ざらついた日々
始業式の翌日以降、僕と遥は共に登校している。かあさんにまとめて送り出されるのだ。まったく同じ方向、遅刻を気にした同じ歩速で、ばらばらに登校するのは逆にやりにくい。
僕が遥に愛想を使うことも減ってきて、二十分間、並んでいるのに会話は皆無だ。水中ぐらい息苦しい。遥はひたすらそっぽを向き、僕は空の顔色や道端の植物を眺める。晴れた朝の澄んだ空気は、僕たちのあいだに限って、どんよりしている。
早朝の風の流れなら心地よくひんやりしていても、四月もなかばで、陽射しは暖かい。闇を空色に切り開いて、柔和になった朝陽を通し、アスファルトには緑を増やした庭先の木の影が落ちている。蜂が集まる春の花の色彩も、徐々に初夏の新緑に取って代わられるのだろう。
すずめの鳴き声や、小学生の騒ぎ声を抜け、大通りへの道に出ると、出勤の大人や車も見受けられる。このへんに出ると、朝露が香る空気に、排気ガスが混じってきて深呼吸はできなくなる。
すでにコートは着なくなっていて、冬服もちょっと暑くなった。今年も衣替えは六月のところを五月に繰り上げられそうだ。
遥は黙々と僕の隣をついてきている。離れていかないのは、遥が通学路を憶えていないのもあるのだろうか。でも角がひとつしかないし、すぐ憶えられると思う。そうしたら遥は、さらに早い足取りで先に行ってしまいそうだ。
遥の綺麗な顔は、依然無表情で、しかし、くっきりと不機嫌でもある。
車が行き交う灰色の大通りで信号待ちをして、僕は始業式の遥を思う。あれ以来、引き攣れた言動は起こしていない。家では部屋に、学校では殻に、こもって外部を軽蔑している。鬱状態も来ていない。
切れたとき、遥の傷口が化膿しているのは分かった。切れる基準が、限度の超過なのか、拍子の抵触なのか、それは分からなくても、鍵は「不快」だと思う。
そして、遥は教室にいるととにかく不快そうだ。つまり、教室は遥の切れる引き金を引く危険性が高い。僕は教室で孤立する遥をわりと放っていても、あの痙攣する言動が爆発しないか、秘かに気にかけていた。
信号が変わって、遥が先に歩き出し、僕ははっと彼に追いつく。桜通りの桜はずいぶん散り、枝には緑の葉が現れはじめている。
毛虫の時期だ。地面は見ないように努めても、ぜんぜん見ないと、踏みつけたりして最悪だ。泣きそうに緊張してストラップを握っている脇で、遥は無頓着に道を進んでいく。蜂や蝶がかすめても僕はびくりとして、虫なんか怖くなかったらなあ、とゴキブリに襲われた僕なりの暗い過去を呪った。
「天ケ瀬っ」
バス停にさしかかったとき、後方にそんな声がして、僕は歩調を緩めて振り返った。遥もちらりとしたそちらには、一年のときクラスメイトだった深谷がいた。相変わらず朝陽に茶髪を透かし、同じ制服の集団を縫って横断歩道を渡ってくる。「おはよ」と歩道に乗ると彼は明快に笑んで、「おはよう」と僕も笑みを作った。
「クラス替え以来だね」
「だな。何組になった?」
「七組」
「担任、誰?」
「坂浦」
「あー、国語のな。あいつはヒステリーだよな」
「そうなの?」
「一年のとき、あいつが担任だった友達が言ってた。切れたらすごいらしい」
「深谷は何組?」
「五組。担任がさ、何と体育の山沼」
「うわ、最低」
「だろ。俺、もうやだよ」
淡白な瞳でこちらを見ていた遥は、待たずに無言で歩き出した。「あ」と僕は声はもらしても、追いかけはしない。学校は行く手に見えているし、同じ目的地の生徒も流れている。迷子にはならないだろう。
遥も僕の声に振り向かず、黒髪を風になびかせ、花びらと人混みに消えていった。「あんな奴いたっけ」と思い出そうと渋面になる深谷と僕は歩き出す。
「あいつが例のいとこだよ」
「あ、マジ。なんだ、もっと観察しときゃよかった。ふうん、あいつが。暗そうだな」
「暗いというか、愛想ないんだよね」
「思ってたより美形だな。あれ、そういや、君は七組?」
「はい」
「ということは、あいつも七組?」
「はい」
「もしかして、うわさになってんの、あいつのことかな」
僕は眉をひそめ、「うわさ?」と遥の言動がよぎって不安になる。
「女子が騒いでたんだ。七組に見知らぬ美少年がいるとか何とか」
「あ、女子ね」
「ほかに何かあんの」
「良くないうわさが立つくらい捻くれてるし」
「はは。ふーん、しかし、ありゃ騒がれるね。アウトローな感じ」
「あいつ、女の子とか興味なさそうだよ」
「それがそそるんだろ。女にしたら」
「よく分かんないね」
「ね。天ケ瀬、あいつと同居してんだよな」
「うん」
「嫉妬とかない?」
「………、ない、かなあ。嫉妬するほど、性格的な魅力がないし」
「辛口」と深谷は笑って、やがて僕たちは学校に到着した。
そんな具合で、僕の中学二年生の春は過ぎていった。一週間もすれば、新しいクラスに友人ができて、元クラスの友人とは廊下で会えば軽い挨拶をする程度になる。僕の変わらない親友は、やっぱり希摘だけだ。
