夏の光
水波くんは、少年院から手紙をくれた。僕宛てだけでなく、聖音にも両親にも書いてくれた。
過去に先生に受けていたことを語った水波くんに対して、減刑あるいは無罪でもいいという声はあったようだ。しかし、水波くん自身は、僕と聖音のために罰は受けると主張した。
水波くんの過去は、マスコミとかには垂れ流してほしくないと僕は思っていた。しかし、同時期に先生も逮捕されたために、どうしても嗅ぎつける人たちがいた。そういう人たちは、僕のことも取材しようとした。
僕は「教師とつきあっていたホモ」にはならなかったけど、「行為を強要されていた被害者生徒」になった。同意だったことを、あえて否定したわけではなかったけど、肯定したり、まして訴えたりはしなかった。
家族だけに、先生を愛していたことを打ち明けた。水波くんのために、別れを告げたことも言った。
夕食前の家のダイニングテーブルで、両親は先生に対してすごく憤慨したけど、僕が哀しくうつむいていると、「やめなよ」と会話を取り戻して退院した聖音が、両親を諫めた。
「おにいちゃん、ほんとに水波先生が好きだったんだよ。幸せだったんだよ。なのに、自分より友達を選んで、突き放したんだから」
僕のせいでひどい恐怖を味わったのに、聖音がそう言ってくれて、僕は耐えきれずに泣き出してしまった。すると、両親は何だかおろおろしたあと、「優織は正しいことをしたよ」とおとうさんが言った。
「自分の恋愛感情より、幼い子にひどいことをした人間を許さないのを選んだんだから」
「そうよね。なかなか、好きな人より友達を選ぶのもむずかしいし──水波くんって子が、誰よりも救われなきゃいけないのを判断できたのはえらいわ」
僕は肩を震わせながらこくんとして、「でも、許さないけど、ずっと先生が好きかもしれない」と嗚咽混じりにつぶやいた。そしたら、隣にいる聖音が僕の手に手を重ねた。
「それでもいいし、そうじゃなくなってもいいんだよ」
僕は聖音を見た。そして、何度もうなずきながら、喉がひりひり絞めつけられるほど泣いた。
きっと、先生のことは忘れられない。一生。でも、もしかしたら恋心は綻びていくかもしれない。
水波くんの未来にそう願ったように、僕にも幸せになれる人が現れるのかもしれない。
そんなやりとりがあったから、家族は水波くんを怨まずにいてくれた。水波くんの手紙に、返事も書いてくれた。すると、水波くんは僕たちにまた手紙を書いて、「いつか、会って謝りたい」と必ず最後にしたためてくれた。
事件のことをささやく人がいて、高校時代はやや窮屈だった。大学生になって、僕は青陽と出逢った。同じ学年だけど、青陽は一年浪人したそうで、ひとつ年上だった。青陽はバイセクシュアルであることをオープンにしていて、彼と友達になったことで、僕はいろんなセクシュアリティの人と知り合うことになった。
そうして過ごしていると、やっぱり僕がどきどきするのは同性だったから、自分はやっぱりゲイなんだなといまさら自認した。大学時代、つきあった人もいた。その報告を聞いた青陽は、「おめでとう!」と祝福してくれたから、彼にも僕はあくまで友達なのだと思っていた。
三回生の冬、つきあっていた人が浮気した。僕が就活を始めて、ばたばたしていて構ってくれなくて、寂しくてやってしまったことだったようだ。だから、僕は許そうとした。でも、青陽が彼を許さなかった。
「優織は、絶っ対……絶対に、『好き』って気持ちを踏みにじられたらいけないんだよっ」
青陽には、ちょっとお酒に酔ったとき、僕の過去を話していた。だからこそ、そう言ってくれたのだろう。でも、彼氏はそんな青陽に、「あんたが優織のこと好きなだけじゃないか!」といらだったようにわめいた。
僕は青陽を見た。青陽が口をつぐんだから、何だか、心が狼狽えてきた。「青陽」とその名前を呼ぶと、青陽は舌打ちして、喧嘩の現場になっていた店を出ていった。追いかけようとすると、「優織」と彼氏が僕の手を取る。
「俺をもう、ひとりにしないでよ」
彼の瞳を見つめた。でも、その瞳の色が分からなかった。青陽の舌打ちしたときの苦い瞳が焼きついて、それしか視覚が認識できない。僕はつかまれた手を振りほどいて、店を駆け出した。
青陽のひとり暮らしの部屋に行った。明かりがついていないから、いないかなと思ったけど、メッセを飛ばすとドアが開いた。青陽は疲れた顔をしていたものの、僕の顔を見ると、瞳をつらそうに潤ませながらほのかに微笑んだ。
僕はただ、この人にそんな顔をしてほしくないと思った。だから、しがみついて、背伸びして、キスをした。青陽はびっくりした様子だったけど、急に涙をぽろぽろこぼしはじめると、僕のキスに応えた。
