romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

カレイドスコープ

 覗いて、まわして、偶然現れた鮮やかな模様が、目に焼きついてしまったように。あの夜の絡み合った指先が、今でも心に焼きついていて、はっとすることがある。
 あのまま手をつないでいたら、軆を引き寄せあっていたら、あたしと君はどうなっていたのだろう。もしかして、今では考えられない世界にいたのかも──
 フェリーの甲板に出ると、強い風が全身に吹きつけてきた。三月下旬の朝、春めいてきた青空も陽射しも心地いい。
 潮風の匂いが満ちて、手すりから海面を覗くと、濃い藍色をしているけれど海中が透き通っている。白波が音を立てて泡立って海を突っ切り、水平線だった向かう先に島が見えはじめている。
希由里きゆりー」と名前を呼ばれて振り返ると、菜音なのがマキシスカートに風を孕み、ドアにつかまりながら目をこすっていた。「ごめん、起こした?」と訊くと「周りが起きはじめたから」と菜音はドアを離し、「よっ」という掛け声と共に波の動きを飛んで、あたしの隣にやってくる。
「おおっ、島見えてきてるじゃん」
「あとちょっとだね。利琴りこと幹乃みきのは?」
「男子はまだ寝ぼけてる」
「だらしないなあ。医者志望と教師志望が」
「そのぶん、うちらがしっかりしなきゃいけないんだよねー」
 笑った菜音のボブとショートカットの中間くらいの髪が、海風になびく。あたしの腰までの髪をまとめたポニーテールも流れている。
 朝陽が海に光の微粒子をまきちらして、潤った波音に合わせて輝く。風も澄んでいて、さらす肌をすうっとなだめてくれる。「良さそうなところ」と改めて海と島の景色を見渡して言うと、「うん」と菜音はにっこりとした。
 予定は二泊三日だった。一泊フェリーで眠って到着するあの島で、高校時代をほとんど一緒に過ごした四人で、最後にめいっぱい楽しむ。この春、あたしたちは同じ高校を卒業した。そして、それぞれの進路へと進もうとしている。今までみたいに四人で過ごせることもなくなるのだろうと、誰からともなくこの卒業旅行が決まった。
 菜音は小学生のときから、学校は違っても塾が一緒だったあたしの親友だ。利琴はあたしの幼なじみで、現在は彼氏ということになっている。利琴のいとこで、中三のときにあたしたちの街に越してきた男の子が幹乃だ。高校で菜音は幹乃に出逢ってひと目惚れして、今はふたりはつきあっている。
 恋愛と友情がちょうどいいバランスで、この三年間はあたしたちはいつも一緒にいた。テスト勉強。文化祭。修学旅行。良いときも悪いときも、どんな想い出も、四人で彩ってきた。
 でも、それも終わって、四月からはばらばらになる。寂しいなあ、という不安をこの短い旅行で埋めて、新たに頑張ろうと四人とも思っている。
 菜音とツーリストに戻ると、前方には椅子が並び、後方はカーペット敷きの大部屋になっている。毛布とまくらがセットになって並ぶそこに、利琴と幹乃も混ざって背伸びしていた。
 靴を脱いだ菜音は「島見えてきたよー」と幹乃のかたわらに腰を下ろし、「八時に到着だったな」と幹乃はスマホで時刻を確認する。「意外とよく寝たなー」と利琴がくせ毛が暴れる髪をかきむしり、「やめなさいよ」とあたしは荷物から櫛を取り出す。そして、昔からそうしているように、利琴の癖に合わせて櫛を動かし、ぼさぼさする跳ねを寝かせていく。
 眼鏡をかけて大きくあくびをした利琴は、「よし」と髪を整えたあたしに「ご苦労」と言って、あたしは利琴の肩をはたいた。そんなあたしたちに菜音と幹乃は噴き出して、その空気がいつも通りでほっとする。
「朝食は島のホテルで食べるの?」
 櫛をしまいながらあたしが言うと、「朝からチェックインできるのかな?」と幹乃が少し長いさらさらの黒髪をはらいながら言う。
「普通、夕方くらいだよな。だが、飯は食いたい」
「荷物も持ってうろうろしたくないー」
「クローク見つけて、適当なとこで食うか」と利琴がスマホをチェックしながら言って、「そんな、いろいろあるような島じゃないんだけど」とあたしはバッグのファスナーを閉める。
