋ってこんな感じなんだね。気になって胸がいっぱい」
「よく分かんない」
「千晶って初恋まだ?」
「まだ。真似事で好きになったことはあっても、本気で欲しいと思ったことはない」
「やっぱ千晶って恋愛にまじめだよね」
 雪月が腕組みをしたところで、車道が通る十字路に出る。右に折れると制服が増えて中学校につながる。
「まあ、梨佑香さんが僕をどう想ってるか、それが先の問題だよね」
 どう見ても望みがあるのを俺は言いかけたが、第三者が指摘することでもないかと黙っておく。
 雪月と梨佑香の関係を日和見していたある日、俺はやたら下校が遅くなった。
 帰りのホームルームでおとなしくしなかった数人の生徒に担任が切れたせいだ。そいつらだけ残して説教すればいいのに、クラス全員がつきあわされた。閉ざされた曇りガラス越しに、ほかのクラスの生徒たちが次々と帰っていくのが見える。説教は約一時間続き、「これは君たちに必要だった話し合いです」と担任が言った瞬間、確かに殺気の発生を感じた。さいわい何も起こらなかったが。
 かくして俺は、いつもより一時間遅く帰路についている。
 十五時四十分までに靴箱で落ち合えなければ、雪月とはばらばらに帰る。長くなった日にあたりはじゅうぶん明るくも、だるさへの耐久性は変わらない。
 いらいらしていた俺は、信号で立ち止まって肩をたたかれたときも、険悪な眼つきで振り返ってしまった。
「あんたって目に特徴あるんで、そんなふうにするとむしろ怖いわよ」
 梨佑香だった。
 制服だ。中学校前を抜けていけば駅前なので、彼女も下校途中なのだろう。隣に並んだ梨佑香に、俺はかばんを肩にかけなおして息をつく。
「いらついてたんだよ」
「みたいね。あんた部活やってたの?」
「してないよ」
「じゃあ、何でこんな時間に帰ってんの」
「説教聞いてたんだよ」
「あら、呼び出し」
「クラス全員の連帯説教」
「いまどき」
「そういうの好きな先公なんだよ」
「それで雪月くんには置いてかれちゃったわけね」
 梨佑香に横目をした。「何よ」と眇目をされ、俺はつい物笑いをしてしまう。いつもと違う俺の反応に、梨佑香は怪訝そうにする。
 そこで信号が変わり、俺たちは横断歩道を渡った。
「何?」
「んー」
「笑ったでしょ」
「雪月ねえ」
 梨佑香は俺に顔を上げる。「違うの?」と俺はにやりとする。梨佑香は胡乱そうに俺を眺めたあと、楽しくなさそうに正面を向いた。

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