「ただいまー」
三階の一番手前の一号室が俺の自宅だ。そう言いながら玄関を開けると、おふくろの話し声が奥のリビングから聞こえてくる。窮屈にドアを抜けてスニーカーを脱いで、部屋に荷物を置いてからリビングを覗くと、やっぱりおふくろはスマホで電話中だった。
適当に何か食えとジェスチャーされ、俺は邪魔せずにキッチンに向かって冷蔵庫を開ける。まずはよく冷えた麦茶を飲みながらがさごそ漁るけど、食材はあっても料理がない。
仕方なく豆腐のパックを取り出し、水切りして皿に出すと、かつおぶしと醤油をぶっかけ、わさびを乗せて冷ややっこをがつがつ食べた。しかしこれじゃ足りん、と思っていると、電話を切り上げたおふくろがキッチンにやってくる。
「いやー、ごめんね。姉貴と盛り上がっちゃって」
「伯母さん?」
「そ。やっと義兄さんとのお店が軌道に乗ってきたって。ほら、義兄さん料理人だったでしょ」
「寿司だった気がする」
「うん、まわってないとこ。みんなで一度食べに来いって太っ腹なことも言われたし、きっともう安心だね」
「食べにいくの?」
「その前に、お盆に百里がとうさんとかあさんに挨拶に来るらしいから」
「百里とか一番いらねえとこが来るのかよ」
「あんたねえ、もうずいぶん会ってないでしょ? 小学校前だから、もう十年? 綺麗になってるらしいよお」
「あいつが俺の服の中に蝉を突っこんだことを、俺は忘れていない」
俺が真顔で言うと、おふくろはげらげら笑って、「すごい泣いてた!」と息子の気持ちも考えずに手をたたく。あのとき、親父もそんなふうに一緒に爆笑していた気がする。茉麻の両親はあんなに優しいのに、俺の親は何なのだ。
「何か昼飯」とふくれっ面で言うと、笑いを抑えたおふくろは、冷蔵庫の中身を見て「素麺チャンプルでも作りますか」と玉葱やにんじんを取り出して料理を始めた。
俺がシャワーを浴びて私服になって戻る頃には、おふくろは昼食を用意しおえていた。あっさりした味つけでシーチキンが和えられた素麺チャンプルを食べてから、「一階にいる」と言い置いて、茉麻が持っていたのと同じゲーム機を持って家を出る。
茉麻は事情を知る俺にとても懐いてくれているけど、半面、クラスに親しい友達をなかなか作れないらしい。みんなが自分と話してくれるのは汚れていることを知らないからだと、だから昔のことを知られたら嫌われる、怖い、失いたくないと中学に上がって間もない夜、茉麻は泣いた。
「男にあんなことされたなんて」──茉麻の言葉が痛かった。俺には男とそうすることが当たり前なのに、俺が耽る行為は茉麻の心には猛烈な殺傷なのだ。「茉麻は汚れてないよ」と俺は言ったけど、それは本当に茉麻のための言葉だったのか、自分への気休めだったのか。
「千幸ちゃんは、僕のこと、ほんとに嫌いじゃない?」
「お……おう」
「好き? 気持ち悪くない?」
「気持ち悪くないよ。好き……だよ」
茉麻は俺を見つめて、俺の手を握った。どきっとその手を見ると、「まだ怖いから、寝るまでそばにいて」と茉麻はゆらゆら濡れる目で言った。俺はどぎまぎしつつもうなずき、茉麻をベッドの中にうながした。
夜更けまで茉麻の寝顔を見つめていた。月明かりが蒼く、静かだった。寝てるよな、寝てるならいいかな、と顔を近づけてキスをしそうになった。けど、何とかこらえた。
ここで手を出したら最低だ。仮に茉麻にそんなトラウマがなくたって、寝ている相手から奪うなんてずるい。いや、せめて茉麻がゲイならそれもあるのかもしれないけど。茉麻は男を好きになる男じゃない。俺だって、寝ているあいだに女にキスされたら、吐きそうに気持ち悪い。
その日は、夕方まで茉麻とゲームで対戦をしていた。たまにポケットでスマホが震えたけど無視した。誰のお誘いかは分からないが、せめて茉麻とこうして仲良く過ごせる時間より尊いものは、俺にはない。