「お金ある旅行じゃないもんねー……」
「とりあえず、ホテルに行こうか。予約は取ってあるんだし」
 幹乃が言って、「だな」と言った利琴も、あたしも菜音もうなずく。そんな計画性のない話をしていると、フェリーが島に着いたようで、案内が流れた。周りもあたしたちも荷物を持ち上げ、ぞろぞろとツーリストをあとにする。
 太陽がすっかり昇って、きらきらと海に反射していた。港まで橋がかけられ、みんなそれを渡って島に降り立っている。あたしたちもその架け橋で島に到着すると、ひんやりと潮の匂いを含んだ風に包まれた。
 ホテルへの看板は出ていたので、あたしたちはその矢印をたどって歩き出す。
 波の音がさざめく通りをまっすぐ右手に向かうと、砂浜に向かい合ったホテルを見つけた。「ボロいのかなー」なんて失礼なことを言っていたら、ロイヤルホテルなんてものじゃなくても、シティホテルくらいのゆとりはあるホテルだった。
 ちゃんとクロークもあって、あたしたちはそこに荷物を預けると、食事は十七時以降にチェックインしたあと、十九時から夕食の用意になるということも受付の人に聞いた。軽食を取れる喫茶店があることも教わって、あたしたちはまずそこに向かうことにした。
 ──高校を卒業して、あたしは保育科に進んで保育士になる勉強を始めることになっている。妹と弟がいるせいか、昔から年下の面倒見がいいとは言われてきた。同級生からも「希由里は姉御だよね」とか言われる。保育士が不足しているのも、その仕事が激務なのも聞いているけれど、進みたいと思った気持ちは変わらなかった。いくつかのオープンキャンパスにも参加して、職場は幼稚園や保育園とは限らず、資格次第では養護施設とかもあると知った。だから、まだどこにたどりつくかははっきりしていないのだけど、子供に関わる仕事ができたらいいと思っている。
 利琴は医者になると言っている。ちょっと性格はルーズなのだけど、こいつが勉強は本当にできる。昔から医者か弁護士になると言っていて、先に合格通知が来たというだけで医大に進むことに決めた。「嫌味だよねー」とあたしが息をつくと、「俺の仕事が安定してたら希由里も楽だろー」とどきっとすることを言ってくる。
 菜音は一応短大に進んだものの、メインはバイトとバンド活動にするらしい。菜音は昔から歌うことが好きで、高校時代から本格的にロックバンドのヴォーカルとして活動している。たまにライヴに顔を出すと、確実に少しずつお客さんが増えているからすごい。ステージにいる菜音も、次第に堂々と歌えるようになってきているのが分かる。
 そして、幹乃は学校の先生を目指している。転校前に自分がいた中学に就きたいところまで考えているらしい。幹乃はクールな奴だけど、例えば菜音とか、想っている相手には優しいから、いい先生になると思う。幹乃が以前在学していた中学には問題が多かったらしく、「そのぶん吐き出せない想いがある奴が多かったから」とその受け口になりたいことを語っていた。
 ホテルがあった道をのぼっていくと、娘さんが嫁に行ったのを機に、この島に移住したご夫婦が営んでいるという喫茶店があった。そこであたしたちは、明日と明後日はどう過ごすかを考えた。
 旦那さんと奥さんもお勧めを教えてくれた。この時期、ちょうど若草が生えてきて気持ちいい野原があるらしく、「そこでお弁当なんか食べるといいかもしれないわねー」と奥さんは微笑む。
「免許ある子がいるなら、僕の軽トラも貸すよ」
「マジですか。幹乃持ってたよな」
「まあ。でもそんな運転技術ないかも」
「でも、私乗せてドライブ連れてってくれるじゃん」
「お弁当どうしよ。どっかキッチン借りれたらなー」
「開店前なら、ここのキッチン使っていいんじゃない?」
 奥さんに問われて旦那さんはうなずき、「食材もお代はもらうけど使っていいよ」と言ってもらえる。「料理ー」と菜音がちょっと泣きそうになったので、「あたしがメインやるから」となだめる。
 そんなふうに過ごしていると、あっという間に夕暮れのオレンジ色が窓から射しこんできた。「ごちそうさまでしたー」とか「明日よろしくお願いします」とか挨拶して、あたしたちは今日のところは喫茶店をあとにし、坂をくだってホテルに戻る。
