夜の水平線

 自分が惹かれるのは異性だけだって、どうして言える?
 どうせそんなの、何となくだろう。当たり前だからだろう。
 ある日突然、思いがけない人に恋をしている自分に気づいたりすることだってある。
「はよございまーす」
 四月の下旬なのに、今年の春はまだ冷えびえとしている日がある。日中は暖かくても、夜になると肌寒い。
 十七時、日は長くなってきた。ネオンも灯りはじめる中、増えていく人混みを縫ってバイト先の店に急ぐ。雑居ビル地下一階の〈Drop-in〉という店にたどりつくと、俺はそう挨拶しながらドアを開ける。
「お、美実みさねくん遅ーい」
「おはよー」
 カウンターを見ると、まだ騒ぎもない静かな店内に、瑠乃るのくんと夜伽よとぎくんがいる。「そっちが早すぎる」と言いながら、俺はタイムカードを切って荷物は足元に置いて、ふたりの前に飲み物がすでにあるのは確認する。
 ここはマスターのカナメさん以外、スタッフは俺しかいないから、今は店内にいないカナメさんが用意してくれたのだろう。
「カナメさんは?」
「おつまみ買い出し。俺たちが店番」
「今日は泉生いずきくんはいないんだ?」
「泉生は今頃寝てるなー」
「まさにヒモ」
 そう言って瑠乃くんは咲い、カクテルに口をつける。「ヒモなのかなあ」と夜伽くんは首をすくめる。
「働かないよな、泉生くんって」
「まあ、そうだね」
「なのに、夜伽の仕事には文句つけて転職させたんだから、なかなか俺様だよ」
「別に普通じゃない? 恋人が軆さばいてるのはしんどいだろ」
「美実くんもそう?」
「俺は──それ以上のあの問題が」
「あの問題ねー」
 瑠乃くんと夜伽くんがくすくす笑っていると、「ただいまー」とカナメさんが戻ってきた。
「おはようございます」と挨拶すると、「おはよう」と眼鏡をかけたカナメさんはおっとり微笑んで、「これお願い」とお菓子のつまったふくろをさしだしてくる。「はーい」と俺は受け取って、カウンターの下の引き出しにしまっていく。
「カナメさんはミツヤさんが軆売ってたらどうですか?」
「え、あれ買いたいの?」
「いや、泉生は僕が軆売るの許さなかったんで」
「あー、まあ、仕事ならいいんじゃないかな。というか、泉生くんは働きなさいと思う」
「ほらー」
「だってあいつ、何か……ダメそうだもん」
「そうやって甘やかすのはどうなんだかねー」
 おつまみの補充を終えると、ガラスの皿に柿ピーを流しこんで瑠乃くんと夜伽くんの前に置いた。ふたりは無造作にそれを食べながら、無駄話に興じる。
 カナメさんは俺を見た。
「美実くんは彼女が風俗嬢だっけ」
「ですね」
「どう?」
「仕事は平気ですよ。仕事なら」
 俺の言い方にカナメさんは苦笑して、「仕事ならね」と烏龍茶をそそいでグラスを渡してくれた。俺は冷たいそれで喉を潤し、何かもう当たり前になるよな、と三人を見やる。
 このバーはゲイバーだ。瑠乃くんも、夜伽くんも、カナメさんも、全員ゲイだ。夜伽くんとカナメさんには、恋人もいる。
 何でストレートの俺が、普通に混じって働いているのかといえば、カナメさんと俺の母親のトミカが友人だったのだ。そろそろ働けと言われて紹介されたのがここだった。
 口説かれたらどうすんだよと初めは焦っていたが、意外とそんな強引な客はいないもので、淡々とここで働けている。
「美実くんって、まだ彼女と別れないの?」
 瑠乃くんがそう言って、オレンジのカクテルをかたむける。
「まー、あんなでも好きだしなー」
「ふうん。彼女も幸せだよねえ」
「そう思ってるのか分かんねえけどな、あいつ」
