不意に障害が途切れた切っかけで、踏切を渡って人と人が親しくなるのなら、俺には絶対、線路を横切ってこちらに踏み出してはくれない人がいる。
それならそれでいい。こちらも向こう側に行きたいと思わなければいいだけだ。けれど、こちらがその人と近づきたいと思ってしまったら。いつまでも電車が行き交っているなら、轢かれるのも承知で踏切を渡りたいと望んでしまったら。
恋を、してしまったら。
越えてはいけない。越えることなんてできない。途切れない障害のおかげで、くっきり見取れないから、彼は俺を慕ってくれているのだ。
茉麻と俺のあいだには、けして触れ合えることのできない、そんな絶望的な開かずの踏切がある。
自分が「そう」だと気づいた小学生のときは、そもそもどうやって相手と出逢うのか、いかがわしい界隈に行かないと一生孤独なのかと思った。
でも、中学に上がって、何となく目の合う奴とか、妙に軆が近い奴とか、すれちがうと自然と腕をぶつける奴とか、そういう奴はたいてい自分と同じだった。それでも、一応はっきり口で確認するものなのだが。
「えっと……お前も、ゲイなのか?」
訊かれた相手は「えっ」とか言いながらも、こちらが真剣に見つめるとぎこちなくうなずいて、「雨谷もだよな」と言う。俺はうなずき、それだけで友人関係に留まるのもいた。手をつないでキスをした奴もいた。スマホで男同士のセックスを勉強して、その先までやった奴もいた。
高校生になったら、意外なほど普通に男と寝るようになった。ちなみに、タチかネコかリバかも口頭で確認する。何となく分かる、とかは俺はない。分かる奴もいるのだろうが、そんなの分かったところで売りでもやる奴にしか役に立たない。
ちなみに俺は中性的な顔立ちだけど完全にタチで、運動部のがっちりした男も文化部のほっそりした男も、たいしてこだわりなく掘る。かわいい顔をした女の子のような男とだけは、絶対やらないけど──。
あっという間に、高校生になって初めての夏休みが近づいてきた。期末考査が今日終わり、みんな解放されてさっさと学校なんかあとにする。だから、居残って適当に校内で戯れることに支障はない。
バスケ部の補欠で、基礎練習がかったるいと俺を呼び出す松波先輩から、今日もスマホにメッセが来た。そんなわけで俺は、バスケ部やバレー部がインターハイに向けて燃える体育館に行って、蒸し暑い用具室に忍びこむ。
五分くらいして、適当に練習を抜けてきた松波先輩が来ると、ボールや跳び箱の陰になった床で重なってすすりあうようなキスを交わす。
松波先輩の勃起しているものに手を這わせ、体操着の上から撫でるとそれだけでびくっと反応が来る。いいガタイをしているくせに、「雨谷」なんて甘えた声で名前を呼ばれてせがまれる。俺は唇をたっぷり唾液で湿らせながら、先輩のものをさらした。
キスだけで先走ってしたたってきて、俺は舌を伸ばしてその垂れる液を舐めた。先輩が小さく声をもらし、「すぐそこに人いますからね」とか笑って、俺は潤った唇で先輩を大きく食む。
どくどくうねるように脈打って、舌をすうっとかすらせただけでさらに喉を塞いでくる。歯が当たらないように、唾を飲み込むのと一緒に亀頭をきゅうっと飲んで締める。舌をこすりつけながら頭を揺すって先輩を上下に刺激する。先輩は腰を浮かせながらも、喘ぎ声をこらえ、俺の栗色に染めた髪をまさぐる。
ネコをこんなに感じさせるのは、もちろん後ろをほぐすためだ。先輩はだいぶ早く柔らかくなるようになった。ポケットからミニボトルのローションを取り出し、それを指で塗りこめば息づいて俺を求める。
俺は興奮して硬くなっている自分をつかみ、しごいてしっかり勃起させた。いったん身を起こして素早くコンドームをつけると、「挿れますね」と言って先輩のそこに先端をあてがい、ぐっと押しつける。何度かうまく入らずに滑るけど、腰を密着させると俺のものはずるりと先輩の中に飲みこまれ、しぼるように熱が絡みついてきた。
俺の呼吸もほてって、もれそうな声を我慢して腰を動かす。先輩は大きく脚を開いて、俺を根元まで取りこみ、俺の動きに合わせて自分のものをこする。
蕩けきった表情に手を伸ばしてキスをすると、軆だけの関係なのに、先輩の瞳に愛おしさのようなものが混ざる。俺もたぶんそんな瞳をしているのだろう。