 クロークに預けていた荷物を提げてチェックインし、並んだツインの部屋に向かう。部屋の前で四人顔を合わせたものの、そんなに長く悩むことなく、「もう高校生じゃないもんね」とカップルでの部屋割りにすることにした。
 部屋も思っていたより狭くなかった。ベッドがふたつ、窓際に白いカウチ、テレビが載ったチェストやクローゼットもある。あたしは奥のベッドに荷物をおろし、押し寄せる波音が聴こえた気がして、引かれたミルクティー色のカーテンをめくってみた。
 まだ夕焼けの名残と夜の紺色が、砂浜に面した波打ち際から水平線までを染めている。「すごい綺麗」と利琴を呼ぶと、「んー?」と利琴はあたしの背後から海を望み、そのままさりげなく肩を抱いてぎゅっと甘えてくる。
「何?」
「うーん……」と利琴はあたしの髪に頬を当てて唸ったあと、ため息をつく。
「もう、高校も卒業しちゃったんだなーと」
「まだ言ってんの」
「希由里と朝が別々になるのは初めてだよな」
「幼稚園から一緒だったのにね」
「俺の寝ぐせ頭をセットしてくれる奴もいないのか」
「自分でできるようになりなさい」
「希由里に髪触ってもらうのが好きなんだもん」
 あたしはため息をついて、「早起きしてあたしの部屋にまで来たら直してやってもいい」と言う。
「ほんと?」
「あたしからは行かないからね」
「ん……希由里の顔見れるだけでもいい」
「………、寂しいの?」
「寂しくないの?」
「寂しいのかなあ……」
「俺に会わずに一日が終わったりするんだぞ」
 あたしは、暗い海原の白波が銀色に輝くのを眺める。
 利琴に会わなかった日なんて、これまで生きてきてあっただろうか。家が隣で、幼なじみで、恋人になって、いつも一緒だった。「高校卒業したらさ」と耳元に利琴の声が響く。
「同棲したかった」
「勉強をまず頑張りなさい」
「希由里ちゃん冷たい」
「ったく。夜はちゃんといちゃついてやるから。まずは、お腹は空いてないの?」
「空いてる」と腕をほどいた利琴は肩をすくめる。「じゃあ、とりあえずディナー行こ」とあたしはスマホを手にして菜音に電話する。「夜はいちゃつく」と繰り返した利琴は、勝手ににやにやして、自分のスマホや財布を取り出しにいき、『すぐ出るー』と菜音の返事を聞いたあたしもそうする。廊下で四人揃うと、あたしたちはエレベーターで一階のレストランに向かった。
 ディナーは白身のホイル蒸しや小エビと海藻のサラダといった海鮮メインだったけど、ホイル蒸しにはえのきが添えられていたり、コンソメスープの具はトマトとズッキーニだったり、海の幸に限らないメニューだった。
 レストランに堅い雰囲気はなく、あたしたちはいつもの昼休みみたいに賑やかに食事を取ることができた。ちなみにディナーはコースだけど、モーニングはビュッフェなのだそうだ。「明日、」とあたしはパエリアをすくいながら、長い髪を耳にかける。
「朝食のあと、あたしと菜音はお弁当作りにいくけど、利琴と幹乃はどうする?」
「俺は借りる軽トラの運転試してみておく」
「じゃ、俺は飲み物やらデザートの調達しにぶらつくわ」
「うわー、お料理かあ。ほんとしないからなあ」
「まあ、むずかしいことはさせないから」
 そんな感じでディナーが終わると、ロビーで部屋のテレビから映画をレンタルできるサービスを知ったりする。「明日の夜はこれでのんびりするかー」なんて言いつつ、あたしたちは二十一時過ぎにそれぞれの部屋に戻った。
「大浴場ってあったっけ?」
 荷物から着替えを取り出しながら尋ねると、隣のベッドにスニーカーも脱がずに仰向けになっていた利琴が、「えー」と不満そうに起き上がる。
「そこのユニットバスでいいじゃん」
「利琴、乱入しない?」
「するなー」
「菜音と大浴場行くわ」
「てか、風呂とかあとでいいだろ」
 利琴はベッドサイドに脚を下ろして手を伸ばすと、あたしの手首を引っ張ってくる。そして自分の膝にあたしを座らせると、そのまま唇を重ねて舌で熱く口の中を探ってくる。