 そんなふうに客の相手をするのが、基本的に俺の仕事だ。カナメさんや俺と話したいわけでなく、出逢いを求める客は、後方のボックス席で適当に盛り上がる。そんなに広いバーではないから、たいていは俺たちと話す客が多いのだけど。
〈Drop-in〉は二十時が開店だ。そして、翌朝の午前五時に閉店する。そのあいだ、閑古鳥のときもある。妙に騒がしいときもある。閑古鳥のときはバイトがいても仕方ないので、俺だけ切り上げるときもある。
 その日は夜伽くんは帰っても、瑠乃くんが俺とだらだらしゃべっていたので、ラストまで店にいた。
「始発動き出すなー」
 ちょっと眠気でろれつを曖昧にして、瑠乃くんが腕時計を覗く。
「またこのまま学校?」
「んー、そうだね。はあ、辞めたい」
「何で辞めないのか分からないな。友達とかいるわけでもないんだろ?」
「親友は夜伽です」
「この街なら、いくらでも働けるでしょ」
「そうなのかなあ。美実くんはすごいよね。十五からだっけ」
「親にケツ蹴られただけだけど」
 瑠乃くんは何駅か電車を乗り継いで、昼間は普通の高校生をやっている。確か、俺のふたつ年下の高校二年生だ。
 未成年が朝までバーに入り浸る程度は見過ごす、この天鈴てんれい町で俺は生まれ育ったから、学校なんてうわさでしか知らない。ちなみに、夜伽くんも天鈴町生まれだった気がする。
「っと、じゃあ帰ろうかな」
「ドリンク四杯で二千四百円」
「はあい」
 瑠乃くんは三千円を渡してきて、俺は六百円を返す。「じゃね」と手を振られて俺はそれを見送る。
 すると、ちょうどカナメさんが肩をたたいてきて、「今日はこのへんでいいよ」と微笑んだ。「うっす」と返した俺は、タイムカードを切って荷物を取り上げて、煙草と酒の匂いが混じった店内から地上に出た。
 さわやかな春の朝で、澄んだ空気に背伸びする。青空を横切るすずめがさえずっている。
 俺がトミカと暮らす部屋は、ここから歩いて十五分ぐらいだ。アパートに到着して鍵を開けると、中から物音がした。帰ってんのか、とドアノブに手をかけたとき、がちゃっとドアが勝手に開いた。
 顔を出したのは、香水の匂いをさせるトミカだった。
「悪い、今お客さん来てるわ」
「………、自宅で商売すんのやめようぜ」
「ごめんってば。今日は理弓りゆみちゃんとこでも行って」
「あー、はいはい」
 母親のトミカは、現役で娼婦をやっている。客足が衰えない美貌とざっくばらんとした性格で、けっこう人気の娼婦だ。
 同じ職の親を持っていて、ひっぱたかれて育つ奴らもこの町では多い。でもトミカはそういうところはいっさいなく、やや放任ではあっても、俺を愛情豊かに育ててくれた。おもしろい親だと思っている。ちなみに父親は知らない。
 理弓というのは、例の風俗嬢をしている俺の恋人だ。つきあいは半年くらいになる。かわいいし。胸はでかいし。スタイルもいいし。見た目は申し分ないのだけど──。
 理弓の部屋の前に到着すると、合鍵を取り出す。そしてドアを開けると、そこには、もう何度目か分からない光景があった。
「あ」
「あ」
 俺と理弓がハモる。服を着ていない理弓の隣には、半裸の男が──
 ばたん、と俺はドアを閉めた。閉めて、息を吐いて、またか、と首を垂れた。もうこれにショックも何も感じなくなってきた。
 そう、理弓の男たらしっぷりは本当にすごいのだ。ちょっと依存が入っている感じもするが、だとしたら俺を求めればいいのに、しょっちゅうどっかの男としけこんでいる。しかもそれにあまり罪悪感がないようで、今だって慌てて出てきて言い訳するなんてしない。