教室という空間は、男子も女子もグループに分裂している。平穏に生きていくには、どこかに属しているのが安全だ。希摘はこういう集まりに属すのが嫌いな上にできなかったのだが、僕はやれなくもない。いや、やろうと思う以前に、自然とどこかにおさまっている。
遥は孤立している。彼は周囲を疎外しているし、同級生も遥を持てあまして避けている。遥がそんな様子を、彼が降りてこなかった夕食で両親に話すと、ふたりは顔を合わせた。
「悠芽はそばにいてやらないのか」
味噌汁を取ろうとした手を止めたとうさんに言われ、豚肉の生姜焼きを食べていた僕は首をかしげる。
「何で?」
「『何で?』って、遥くんがひとりになったとき、悠芽ならそばにいると思って、先生たちも同じクラスにしたんだろう」
「そしたら、僕まで仲間外れだよ」
「あのなあ」
「遥だって、僕が近づいてきたら嫌がるんじゃない? 話しかけたことあるけど、返事されたことないもん」
とうさんとかあさんは、再び顔を合わせる。僕は炊きたてのふかふかのごはんも口に詰めこみ、豚肉に染みこんだ生姜の味と飲みこんだ。
「遥くんが寂しそうに見えたら、そばにいてあげるのよ」とかあさんはせめてといった感じで言う。
「学校で頼りになるのは、悠芽だけなんだから」
「先生は?」
「あの先生は、あまり頼りにしてないわ」
「切れたらヒステリーなんだって。一年のときの友達が言ってた」
「だったらなおさら、悠芽が気にかけてあげてちょうだい」
「………、うん」
はなから行かせなきゃいいじゃん、と思っても、これ以上遥を否定すると、小言をもらいそうなので黙っておいた。
とうさんの向こうのガラス戸にはカーテンが引かれ、雨が降っているのは音で分かった。初夏に移る雨だ。遥の席でお椀は伏せられていて、僕は先日の希摘との話を思い返す。
遥は学校に行くことで追いつめられている。けして僕の億劫な心からでなく、遥には学校を義務づけないほうがいいと思うのだけど──僕が言ったって、両親にはわがままとしか取ってもらえないのだろう。
夕食を終えて歯を磨き、二階にあがると、暗闇の中で遥と鉢合わせた。「ごはん?」と訊いてもじろりとされ、返事はない。すりぬけて階段を降りようとした遥に、「あのさ」と僕は声をかける。
「学校、嫌なら嫌だって言ったら? そっちのがいいんじゃない?」
遥は足を止め、肌寒い雨の闇を縫って僕をかえりみた。臆しそうになりつつ、「登校拒否なんて、たいして問題じゃないよ」と僕は言う。
「そんなの、どのクラスにもいるしさ」
「お前が俺にいてほしくないんだろ」
「僕が面倒見るのサボってるみたいに言われるんだよ」
「お前ひとりのせいじゃないさ」
暗に僕のせいもあると指す言葉に口ごもると、遥は足音もなく階段を降りていった。
僕は息をついて部屋に帰り、ふとんがたたまれたベッドに仰向けになる。宿題は夕食前にやった。ベッドスタンドに置いている雲のポストカードブックを取ると、ゆっくりとめくる。
あんなに嫌そうなくせに、なぜわざわざ学校に行くのだろう。家にいるより学校がマシなのか。さらりと見た視点に、そうなのかな、と思考は立ち止まる。
たとえ情景は違っても、ここは「家庭」だ。遥にとって、ひどい悪夢である家庭という場所だ。家庭と名のつく空間より、なじめない学校がマシなのだろうか。じゃあ学校に行かせて正解なのかな、と思っても、そんな気もしない。
遥は逃げているだけだと思う。逃亡が選択肢になるのは、希摘を見ていて知っていても、遥の逃亡は選択でなく妥協だ。家庭も学校も嫌だけど、学校がいくらかマシなので、そっちに行っている。別に学校にいたいのではない。
たとえ遥は家庭に丁重になるべきだったとしても、もう実際、ここにやってきた。だったら、学校はあとまわしにして、目を背けさせず時間をかけて家庭に慣らしたほうがいいのではないか。
今、学校に半端に逃げこませ、先入観のまま家庭を拒否させていたら、先入観はいつか真実になる。家庭を受け入れてはならない、と。せめて、ここが元の壊れた家庭と違うのは認識させてやれたらいいのだけど──むずかしいのかなあ、と本を置いて雨に耳を澄まし、白い天井を睨んだ。
正直、僕には見れば分かるだろうといった感じだ。僕の家庭が、虐待だの何だのが起こらない、怯える必要もない、平和な家庭なのは三日も同居すれば分かる。
でも、それは心が健康な人間の視点だ。遥の心は、深い傷口を通して外界を見ている。水晶体のひずみで、おそらく外界の明暗や色彩をありのまま知覚できない。僕の家庭の平穏がいかに明白でも、赤い混濁が欺瞞を猜疑して、警戒させる。
探った上で拒絶しているのならまだしも、遥は僕の家庭を知った気でいるだけで、何も知らない。遥に僕の家庭の安全性を理解させてやれたらいいのだ。が、心を癒して理解させるのか、理解させることで心を癒すのか。
無論、理解した上で嫌いだと認識されれば、そこでおしまいだ。ほんとラスボスだな、と僕は顔面をまくらに伏せ、疲れた息をついた。
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