 あたしは利琴の服をつかんで、半眼のうちに彼の眼鏡を外した。利琴はあたしの腰を引き寄せて、もっと奥深くまで求めて、ふわりとシーツに押し倒してくる。利琴はゆっくり唇をちぎり、眼鏡がなくて少し見慣れない素顔にあたしは笑う。
「がっついてるなー」
「俺たちって地味にお互いの部屋以外ないだろ」
「んー……、そうだね、ないね」
「ここがお初です」
「お初」と噴き出していると、「あーあ」と利琴は唇を舐めて湿してから首筋に口づけてくる。
「一度くらい、教室でしたかったなー」
「菜音と幹乃はしてたよね」
「一回見たな。俺らのほうが焦ったわ」
「あのふたりもするんだなーと思った」
「今もやってっから、風呂なんて誘わなくていいの」
「じゃあ、せめてシャワー──」
「いいよ。気にすんな」
「汗かいてるよ」
「だから味と匂いがあっていいんじゃん」
「……変態」
「希由里だってさ、しょっぱいフェラと石鹸臭いフェラなら、絶対塩味のがいいだろ」
「知るか」と言って、軽く利琴の肩に咬みつく。笑った利琴は、あたしの耳たぶを食みながら胸をまさぐって、ゆっくりと腰と腰を重ねる。利琴の硬さを、服越しにも湿り気がこすれたことで感じ取る。
 耳の中を舌の濡れた音が犯して、息遣いが気づかないうちにほてってしまう。利琴が上半身のTシャツを脱ぐと、汗の匂いが空気を介して伝わってきて、確かに悪くない、なんて思う。
 あたしもTシャツを脱ぐと、ブラジャーは慣れた手つきで利琴が外して、乳房があらわになる。利琴はこぼれないようにするみたいに胸をつかんで舌先で乳首を転がす。あたしは唇を噛んで声は抑えても、びくんと震えてしまう。
「声いいよ?」と言われて、「家じゃないのに」と返すと、「防音はあると思うぞ」と口に指を引っかけられて、引き攣った吐息がもれる。また乳首を含まれて、「指噛んじゃうよ」と何とか言うと、「声出せないなら噛んで」と利琴の舌は蛇の頭みたいにあたしの胸を這う。
 あたしは利琴の上半身に抱きつくと、観念してその耳元にだけ聞こえるように喘ぐ。あたしの声で、緩く擦りあう腰の利琴の硬さが強くなる。あたしの脚のあいだもしっとり痺れ、爪先まで小さく感電している。いつのまにか目を閉じて、その感電に耳を澄まし、溺れて沈んで花開く瞬間を待っている。
 とても自然に利琴の指先はあたしの下着にもぐって核を探りあて、柔らかい指の腹で入口からすうっと撫であげてくる。痛くないのに、気持ちいいのに、なぜかあたしは泣き出すような声をわななかせる。それをなぐさめるように利琴はまた唇に唇を重ね、あたしの麻痺する息を受け止めながら、入口を指が滑るぐらい蕩かしていく。
 あたしは利琴の軆にしがみついて、軆の奥がきゅうっと締まって、欲しくてたまらなくなっている自分に気がふれそうになる。それは急速にうねる入口に指を捕らわれそうになっている利琴も分かっている。利琴はあたしを抱くまま起き上がって、ジーンズからそれを取り出した。
「少し触って」
 そう言われて素直に緩やかにしごくと、先端のぬめりが光って手触りに血管の動きが走る。利琴はあたしの下着を焦れったく脱がせると、先端を入口に当てた。
 ああ、やっと中に来る。そう思うとひどい安堵が生まれて、あたしは利琴を根元まで受け入れた。利琴はあたしの核に響く角度や位置をよく知っていて、そこに向かって自分をこすりつけてくる。
 座ったかたちで交わった腰を深めると、そのまま利琴はあたしを押し倒して、核をびっくりするほど優しく指で刺激しながらあたしの深くを突き上げる。あたしは声になりかけたり、声として溶けていたり、切なく息を切らしながら利琴の動きを受け止める。
 熱がじんじんしてくる爪先から絡みついてくるように、快感がこみあげてきて、不意に蜜を吸いこむ感受性が飽和してふわっと開花する。そのとき利琴がぐっと自分をあたしに刺すと、あたしはうわずった声を上げて、一気にあふれてくる白波に大きく痙攣をして絶頂と引き換えに体内の利琴を締めつける。
 それを合図に、利琴も自分を引き抜いて、あたしの内腿に射精する。そしてふたりしてベッドに沈み、いつもしばらく動けない。
 後頭部を引っ張られたと思ったら、するりとポニーテールを作っていたヘアゴムをほどかれた。「きゅーちゃんは昔からポニテだな」と利琴はつぶやき、「りこちゃん、眼鏡」とあたしは利琴に眼鏡をかける。