 じゃあせめて彼氏という役目を降りたいのだが、別れるのは嫌だとか言う。どうしろっつうんだよ、と俺は舌打ちして通りを歩いて、無意識に〈Drop-in〉に戻ってきていた。
「あれ、美実くん」
 まだ店のドアは開いていて、カナメさんが掃除をしていた。俺はスツールに腰を下ろし、「たぶん五回は越えた」とぼやいた。カナメさんは首をかたむけ、モップを床で動かす。
「トミカと何かあったの」
「トミカは営業中だったんで、理弓のとこ行ったんですけど」
「……ああ」
 その声で、もう事情を察したのが分かった。
「あー、何で俺、あいつが好きなんですかね。嫌いだって言えたら楽なのに、何かもう……好きだしっ」
「好きなんだ」
「何なんすか。女って浮気とか平気なんですか。浮気って男の甲斐性じゃないんすか」
「美実くんも浮気すれば?」
「理弓と一見較べるんですよね……そしたら、たいてい理弓のがかわいいんです」
「重症だね」
 カナメさんは苦笑して、掃除に戻る。俺もぼさっと座っていても仕方ないので、「手伝います」とスツールを降りた。
 テーブルを拭いたり、ゴミをふくろに集めたり。それをビルのゴミ置き場まで持っていき、店に戻るとカナメさんに店の鍵を渡された。
「ま、とりあえず今日はここに泊まれば」
「うー、いつもすみません」
「今度、ゆっくり話聞いてあげるよ。ほんとにね、ちゃんと幸せな相手考えたほうがいいよ」
「カナメさんとミツヤさんはほんといいですよね……」
「はは、ありがと。じゃあ、戸締まりよろしくね」
「了解です」
 カナメさんは俺の頭をぽんとすると、穏やかに笑んで店を出ていった。俺は息をついて、ボックス席のソファに横たわって、うつらうつらと意識を手放していく。そしてそのまま、眠りに引きずりこまれていった。
 目が覚めたのは昼下がりで、もう何度もあったことだから、すぐにここが店だと分かった。不明瞭な声を垂らして、軆を居心地悪く動かす。まだ頭が潤びている。
 初めて理弓が男を連れこんでいたときは、それはそれはショックだった。が、慣れてしまうものだ。その時点で、俺は本当は理弓が好きじゃないのかもしれないとも思う。
 でも、デートでにこっとされたりすると、かわいいとか好きだとか思ってしまう。これは、愛情じゃなくて、ただの執着なのだろうか。
「また浮気されたのー?」
 夕方になると、いつ寝てるかと訊くと授業で寝ていると言う瑠乃くんが、学校を終えてやってきた。俺はタイムカードを切らず、まだボックス席でだらだらしていた。
 カナメさんに「なぐさめてやって」と言われた瑠乃くんは、とりあえず俺をカウンターに持ってくる。そして、俺がおなじみの話をすると、瑠乃くんはあきれた声で言った。
「またですよね……そうですよね……」
「もうマジで別れよう」
「別れようって言ったことはあるよ」
「それは嫌って言われるんだよね」
「うん」
「それでも別れたいと迫りなさい」
「そこまでして……」
「そうやって甘いからあ!」
 俺はテーブルに突っ伏した。甘いのかなあ、と息をつく。
「ほかにもかわいい女の子いるでしょ」
「理弓のルックスはレベル高いからなー」
「見た目でしがみついてる時点で軽いよね、その恋」
「そうなのか?」
「小学生でも、もうちょい中身を考慮するよ」
「小学生……」
「カナメさん、とりあえず今夜は美実くんオフで、飲ませよう」
 カウンターの中にいたカナメさんは、肩をすくめて俺の好きなカシスベースのカクテルを用意してくれた。俺はそれをごくっとやって、ため息をもらす。
「瑠乃くんはさ」
「ん」
「つきあってる人いないの」
「今はいないなー」
「好きな人もいない?」