夜になって、伯父さんと伯母さん、そして従姉の百里のことで話しこむ両親と夕食の野菜カレーを食べ、俺は内心舌打ちしながらクーラーがきいた部屋に戻ってベッドに倒れた。
百里は本当にこの町にやってくるのか。どう成長したかは知らないが、どのみち女に興味はないし、従姉というだけで関わらなくてはならないのは面倒臭い。頭の上がらない女なんておふくろひとりでじゅうぶんだ。たとえここにいるのが少しのあいだで、引っ越してくるとかいう悪夢よりはマシだとしても、どうせ相手は俺がするのだろうから鬱陶しい。
俺はベッドに仰向けになって明かりを見つめ、ふと着信を放置しているスマホを思い出して、スワイプと暗証番号で画面を起こした。
隣のクラスにいる文芸部の隠れ腐男子の矢口だった。いつも腐女子部員の妄想小説をコピーして持ち帰り、読みながら抜いていた奴だ。腐女子部員は、自分たちの妄想が実用化されていることは知らないようだが。
それが精一杯の矢口のはけ口だったが、俺に誘われてじかにつらぬかれることを知って、やや依存気味に求めてくる。今日も一方的なメッセが数件来ていた。疎んでみせても逆効果なので、『タイミング悪くてごめん。夏休みに一度、朝まで泊まろう。』とか返しておく。
俺も矢口が嫌いなわけじゃないし、抜けるし、実際朝までやりまくってもいい。でもどこに泊まるかだな、と考えていると、『雨谷のこと好きになりそう。』とレスが来た。俺は苦笑すると、『俺に好きな奴がいるのは知ってるだろ。』と入力し、ちょっと迷ってから送信し、それ以降の着信は無視して毛布をかぶった。
すぐに夏休みが始まった。茉麻はよくサンルームにいて、あんまりマンションから出なかったけど、たまにクラスメイトに宿題消化に呼ばれて出かけたりもしていた。俺も松波先輩の気紛れなメッセで学校まで出向くことがあった。それ以外のセフレとも、適当に会って、相手の部屋やラブホテルで抱きあったりした。
八月になった炎天下、俺を部屋に招いた矢口が「今度は雨谷の部屋に行きたい」と言ったけど、それはかわした。茉麻も来ることがあるこの部屋に、そういう匂いはつけたくない。それを正直に言うと、矢口は少し泣いた。
「そんなに俺のこと好きになってる?」と覗きこむと、丁寧な顔立ちがゆがんで俺にキスをして、「好きだよ」と苦しそうに矢口はつぶやいた。俺は矢口の頭を抱いてこめかみに口づけ、さらさらのいい香りの黒髪をまさぐりながら、細い首に舌を這わせた。
矢口の軆は折れそうで、でも男として骨組みはしっかり成長していて、華奢といえばいいのだろうか。柔らかみは残っていなくて、筋肉もなくて、悪く言えばがりがりだ。
俺は矢口を床に押し倒して白い胸をはだけさせ、乳首の突起を舌で転がした。それだけで矢口のスラックスはふくらんできて、俺はそれに手を当ててじっくりさする。今、この家には誰もいないから、矢口は声を上げて喘いだ。
クーラーが、浮く汗をすうっと冷まして冷たい。矢口の手も俺の股間に触れた。艶めかしい手つきで俺を揉んで、充血をかためていく。
矢口はゆっくり上体を起こして、キスの痕が残る胸をシャツからはだけさせたまま、俺を床に仰向けにして、ジーンズから俺の勃起を取り出した。矢口は俺がしゃぶってほぐさなくてもいい。俺をしゃぶるほうが興奮するし、そうしながら自慰の要領で後ろも自分で広げる。
そして俺の腰に腰を落とし、騎乗位で自分を激しく手淫しながら腰を振る。狂おしく息が荒くなって、何度も俺を呼んで、「いく」「だめ」ともらしてどんどん腰の動きが切実になる。
矢口が感じるほど、俺への締めつけもきつくなって、俺も乱暴に奥まで突き上げる。矢口はうっとりと息切れしながら俺を覗きこみ、すると俺は、一瞬も置かずに矢口の肩を抱き寄せてキスを交わした。