 視線が触れあって、やっと一緒に咲うと、「今日は慌てて服着て、しれっとおじさんに挨拶して帰らなくていいんだなー」と利琴は幸せそうに言った。利琴のそんな表情を見ているとあたしも幸せで、「大学卒業したら同棲しようね」とささやいた。「そしたら、もう結婚したい」と利琴はあたしを抱きしめ、あたしは咲って利琴の胸に頬を当てて睫毛を伏せた。
 そのまま眠ってしまったあたしと利琴は、朝、狭いユニットバスで一緒にシャワーを浴びた。肌が乾くと服を着て、時計を見ると六時半だったから、七時までのあいだ、波音を聴きながらベッドに横たわって手をつないでいた。
 朝というのは、本当に幼い頃から利琴と一緒だった。この春からそれが変わってしまう。改めてそれを想うと、何だか、寂しいなんてものではない気がした。
 七時を過ぎて四人になって、ビュッフェの朝食を取ると、あたしたちは十時頃に喫茶店で合流するのを約束して、それぞれの場所に向かった。菜音は火や包丁の作業はあたしに任せて、サンドイッチにはさむジャムやマーガリンを用意する。「幹乃に作ってあげたりしないの?」と訊いてみると、「『俺が作れるから』って笑顔で言われた」と菜音はあたしが仕上げたゆでたまごをつぶす。幹乃意外と言うな、とパンを切りながら笑ってしまうと、「希由里は利琴に作るの?」と逆に訊かれる。
「あえて作ることはないけど、親の留守とかで作ってあげなきゃいけないときはあるな」
「幼なじみクオリティか」
「自分の弟と妹にも作るし、利琴の弟にも作るし、料理はそれでできるようになっただけだよ」
「私はひとりっこで、おかあさんが全部やってくれるんだよなあ」
「そんなもんでしょ。ま、あとで知られて幻滅されるよりいいのかも」
「幹乃のおかあさんにはまだ知られてないから、そこが怖い」
「そこは知られる前に努力できるはずだ」
「包丁なんて一歩間違えれば流血じゃん……」
 ぶつぶつ言いながら、菜音はつぶしたゆでたまごにマヨネーズと塩胡椒を和えていく。あたしは肩をすくめてミックスサンドイッチに使う野菜やハムも切って、それを菜音がケチャップやマスタード、スライスチーズを使いながら仕上げていく。
 奥さんに借りたバスケットのお弁当箱に、野菜からジャムまで、色も味もたくさんになったサンドイッチを詰めると、店内にもう幹乃は戻ってきていた。どうやら、旦那さんに野原への道順を教わっている。
 あたしは利琴に電話をして「利琴待ち」と伝えると、『果物屋にあったいちごと、ピンクのワインでいい?』と返ってきた。確かに、探すといってもコンビニもスーパーもないだろう。「お酒あるならいいよ」と答えると、『戻りまーす』と利琴も帰ってくることになった。
 表に出ると、白の軽トラが店先に停まっていて、あたしと菜音はそわそわとざわめく。
「菜音が助手席乗る?」
「幹乃が運転ならそうなるのかな。うーん、でも、一度こういう荷台で揺られてみたかったんだよね」
「じゃあ、助手席は利琴に任せようか」
「いいの?」
「うん。どうやって乗るんだろ」
 あたしと菜音が軽トラの周りをうろうろしていると、旦那さんが出てきて、後部のアオリを下げて乗せてくれた。
 そうこうしていると利琴が戻ってきて、桜色のボトルが綺麗なロゼワインと新鮮そうないちごをふくろいっぱい見せてきた。あたしと菜音が預かろうとしたけど、荷台はかなり揺れるそうだから、助手席の利琴が引き受ける。幹乃もやってきて運転席に乗りこむと、「じゃあ一日借ります」と旦那さんに挨拶して、いよいよ軽トラが動き出した。
 今日も穏やかな太陽に青空が広がり、ほんのり暖かい風が肌に優しい。特に砂利道を走っているわけでもないのに、荷台の揺れは確かに激しかった。「やばい」とあたしと菜音は笑いながらアオリにしがみついて、森林の中に入って木の匂いがする道を軽トラは進んでいく。
 鳥がたくさん鳴いているけど、聞き慣れたすずめや鳩の声ではなく、すがすがしく聴こえる。続く金色の木漏れ日の中は、たとえばまばゆい深海のように神秘的だ。森の中を進むほど、道は道でなくなって荷台の揺れも激しくなった。