「それくらいいるけど」
「じゃあ、何か……バカだけど好きなんだって分かるでしょ」
「否定はしない。けど、さすがに美実くんの立場なら嫌いになってる」
「嫌い……」
「嫌いにならないのがすごいよね」
「本命は俺だって言うしなー。浮気は浮気と割り切らない俺が、理弓にはよく分からんらしい」
「その考え方が一致しないのにつきあってるのはしんどいよ」
 俺は唸って、またカクテルを飲む。「悪酔いしないでよねー」と言われても、酒でも飲まないとやっていられない。
「何だろ……何かもう、ほんと分からん」
 そんなことを言いながら、俺は何杯も酒をあおっていた。頭がくらくらしてきて、瑠乃くんに愚痴を聞いてもらっていた。
 意識が朦朧として、暗然として、そのまま意識がなくなって──はっと気づいたときには、俺は光の満ちる見憶えのある部屋にいた。ピンクのカーテン、フローリングに敷いた水色のふとん、デスクトップPCのあるつくえ。俺は息をつき、理弓の部屋だ、と思った。
 何で、ここにいるのだろう。そう思って見まわし、隣で誰か寝ていることにぎょっとした。
 理弓じゃないのは肩幅で分かった。いや、肩幅って。そうっと覗きこむと、そこで無邪気に眠っているのは、瑠乃くんだった。
「え……え?」
 ひとりで混乱した声をもらしながら、とりあえず服は着ている自分を確認する。が、まったく昨夜のことが記憶にない。思い出そうとしても、二日酔いでずきりと頭が痛む。
 まさか。そんな、彼女がいるとかいないとかじゃなく、酒の勢いで男はさすがに──あたりをきょろきょろして、ゴミ箱も見て、ティッシュがないのを確認する。
 昨日、瑠乃くんに愚痴を聞いてもらっていたのは憶えている。そのままつきあわせて、なぜか理弓の部屋に行ってしまったのか。
 理弓──そうだ、理弓は今いないのか。
「理弓?」
 かすれた声ながら呼びかけても、返事はない。いないらしい。
 これはつまり、俺は彼女の留守中に、彼女の部屋で男と添い寝をしていたのか。アホか、と蒼ざめたとき、瑠乃くんが小さくうめいた。
「あ、瑠乃くん──」
 そう言って瑠乃くんの肩をつかんだときだった。ワンルームで、真正面にある玄関のドアが開いた。
 俺ははっとそちらを振り返る。
「え」
「え」
 俺と理弓は、またしてもハモった。それから、理弓は瑠乃くんを見て、俺に目を戻した。
「な……に、してる、の?」
「な……何、だろう」
 俺が引き攣った笑みをもらしたとき、瑠乃くんが唸って身を起こした。ぼんやりした目で俺を見て、理弓を見て、また俺を見る。
「あー……例の子?」
「……瑠乃くん、その、夕べって」
「ふふー。女より、よかったでしょ?」
 瑠乃くんは目をこすってからにっこりして、俺は後頭部を殴られた。それって──
「や……だっ、やっぱ美実くんってホモだったんだ!」
「や、『やっぱ』って何だよっ」
「わー、あたしに対して薄いとは思ってたんだよね。そっかー、そうだよねー」
「お、俺はっ」
「俺のことは濃厚に抱いてくれたよお。だから、別れてくんない?」
「瑠乃く──」
「はー、予感がはっきりしたからいいよ。別れよ」
「ちょ、お前らなあっ」
「わあい。やったね、美実くん」
「あ、空気入れ替えたいから、出てってくれる?」
 そう言いながらヒールを脱いだ理弓は、カーテンを開けて窓を開ける。
 俺は何とか立ち上がり、理弓の細い腕をつかんだ。
「ちょっと待てよ。理弓、俺の話聞けよ」
「この男の子の話で、じゅうぶんだよ」
「お、俺が浮気したらそうなるのかよっ。お前だってさんざん──」