視線を重ねるまま、引き寄せられてキスをして、腰をうごめかせて快感をたぐりよせていく。俺に乳首もいじられて、先輩は息を荒げて壊れそうな声で「いく」「いきそう」とうわごとをこぼす。
それを合図に俺も腰を強く振って、先輩の体内にこすりつけて高める。やがて先輩が大きく身を反らせて白濁を吐き出すと、同時に後ろも痙攣して、その波で俺も一気に射精した。
終わって初めて、ひどく汗をかいていることに気づく。これ水分摂らないとやべえな、と思って軆を起こすと、剥がした青臭いコンドームは、口を縛って小さなジッパー袋で密閉する。
先輩も起き上がり、「あー……」とかまだくらくらした声をもらしつつ、ハンドタオルで自分を片づける。髪を濡らすほど汗をぽたぽた落とす先輩をエロいなと思いながら、俺はファスナーを上げて立ち上がる。
「そろそろ、誰か来るかもしれませんね」
「あー、そうだな。てか、もうじき夏休みじゃん」
「そうですねー」
「俺は一ヶ月以上、性的にどうすればいいんだ」
「はは。デートしたらホテル行きますか」
「デートって……えー、俺が好きなの、雨谷じゃねえのに」
「知ってます。あと、俺が好きなのも松波先輩じゃないです」
「知ってるわ。まあ、どうにもなんなくなったらメッセ入れるかも」
「楽しみにしてます」
そうにっこりすると、俺は隙を見て用具室から入口へと移り、掛け声が飛び交う体育館から外に出た。
真っ青な空では、まだまだ太陽が白く発光して空気を焼いていた。必死で試験を受けて、ほどよく運動もして、かなり腹が減った。早く帰ろ、と一度教室に戻り、残っていたクラスメイトのカップルを揶揄いながら荷物を回収すると、自販機で炭酸オレンジを買って学校をあとにする。
駅まで歩きながら、ごくごくと冷え切った炭酸オレンジを飲む。酸っぱい味とはじける刺激が、喉から胃を冷ます。
早く着替えたい。汗臭いのか精液臭いのか、自分ではよく分からない。制汗剤は持っているけど、教室ではあいつらがいちゃついてたしな、と肩をすくめる。かといって、こんな道端で軆に噴射するのは嫌だ。まあ、夏は汗をごまかす香水を朝に軽くつけるからたぶん大丈夫だ。
帰る頃には茉麻も中学終わってるよなと思って、ため息なんかついてしまう。
山村茉麻、というのが、俺が小学生のときから片想いしている男だ。昔はあんまり男に見えなかったけど。かなりかわいらしい奴だった。俺が女顔の男を抱けないのも、茉麻を重ねてしまうのが気まずいからだ。中学二年生の現在は、だいぶ背も伸びて肩幅とか出てきたけど、やっぱり丸っこい目とか白い肌とかはかわいい。
茉麻は俺が六年生のとき、マンションの隣の部屋に引っ越してきた。「千幸にいちゃん」とすぐ懐いてきて、何だこのかわいい生き物はと思っているうちに好きになっていた。
でも、俺は茉麻を絶対に好きになっていけなかったことを、中一になってから茉麻のおじさんとおばさんに聞かされた。もちろん俺の気持ちに感づいてとかではなく、茉麻が頼りにする俺には知っておいてほしい、そして守ってやってほしいという想いからの話だったけど。
茉麻は、本当に愛らしい子供だった。俺もほいほい惹かれてしまったほどに。だから、分からない話ではなかった。俺だけではなかったのだ。茉麻に魅了された男は、決して俺が初めてではなかった。
以前住んでいた土地で、茉麻はときおり大人の男に悪戯を受けていた。いや、悪戯なんて言い方もそぐわないこともされたらしかった。それでも、茉麻は大人の言う「おとうさんとおかあさんには内緒だよ」という言葉に縛られていたが、そんな男たちの中から、特に悪質なストーカー野郎が現れた。
この人に“ゆーかい”されるかもしれない。
そう思った茉麻は、泣きながらやっと両親にすべてを打ち明けた。茉麻の両親は、すぐさま息子を保護することに徹して、警察や医者とも相談し、その土地からも引っ越すことにして、俺が住むこの町にやってきた。
「千幸くんみたいなおにいちゃんがいたら、もっと早く話せてたかなあって、あの子言うの」
茉麻の両親もまだ傷が癒えないのか、おばさんはちょっと涙声になりながら言った。
「だから、あの子がつらいときは支えてくれるお友達でいてくれるかな?」