 それでも菜音と笑ってしまっていると、不意にトンネルが終わるみたいに森を抜けて、黄緑の若草が生い茂る野原に出た。「わあっ」と菜音は鳥居をつかんで何とか立ち上がり、艶々と髪を揺らしながら野原を見渡した。軽トラが停止してから、あたしもポニーテールをなびかせて立ち上がり、荷台から、どうやら盆地になっている野原を望んだ。
 あたしと菜音が荷台を降り、利琴と幹乃も軽トラを降りると、ピクニックセットを広げた。広いレジャーシート、アイスティーの水筒、もちろんお弁当。ちょうど時刻は十二時が近く、あたしたちはわいわいとそれを食べはじめた。
「たまごの塩胡椒がきつい」とか「パンが野菜の水気吸ってる」とか、利琴も幹乃も菜音が作ったぶんを見分けて揶揄って、「希由里の奴だけ食え!」と菜音はむすっとふくれてしまう。
「あたしは材料切っただけだから、ほとんど仕上げは菜音がやってくれたんだよ」とあたしはマーガリンといちごジャムのサンドイッチを食べて、利琴と笑い合った幹乃は、「菜音が頑張ってくれたの分かってるよ」と菜音の頭を撫でた。菜音はじろりと幹乃を見てから、「料理はこれから頑張る」とふくれっ面のまま言った。
 あたしと利琴は目を交わして笑い、「そういえばいちごなんてよく見つけたね」と訊くと、「おお」と利琴はふくろ詰めのいちごと桜のワインを取り出す。
「あ、そうだ。ワインあるんじゃん」
「私たちって未成年じゃないの、まだ」
「俺と希由里は普通に飲むぞ」
「俺は運転あるからやめとく」
「じゃあ、私はちょっとだけ」
「あたしは飲むー」
 紙コップにピンク色のワインを分けると、ふんわりと果物の香りがして、口にすると瑞々しい甘い味がした。ドライビールとかをよく飲む利琴は、「甘っ」と口に合わなかったようだけど、「あ、おいしい」とお酒を普段飲まない菜音には合ったようだ。「女子で飲め」とそんなに大きくないボトルをあたしたちに押しつけ、「ビール欲しいな」と幹乃に同意を求め、幹乃は肩をすくめている。
「これ飲まないなら、紅茶で我慢しなさい」
 あたしが水筒を差し出すと、「ちぇー」と言いながらも利琴はアイスティーを飲み干し、「ん」と水筒を幹乃に渡す。幹乃も紅茶なら受け取って飲んでいた。
 それから、「何かふわふわしてきた」と言った菜音を、幹乃は助手席に座らせて休ませた。そして、今度は男子ふたりが荷台に乗って「けっこう高いなー」とか遊びはじめる。あたしは何だかんだで空っぽになったお弁当や水筒やワインの空き瓶を片づけ、レジャーシートは残して腰を下ろす。
 へたをちぎりながら、利琴の持ってきたいちごを食べた。噛んだ瞬間は酸味が強いけど、果汁と後味は甘い。
 風が吹くと緑がざあっと音を立てて、海のように波が抜けていく。蒸すような草の匂いより、まだぽかぽかとした日射しの匂いが強い。無意識に幼い頃よく歌った童謡を鼻歌して、途中でつっかえていると、つっかえていた先の歌詞が背後から聞こえた。
 顔を上げると、幹乃だった。「あれ、利琴は?」と訊くと、「荷台で寝落ちた」と答えられて笑ってしまう。助手席の菜音も眠ってしまったようだ。幹乃はあたしの隣に腰を下ろして、「はい」とあたしはいちごのふくろをあいだに置く。「ありがと」と幹乃はいちごをひとつ手の中に転がして、へたをつまんで果実を食いちぎる。
「さっきの歌」
「ん? ああ、課題にあるらしいの」
「課題」
「あたし、保育科でしょ。ピアノが必修なんだよね」
「弾けるのか?」
「菜音が料理を理解できないレベルで弾けない」
「やばいじゃん」
「まあね。菜音が特訓してくれる約束」
「ああ、菜音はキーボードもやるよな」
「菜音は菜音ですごいと思うんだよね。料理できないのなんて、かわいいもんだよ」
「そうかもな。俺も久しぶりにギター弾きたいなー」
「ん、幹乃ってギター弾けるの」
「菜音みたいに人前でやるレベルじゃないけど。趣味」
「そうなんだ。知らなかった」
「ずいぶん弾いてないから、今やったら、ほんと今の童謡くらいしか弾けないかも」
「あれって昔、三番まで歌詞憶えてたのになあ。いざ歌ってみると、メロディも分からなくなってる」
「昔の歌ってそんなもんだよ」