「あたしはホモだってことをカムフラージュするためだったんでしょ。それ分かってたから、あたし、美実くんに深入りしないようにしてたんだもん」
「ホモって、そんな──」
 瑠乃くんを見下ろした。瑠乃くんは子犬みたいにあくびをしている。
 俺は、理弓の黒目がちの瞳と見合った。
「俺は、理弓がほんとに好きだったよ」
 窓が吸いこんだ春風が、理弓の髪を揺らしてシトラスの匂いをただよわせる。
「それは……ほんとだから」
 俺はポケットから鍵を取り出し、この部屋の合鍵をさしだした。「どうも」と理弓はあっさり鍵を受け取る。
 俺は息をついて、瑠乃くんの手を引っ張って立ち上がらせた。瑠乃くんは理弓に「もらっちゃうね」とにこっとして、マジか、とそちらのほうが気になりはじめながら、理弓の部屋を出た。
 アパートの二階の廊下に出ると、俺と瑠乃くんと顔を合わせた。瑠乃くんはまだ眠たそうな顔をしている。
「あの、さ」
「うん」
「マジ?」
「何が」
「いや、俺たちって──」
「何もしてないよ」
「は!?」
「ああ言っとけば、さすがに別れるかと」
「いや、俺、別れたいとか言ってないし」
「あの女はやめときなさい」
「でも、」
「美実くん」
 瑠乃くんは、急に俺の胸倉をつかんで引き寄せた。そして背伸びして、俺の頬に唇をかすめさせた。
「ずっと、好きだったよ」
「え……」
「それは本当」
「……す、好きって」
「だから、美実くんがあの女で幸せになれないなら、別れてほしかった」
「………、」
「幸せそうなら邪魔しなかったからね」
 好き……? 瑠乃くんが? 俺を?
 何で。何でだよ俺。至近距離の瑠乃くんの瞳が、俺の瞳を捕らえている。どきどき、してるような、この胸のざわめきは何だ。
 瑠乃くんはぱっと手を離すと、「一時間目サボりー」とか言いながら階段へと歩き出した。
 俺は茫然と突っ立っていた。頬に触れたかすかな感触が熱い。
 どうして。まさか──いや、それはないだろう。たぶん。だって、俺は……
 その夜、夜伽くんがひとりで〈Drop-in〉に来た。夜伽くんによると、瑠乃くんは補習というもので今日は来るのが遅くなるらしい。
 俺は理弓との顛末を夜伽くんに話した。瑠乃くんの冗談か本気か分からない告白も。すると、夜伽くんはアーモンドチョコレートをつまみながら、「瑠乃は」とごく冷静に述べた。
「かなり前から、確かに美実くんに片想いしてたよ」
「……マジですか」
「マジですね」
「え……えー。ぜんぜん分かんなかったんだけど」
「美実くんは、男なんて視野に入れてなかったでしょ。でも、もう入れて考えてあげてね」
「つきあうってこと?」
「振るかつきあうかは、美実くんが決めていいと思うよ」
 俺が眉を寄せた変な顔で烏龍茶を飲んでいると、店のドアが開く音がした。
 瑠乃くんかとどきっとしたものの、違う。こちらにまっすぐやってきたのは、泉生くんだった。
「泉生。起きたんだ」
「ん。おはようってキスして」
「おはよ」
 そう言って、夜伽くんは隣に座った泉生くんの口元にキスをした。
音希おとき、仕事だったんだよな」
「昨日はオフで一日一緒だったから、今日寂しかった」
「俺も。はあ、ふたりで引きこもれたらいいのに」
 音希、というのは夜伽くんの本名で、夜伽というのは男娼時代の源氏名だ。今は売春の裏方業をしている。たいていの夜伽くんの知り合いは、いまだに「夜伽」と呼んでいるけれど。
「昔はずっと一緒だったのになあ」
 夜伽くんと泉生くんは、天鈴町生まれの幼なじみでもある。切り替わった切っかけは知らなくても、今は恋人同士になって数年越しの仲だ。泉生くんは夜伽くんの髪を撫でて、夜伽くんは泉生くんの腕に腕を絡ませる。