俺がとっさにどう反応すべきか困ると、「すまないね」とおじさんもつらそうな声で言った。
「こんな重い話をしてしまって。でも、僕たちも茉麻と同じように千幸くんを信頼してるんだ」
話に圧倒されて、手をつけないままのお茶を見つめ、水面の中の自分の目に急に恥ずかしくなった。
だって、俺も同じだから。そいつらと俺は、同じだ。茉麻に惹かれて、見つめて、あわよくば触れたいと思っていて──
涙がこぼれてきて、慌ててぬぐって、「すみません」とだけ何とか言った。「茉麻ほんとにつらかったんですね」なんて言葉で装いながらも、そのとき俺が泣いたのは、自分と茉麻が絶望的に結ばれないことを思い知ったからだった。
駅のゴミ箱に、空き缶とコンドーム入りのジッパー袋を捨てて、電車で地元に帰ってくる。思い出すだけで鬱なのに、それでも日に日に茉麻が愛おしくなるから、その重みが軋るたびに俺はあの日のおじさんとおばさんの痛ましい話を思い返す。
茉麻も俺には話していいと両親に言ったのだそうだ。ふたりから俺が知ったと聞いた茉麻は、心配そうに「僕、汚れてるかな」と俺の表情を窺ってきた。
俺はまた泣きそうになったのをこらえ、「バカ」と茉麻の頭をくしゃくしゃにした。すると茉麻はほっと微笑んで、「千幸にいちゃん大好き!」と無邪気に言った。
俺の「好き」とは永遠に噛みあわない「好き」──切なくて胸が苦しくて、どうにかなりそうだった。それなのに、俺は相変わらず茉麻を忘れることもあきらめることもできず、いい兄貴を演じている。
「あ、千幸ちゃん! おかえりなさいっ」
駅から五分で、車道に面して建つマンションに暗証番号を入力して入ると、売店やロビーがある一階のサンルームから茉麻が手を振ってきた。
『にいちゃん』がまどろっこしくなったのか、中学になった頃から茉麻は俺を「千幸ちゃん」と呼ぶ。「よお」と言いながら俺は白が基調のサンルームに出る。
床はフローリングなので、スニーカーを脱いでスリッパに履き替える。そこはガラス張りの壁や天井から陽光が緩やかに射して、まったりコーヒーでも飲みながら読書でもするのに向いたテーブルとソファがある。
茉麻はソファに座っていて、やっていたポータブルゲームはテーブルに置く。
「千幸ちゃんも期末だったんだよね?」
「まあな」
「何か、けっこう遅かった。僕、さっきお昼ごはんも食べたよ」
「高校になるといろいろあんだよ」
「ふうん。あ、ゲームの対戦して」
「あー、俺も腹減ったから、何か食ってからでいいか」
「ん、分かった。僕、ここにいる」
「ここちょっと暑いし、何か飲めよな。熱中症になる」
茉麻はこくんとして、「ありがと」と俺に笑顔を向ける。くそ、かわいい。俺は背を向けてサンルームを出ると、変質者共の気持ちが分かる自分に自己嫌悪になる。
マンションに入るだけにも暗証番号がいるのも、一階にくつろげる空間があるのも、茉麻の両親が息子をあまり外に出したくない表れだろう。
でも、結局茉麻はここに来てすぐ俺に懐いてくっついていたし、小学生のあいだは通っていた心療内科で、医者に「嫌なことには『やめて』と言っていいんだよ」と諭され、「誰にも言っちゃダメだよ」という黒い大人たちの呪言から逃れた。
「もう大丈夫でしょう」と医者に太鼓判も押され、仮に怪しい奴がいてもとまどわず逃げたり、ブザーを容赦なく鳴らせるようになり、今はしっかり中学にも行けている。
もちろん、俺は茉麻を襲うつもりはない。どんなにかわいくても手は出さない。それは誓っている。でも、そうすれば茉麻の感情に障らないなんて、誰が言える?
ゲイだ、なんて特にわざわざカミングアウトはしていない。必要だとも思わない。伏せていても適当にやれるし、相手も見つかるものだし。恥じているわけではない。
ただ、茉麻の前でだけは、罪悪感がふくれあがってやましくなるのだ。他人に、男同士だのホモ野郎だのと軽蔑されるいわれはない。けれど、茉麻にはそう言う資格がある、と思う。俺のことを「気持ち悪い」と言っても、茉麻なら仕方がない。
茉麻さえ俺を受け入れてくれるなら、本当に俺は自分に何ひとつコンプレックスはないのに、茉麻に唾棄される日がありうることに怯えてしまう。
【第二話へ】