そのまま、僕たちは明け方まで愛しあった。
朝陽がのぼって、部屋の中が明るくなった中で、青陽の髪に触れながら「好き」と口にしてみた。青陽が目をみはったのと同時に、すとんと僕の中にその感情が溶けこんだ。
「優、織……」
「……青陽のそばにいたい」
「………、」
「僕のこと、好きになってほしい」
「……でも、」
「僕に触ってほしい。もっとキスしたい。いろんな話がしたい。全部知りたい。僕の──」
青陽は噴き出して、「分かった、分かったよ」と笑いながら、僕を腕の中に抱き寄せた。
「優織がしてほしいことは、俺が全部してあげる」
「青陽──」
「俺にそれができるなら、何でもやってるよ」
僕は、青陽の胸に顔を押しつけて泣いた。このとき、初めて思えたからだ。
──先生、さよなら。
大学を卒業して、就職しても、青陽との仲は穏やかに続いた。だから、水波くんへの手紙にも、改まって『好きな人ができた』と書くことができた。そしたら、すでに出所している水波くんから、『俺も、今、彼女がいる』と返事が来た。
その報告を聞いて、僕の家族は、水波くんに会いたいとよく話すようになった。そろそろ直接謝ってほしいとか、被害者の感情はぜんぜんなくて、本当に懐かしい人に会いたい気持ちだった。
『僕も水波くんにまっすぐ会えると思う』
手紙で、僕がそう切り出したことで、水波くんのことを今も見守っている人たちの仲介の中、僕らの再会が実現することになった。
水波くん自身と会うのは、本当に久しぶりだ。水波くんのおとうさんは、謝りに来てくれたことがある。けれど、奥さんと離婚して以来の鬱病も苦しそうだったので、「無理せずに療養してください」と伝えている。
水波くんと再会したのは、あれからちょうど十年後に当たる夏だった。世界的なパンデミックが起きていたから、延期も検討されたけど、十年という節目だからと、予定通り会えることになった。僕の家に、最低限の人たちに案内されてきた水波くんは、マスク越しであることを断ってから、まず玄関先で頭を下げた。そして、僕に、聖音に、おとうさんに、おかあさんに、ひとりずつに謝った。
「もういいんだよ、来てくれてありがとう」と僕は言う。そうしたら、水波くんは僕がかつて愛した瞳に近い瞳で、「会えてよかった」と言ってくれた。
あの人は──僕を、心から愛してくれていたから。それと近しい瞳ができるようになったということは、水波くんは確かに、彼女さんと幸せに過ごせているのだろうと、僕には分かった。
念のためマスクは外せないながら、リビングでみんなで話した。水波くんは、彼女さんに料理も作ってあげたりもする彼氏であるらしい。微笑ましく感じながら、僕は水波くんと最後に話した日の内容を思い出していたので、ふたりで話そうかと僕の部屋に移動したときに訊いてみた。
「水波くん、料理するって言ってたけど、もう大丈夫?」
「えっ」
「いや、包丁とか使うのかなと思って──何か、ナイフ持つと嫌な音が聞こえる、っていうの……」
「あ──」
「ごめん、忘れてたかな」
「いや、忘れてない。あの音は……まあ、しんどいときとか、聞こえたりもする」
「……そっか」
「でも、料理してて、包丁では聴こえない」
「ほんと?」
「彼女も、同じこと心配してくれるからさ。俺が包丁使うときは、何か、後ろからぎゅってしててくれる」
照れながらそう言った水波くんに、脳裏にその光景が浮かび、僕はつい微笑する。
「だから……刃物持つときだけじゃなくて、しんどくて頭の中に聞こえるときもだけど。彼女に抱きしめてもらえるから。今は、心臓の音が聴こえる」
クーラーが効いた部屋には、レースカーテン越しに、熱された白い光が射しこんでいる。そんな光の中で、マスク越しにもちょっぴり恥ずかしそうに咲う水波くんに、僕も目を細める。
「友達が幸せになってくれて、嬉しいな」
何となくそう言うと、「日月も幸せ?」と水波くんは問うてくる。もちろん、僕はうなずいた。あえて言葉にしなくても、その真実に紐づく事実に、僕たちは解放されたみたいに笑ってしまう。
水波くん。これからまた、何度も友達として会って、大切な人も紹介したりして、僕たちは親友になろう。
照らす日射しに包まれながら、僕はそんなふうに思う。
重たい雑音は、優しい心音に分解されていくから。ナイフは傷つける凶器でなく、温かい食卓を作るから。
この夏の光は、僕たちの未来だ。白くて、熱があって、力強くて。僕たちはこの光をくぐって、やっと大人になる。
レースカーテンを透ける光は、どこまでもまっさらで、燦々とまばゆい。
FIN