 そういうのを見て、俺は平気だ。慣れたのだと思った。違うのか。俺もだからなのか。
 分からない。理弓の軆に何も感じないということはなかった。胸のふくらみも、細い腰も、絡みつく膣も好きだった。もしかして、俺はどちらもいけるのか。
 瑠乃くんの気持ちが迷惑だろうか。そんなことはない。どぎまぎするけれど、嫌悪は湧いてこない。だったら、俺は──
 そのうち、瑠乃くんが制服のまま店に来た。特に俺と親しく絡んでくることはなかった。むしろ、ほかの男に話しかけられて気さくに咲い返したりしている。
 それを見ていると、俺に告ったんじゃないのかよ、ともやっとするようなものがあった。
「トミカ」
 その日、部屋に帰宅するとトミカは俺の食事を用意して待っていた。野菜カレーだった。香辛料がほかほかと香ばしいそれを、俺はかき混ぜて食べる。
「んー?」
 俺の呼びかけに、トミカは缶チューハイをかたむけながら応える。
「何つーかさ」
「うん」
「俺が……さ」
「うん」
「もし、その……ゲイだったら、どうしよう」
 トミカは缶チューハイに口をつけた。俺は銀スプーンでカレーをすくう。
「いや、あんた、初恋相手は男じゃん」
「は!?」
「カナメが好きだったでしょ」
「かな……っ、いや、好きだけどさ、そういう──」
「『カナメさんお嫁さんにする!!』って言ってたじゃん」
「言っ──」
 てない、と言おうと思ったが、その台詞を聞いて、なぜかカナメさんの困った笑顔がよぎった。
 え。あれ。俺はそんなことを本当に言ったのか。言ったような気がしてくる。え、え、と混乱する俺に、トミカは勝手に楽しげに笑っていた。
 翌日、バーに出勤すると瑠乃くんも夜伽くんもいなかったけど、しばらくして泉生くんが現れた。今夜は夜伽くんとデートするので、ここで待ち合わせたらしい。
 ジンリッキーを飲む泉生くんは、頬杖をついて夜伽くんののろけを語る。基本的にそれをうなずいて聞きながら、「幼なじみの頃から意識とかってしてたの?」と訊いてみる。
「ん? いや、俺、ストレートだと思ってたし」
「え」
「彼女いたし」
「マジで」
「でも、彼女より音希が大切でさ。優先するのはいつも音希だった」
「何か、そうなった切っかけってあるの」
「俺の嫉妬だな」と泉生くんは言い切り、「嫉妬ですか」としか俺も言えない。
「音希の仕事がマジで許せなかった。客を殺したかった」
「始めるときに否定しなかったの」
「隠されてたからな。知ったときは修羅場。そんなんなら俺にも抱かれてみろよって、できるだろって、何か──切れた流れでやったなあ。そしたら意外といけるもんだって分かって、あ、俺こいつが好きなんだわって」
「ゲイってそんなもん……?」
「そんなもんー」
「何か、こう──女より男に興味ある自分やばいとか、そういう葛藤は」
「俺はなかった」
 拍子抜けていたとき、入口から誰か入ってくる音がした。
 夜伽くんかと顔を向けて、どきっとする。瑠乃くんだった。「瑠乃かよー」と泉生くんはつまらなさそうに頬杖をつき、「夜伽は?」と瑠乃くんは店内を見まわす。
「今夜は俺とお出かけ」
「一緒に暮らしてて、デートまでするの」
「悪いか」
「うらやましいです」
「瑠乃は誰ともつきあわないのか?」
 瑠乃くんはまばたきをして、俺を見た。俺はぱっと視線を伏せ、何だか熱い頬を感じながら、「スクリュードライバーだよね」とカクテルを用意しはじめる。
 どきどきして手元が狂いそうになる。オレンジに染まったグラスをさしだしたとき、指が触れ合って心臓がぎゅっと疼いた。