「でも聞くと思い出すよね。助かりました」
「いえいえ」
 幹乃はいちごをつまんで口を含み、へたからちぎり取る。
 穏やかな風に幹乃のさらさらの髪が揺れて、凛とした眉や切れ長の目、綺麗な顎の線を見て、菜音がひと目惚れしただけあって綺麗だなあと思う。「ん?」と視線が来ると首を横に振り、「さすがにコンデンスミルク欲しい」とつぶやくと、幹乃はおかしそうに笑った。
 夕方が始まりかけて、あたしたちはやっときちんと片づけをして、野原をあとにした。今回は菜音が助手席に乗って、あたしは利琴に支えられて荷台に立ち、鳥居をつかんで走る風にさらされた。利琴があたしの髪を梳いてきて、あたしは右腕は利琴の腕に絡める。
 森の中は朝ほど鳥の声が飛び交っていなくて、沈んでいく夕暮れがほの暗い木漏れ日になっている。朝みたいにきらきらしていなくて、ちょっと不気味さもある。でも怖くなってくる前に森を抜け、波の音にも気づいていると、温かい明かりを灯す喫茶店にたどりついていた。
 借りたものを返して、喫茶店の旦那さんと奥さんにお礼を言うと、あたしたちは夜道を歩いてホテルに戻った。時刻はちょうど十九時過ぎで、ディナーの時刻だ。
 いったん部屋に戻ってひと息ついたけど、「飯食ってからのんびりしたほうがいいだろ」と言った利琴にうなずいて部屋を出る。ノックで菜音と幹乃も連れ出すと、あたしたちは今夜も海鮮も添え物もおいしいディナーを食べた。
「何だかんだで明日の朝には帰りのフェリーなんだよなー」
 今日のメインは天ぷらで、ざくっとエビの天ぷらを食べた利琴が惜しそうに言う。
「早いよねー。あと一日長くしとけばよかった……」
 菜音はタラの芽の天ぷらをおつゆに浸す。
「そんなこと言ってたらいつまでも長居しそうだけどな」
 幹乃は茶碗蒸しをスプーンですくい、ふうっと息で冷ます。
「また四人で来れるといいよね。いつになるか分かんないけど」
 あたしが言うと、「いつになるのか分かんないのかー」と菜音が寂しそうに息をつく。
「どうせなら、今夜は四人でひと部屋で一緒に過ごすか」
 そう言った利琴に、「それもいいな」と幹乃がうなずく。
「何するってわけじゃなくても、適当に映画でも観ればいいし」
「そっか、ここレンタルできたよね。昨日ファイル見たけど、観たいのいくつかあったー」
「じゃあ、放課後だらだらして、先生に追い出されたときみたいに過ごしますか」
 くすくす笑いをこらえて、高校時代によくあったそれを引き合いに出すと、みんな笑ってしまう。
 そんなわけで、あたしたちはディナーを終えると、どちらの部屋に溜まるか考え、結局あたしと利琴の部屋で過ごすことになった。テレビの下のチェストにファイルがあって、受信レンタルできる映画のラインナップが並んでいる。利琴は部屋の備えつけの冷蔵庫からコーラを取り出して、カウチに腰かけてそれを飲む。あたしと菜音が決めた映画は、幹乃がフロントに電話してレンタルしてくれた。
 そして部屋の照明を落とし、映画鑑賞会になる。二本目の途中で、「眠い……」と菜音が目をこすりながらつぶやいて、「あたしのベッドこっちだから」とあたしが窓際のベッドを勧めると、菜音はそこに横たわり、いつのまにか眠ってしまった。あたしは幹乃が壁にもたれている、昨日利琴と一緒に眠ったほうのベッドサイドに腰かけて、映画に見入る。
 それが終わる頃には、カウチで利琴も眠ってしまっていた。時刻は零時をまわっていて、でも不思議とそんなに眠くない。暗がりの中、幹乃を振り返ってみると、「起きてる」と訊かなくても返事が返ってきた。
「もう一本くらい観れそう?」
「俺は観れそう」
「そっか。じゃああたしが観たかった奴でいい?」
「ああ。どれ?」
「んー、これ」
 菜音と意見が一致したのを優先して選んでいたけど、もうあたしが選んでいいだろう。「ちょっと重いけどいいかな」と訊くと、「ああ、これ俺も気になってた」と幹乃はフロントに電話をかけてくれる。そして映画が始まると、あたしはさっきより画面に見入った。