腰が揉みあい、矢口の上擦った声とよだれが垂れる。俺は矢口の勃起に指を重ねた。「あまや、」とろれつのない声に呼ばれたけど、無視してそいつを握って手のひらでこする。矢口の嬌声がひときわ淫らになって、俺は矢口の耳をすすって、「声かわいい」とくすくす笑う。「いく」「もういきそう」という言葉が泡のようにあふれて、手の中の矢口の脈打ちが太く駆け抜けて、とりわけぐっと硬直が強まった。
あ、これ出る。そう思ったから、俺も矢口を突いて、快感をうねらせた。矢口が大きく肺を使う切ないため息をついて、同時に俺の手の中に濃い白濁が飛び散った。俺も矢口の中でコンドームに爆ぜた。
「雨谷って、けっこう肉食だよな」
終わって、いつしか暮れてしまった空をベッドサイドから眺めていると、矢口はつぶやいた。ペットボトルのコーラを飲んだ俺は膝を頬杖をついた。
「そうかなー」
「こういうの、俺とだけじゃないんだろ?」
「矢口は違うの?」
「雨谷だけだよ」
「何かいいなあ。うらやましい」
「は? 何が?」
「俺も、できるなら矢口みたいにあいつだけになりたい」
矢口は息をついて、俺にまくらを投げた。俺は笑ってやり返しつつも、ごめんな、と思った。
ほんとは茉麻に触れたい。キスして、セックスしたい。それらは俺にとって、愛情表現なのに。同性だから。そんな理由で、愛情表現でなく変態欲求になる。ましてや、茉麻には心の傷をえぐりひらく。
男同士で。触れ合って。精液にまみれる。ごめん。ほんとにごめんな、茉麻。悪いのは、お前の信頼を裏切る劣情を抱く俺だ。
百里が来る盆は、すぐにやってきた。俺の祖父母は、父方も母方も近くの住宅街に住んでいるので帰省は特にしない。茉麻は逆に遠方なので、時間と資金でそう毎回帰れるわけではないらしい。
クーラーのない燦々としたサンルームはさすがにきつく、茉麻は俺の部屋に来て読書感想文のための本を読んでいた。俺はベッドに転がってスマホのアプリゲームをしつつ、ときどき茉麻に話しかけて「本読んでるのに」と言われて笑う。
そうしていると不意にドアフォンが鳴って、おふくろがインターホンに出たのがぼんやり聞こえた。それからノックなしで俺の部屋のドアが開き、「何だよ」とつい顔を顰めると、「百里来たよ」と顔を出したおふくろが言う。俺は茉麻と顔を合わせてから、「で?」と首をかしげる。
「『で?』じゃないでしょ。エントランス開けたから、一階まで迎えに行きなさい」
「俺じゃなくていいだろ」
「いいじゃないの、感動の再会」
「別に感動しねえけど」
「モモリさんって、千幸ちゃんの従姉?」
「ん、ああ。俺のひとつ上」
「千幸ちゃんに似てる? それなら僕分かるから、僕が──」
「何で茉麻くんを行かせるのよ」
「行かせてねえよ。いいって、エントランス抜けたならほっとけば来るだろ」
「はるばる女の子が訪ねてきたら、出迎えるのが紳士でしょ」
「百里が淑女なら出迎えてやってもいいけど──」
「じゃあ、それをそのまま伝えておくから」
俺はむくれて、仕方なく起き上がった。「僕も行くよ」と茉麻は本を置いてついてくる。「無理しなくていいぞ」と言ったけど、「大丈夫」と茉麻はにっこりする。
ちょっと悩んだが、まあ、仮にも百里は女だから、おかしな心配はいらないか。「よし」と俺は茉麻と一緒に部屋を出ると、スニーカーを履いてドアを開けた。
まぶしい青空に思わず目を細める。茹だる空気には蝉の声が反響している。蝉か、とその鳴き声で幼い頃のトラウマを思い出す。まったく、捕まえた蝉を人の背中に突っこむってどんだけガキ大将だよ。エレベーターで「気をつけろよ」と念のため茉麻に言っておくと、茉麻はきょとんとまばたきをした。
【第三話へ】