 そのうち夜伽くんが来て、泉生くんとふたりで夜の街に出かけていった。ほかに客もいなくて、カナメさんもバックにいて、店内にふたりきりだ。
 やばい、と頬の紅潮に焦っていると、瑠乃くんはグラスに口をつけた。
「彼女どう?」
「えっ」
「あの彼女」
「どう、って、あれっきりだけど」
「そっか」
 俺は瑠乃くんを見つめた。軽薄な茶髪、ぱっちりした瞳、骨ががっしりというより筋肉がしなやかな軆。グラスを持つ指は長い。綺麗な男の子だと、思う。
「瑠乃くん」
「んー」
「俺、変だよね」
「え」
「瑠乃くんにどきどきしてる……かも」
 瑠乃くんは一度まばたいて俺を見た。俺は顔を伏せて、何だか頬だけでなく全身が熱くなるのを感じる。
「俺がそれを『変』って言ったら、自己否定だよね」
 そう言って瑠乃くんはグラスを置いて脇にやると、カウンターに身を乗り出してきた。
「どきどきするの?」
「ん……」
「じゃあ、キスしてみる?」
 俺は足元を見つめるまま、息をこわばらせる。心臓がほてった血を吐くのが分かる。俺は小さく、瑠乃くんを見た。
「……うん」
 瑠乃くんはスツールを立ち上がって、カウンターに片手をついて俺のシャツの襟元を引っ張った。それに引き寄せられて、俺も軆を乗り出す。
 いいのか?
 不意に思った。
 本当に、俺は──いいのだろうか?
「瑠乃、くん」
「ん」
「俺、ゲイなのか、分からないよ?」
「だから?」
「キスしたら、必ず次があるんじゃないよ?」
 何を言っているのだ。こんなに、言葉がつっかえそうなほど、どきどきしているくせに。
 瑠乃くんの瞳は、冷静に俺を捕まえる。
「男を好きになるのが怖い?」
「……たぶん」
「俺は美実くんを大切にするよ?」
 頬に長い指が触れる。グラスを持っていた冷たさと水気がひやりと伝わる。
「不安にもさせない」
 瑠乃くんのまじめな瞳を、じっと見つめる。こんなに誰かにまっすぐ見つめられたことがあっただろうか。
 相変わらず、胸は脈打っている。俺は震える息とささやいた。
「……信じるよ?」
「うん」
 俺は一度息を飲みこんでから、瑠乃くんの唇に唇を重ねた。瑠乃くんが少し口を開いて、俺たちは危うく舌を絡める。瑠乃くんの飲んでいたオレンジ味が染みてくる。
 俺はやっと顔を離すと、潤みかけた瞳でつぶやいた。
「どうしよ。やっぱ、瑠乃くんが好きだ」
「はは」
「好きだよ。瑠乃くんが好き」
「ん。俺も美実くんが好き」
 ふわりと微笑がこぼれて、もつれあう。
 それは、朝陽が昇って水平線がくっきりと見えてくるようだった。俺の中で、“同性愛”が線を越えて溶けこんでくる。知らなかった自分が、初めて明らかになる。
 そう、俺は男だけど、男のことを好きになる。
 トミカは瑠乃くんのことを歓迎してくれた。理弓とは偶然街中で遭遇して、「別に男同士には偏見ないし」と何だか友人になりつつある。夜伽くんと泉生くんも仲良くやっている。瑠乃くんはついに高校を辞めて働くことにした。
 そして、一緒に暮らしはじめるために資金を貯めている。そう、もう一度、今度こそ、ふたりだけの朝を迎えるために。
 夜の闇に沈んでいた水平線が、くっきり見えてくる。俺の中に、見えなかった、見えていなかった愛情のかたちが、朝陽で息づいていく。
 その線を飛び越えて、俺は瑠乃くんを抱きしめるのだ。そして、瑠乃くんと一緒に咲える自分を受け入れて、やっと自由に誰かをこんなにも好きになる。

 FIN

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