 ゲイの男の子が同性から性的虐待を受ける話だった。ひどい仕打ちの毎日の中で、自分を気にかけ、助けてくれる先輩が現れる。男なんて好きにならない。なっちゃいけない。僕は男なんか好きじゃない。男同士なんて穢れてる。そう思うけど、どんどん先輩に惹かれていってしまう。ふたりは一度とても近づくけれど、ふとしたことですれちがってしまう。喪失感が皮肉にも恋心を浮き彫りにしていく。好き。先輩が好き。だからそばにいたい──……
 そのあたりで、さすがにあたしもうとうとしてきた。ラストは見たい、と思いつつもまぶたが重い。頭がゆらゆらするのを頬杖で抑えて、何とか光る画面を見つめる。
 映画のラストは、仲直りすることができて、手をつなぐふたりの男の子だった。その手の温もりがあるから、いままでつらかったけど、もう怖くない。温かい手が作る熱を信じて、生きていける。
 エンドロールが始まると、初めて聴くバンドの主題歌が流れてきて、あたしはベッドに仰向けになった。「無理。眠い」とろれつもまわらず言うと、「二時かあ」と幹乃もベッドに横たわる。「菜音のベッド行きなよ……」と何とか言うと、「眠すぎる」と幹乃は壁際にくっついてあたしとは距離を取っているけど、起き上がろうとしない。一緒のベッドはちょっとダメでしょ、と思ってもあたしも思考回路が動かない。あたしが仰向けで放った右手と、まくらにうつぶせた幹乃の放られた右手が、かすかに触れあっていた。
 さっきの映画がよぎった。結ばれて、手をつなぐふたり。ああ、もしこのままその指と指が絡み合って、手をつないじゃったらどうなるのかな。淡くそんなことを考えて、ぴくんと指が動くと、幹乃の手も少し動いた。ごそ、と小さく衣擦れが聞こえた。
「……つなぐ?」
 あたしはどきっとして、幹乃のほうを見そうになった。けど、目を閉じたまま寝たふりをした。そしたら、抑えた含み笑いがして、「おやすみ」と聞こえてからしばらくして、幹乃の寝息が聞こえてきた。
 どくん、どくん、と鼓動のせいで目が覚めてしまって、あたしはゆっくりシーツを起き上がった。菜音は隣のベッドで寝ている。利琴はカウチで寝ている。幹乃ももう眠ってしまっている。
 何を、一瞬でも、考えてしまったのだろう。幹乃も、何を考えたのだろう。
 分からないけど、何となく、やっぱここでずうずうしく寝るのはダメだ。あたしはベッドを降りると、ふらつきそうになりながらカウチに移った。利琴の隣に腰を下ろして力を抜き、「利琴」とささやいた。「んー」と利琴は寝ぼけてあたしを抱きしめる。利琴の匂いがする。そう、あたしにはこの体温だ。ほんの一瞬、よく分からない引力に引かれたみたいに揺らついたけど、逆らって正しかった。
 翌朝、物音がしておぼろげに起きて、寝ぼけ眼の向こうで菜音と幹乃が部屋を出ていくのが映った。あたしは利琴の胸にしがみつく。すると、「きゅーちゃん」と寝言を言って利琴はあたしを抱いた。そんな利琴があたしはやっぱり愛おしいと思った。そう、あたしにはどうしてもこの男なのだ。
 朝、支度を整えて朝食を取り、八時にチェックアウトする。その時刻に、毎日あたしたちの街に近い港まで往復するフェリーがやってくる。「もう現実しか残ってないー」とか言う菜音に笑いながら、入船が始まると四人でまたツーリストに溜まる。今度は夜に向こうに着く予定だ。
 四人ぶんの荷物を固めながら、「昨日のどきどきしたよなー」と幹乃が言った。「何かあったの?」ときょとんとする菜音に、どきりとする。「最後に観た映画がすごい良かった」と幹乃はさらっと言って、あたしはつい息をついてしまう。まったく、紛らわしい奴だ。「どうした?」と利琴があたしを覗きこんできて、その瞳に映る自分のすがたに、「ううん」とあたしは微笑んで彼に寄り添う。
 昨夜一瞬揺れた心は一度きり、そのときにしか見れなかった万華鏡の色彩のようなものだ。まあ、その気紛れはそれはそれで魅力的だったかもしれないけど。それでもあたしは、こいつの眼鏡越しの瞳にいる自分が好き。昔から一緒にいて、甘えるみたいにあたしを抱きしめる利琴が好き。
 万華鏡のうつろう一瞬なんかに心惹かれて、この幸せを壊したりするもんか。あたしが手をつなぐ相手は、この男だって、もう決まっているんだから。

 FIN

error: Content is protected !!