一日が過ぎて
「萌梨くんっ」
いきなり聴覚を抜けた声にはっと目を開けた。拍子に視界がじわっとぼやけ、こめかみに生温いものが伝う。
「あ、起きた。よかった。大丈夫?」
子供の声だ。僕はそちらを向いた。誰かが僕を覗きこんでいる。誰? 知らない匂いがする。僕の部屋じゃない。僕のベッドでもない。誰の部屋? 誰かの部屋で気絶でもしてしまったのか。にしては、軆の痛みが生々しくない。精液の臭いもしない。
「萌梨くん。泣かないで」
その声に、僕を傷つける色はなかった。まばたきをして、涙をはらおうとする。でも、どうしても止まってくれない。頬に柔らかなティッシュが触れた。
「怖い夢、見たの?」
夢? 夢。そうか。何だ。夢。夢だった。夢──
理解すると、速まる鼓動や凍結していた恐怖がやわらいだ。涙もやみ、視界が明瞭になる。まくらもとに座り、僕の頬やこめかみをぬぐっているのは、悠紗だった。
「悠紗……」
悠紗は僕を見た。ティッシュボックスを抱え、心配に泣きそうな目をしている。僕は、無意識にかすかに咲いかけた。悠紗は睫毛をぱちぱちとさせる。
「大丈夫?」
「ん、うん。ごめんね」
悠紗はかぶりを振り、笑顔を向けてくる。ゆっくりと上体を起こした僕も、荒い息遣いをこらえて、口元を笑ませた。頬に流れる涙は、きちんと止まっていない。悠紗にティッシュをもらって、目をこすった。
正直、あまり大丈夫ではなかった。頭痛と吐き気が燻ぶっている。また見てしまった。脳はさまざまな記憶を掘り起こし、心の傷口を痛めつける。おかげで僕は、ぐっすり眠ることにも恐怖がある。
今日の夢も鮮明だった。夢に見ると、信じがたくもある。けれど、覚えている。朝陽をはらむ窓に続く写真も、ばらばらに崩れ落ちる感覚も、すごくからい涙も、無神経に渦巻く爆笑も。僕はあのとき、自分に行われる行為が、人にはお遊びにしか映らないのを痛感した。あれが女の子の陰部であれば、みんな虐待だと認めただろう。男だから、笑われた。男同士なんて、ありえない。男が性的に危害を加えられるなんて、ありえない。そんな常識が、僕の傷口を無邪気に否定した。常識がこの傷を抹殺するのを、あのとき、抱えられないほど思い知らされた。
涙をぬぐって、鼻をすすった。悠紗が僕の服を引っ張る。不安そうだった。僕は悠紗の頭を撫でた。新鮮な髪は指の腹を艶々と流れる。悠紗の濡れた瞳は、背後の陽光を飲みこんできらめきを深めていた。
悠紗は、僕が落ち着くまでそばにいてくれた。僕が何にかきみだされたかは、訊かずにいてくれた。
涙も止まって、心臓も平常になると、ティッシュで鼻をこすった。部屋を見まわし、カーテンが開けられたガラス戸の脇に、ゴミ箱を見つける。僕が立ち上がろうとすると、「捨ててくるよ」と悠紗はぐしょぐしょのティッシュを奪っていった。僕はふとんの上に座り直し、寝ぐせをいじる。戻ってきた悠紗に、「ありがとう」と言うと、「へへ」と悠紗は照れ咲いした。
「びっくりしちゃった」
「え」
「萌梨くん、いてくれると思ってなくて」
「あ、うん。邪魔かな」
「ううん。嬉しいよ」
「そっか。聖樹さんが泊まっていいって言ってくれて。あ、聖樹さんは?」
「お風呂だよ」
こんな朝に、と思っても、よく考えれば僕のせいかもしれない。悠紗を寝かしつけたあと、僕の相手をしなければ、恐らく聖樹さんは昨日にそうしていた。
掛け時計の針は、十一時に届きそうだった。南中に近い太陽が、レースカーテンに濾されて、さらさらとフローリングに散っている。よろめきそうなのをこらえて立ち上がり、ふとんを片づけた。どこにしまえばいいか分からず、まとめたものは隅にやっておく。放りっぱなしの旅行かばんも隅にやり、そのそばに座った。悠紗はキッチンに行って、冷蔵庫を覗いている。僕はカーテンの隙間から、ガラス戸の向こうの澄んだ晴れ模様を仰いだ。
今日は修学旅行の最終日だ。午前中は自由時間で、昼食をこちらで取れば、新幹線で向こうに帰る。同級生はそうするだろう。先生たちは分からない。僕が消えたのは発覚しているはずだ。探しまわっていると思う。見つかったら叱責では済まない。帰りたくない要素は、時間が経つごとに増えている。
引き戸が開く音がし、奥を向いた。格子縞のシャツを羽織って、ジーンズを穿いた、髪を湿らす聖樹さんだった。僕を見ると、昨日と変わらない微笑をくれる。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
僕の挨拶は、どうしてもぎこちない。
「あ、ふとん片づけてくれたんだね。ありがとう。眠れた?」
「はい」
寝起きは最悪だったが、眠ったことに変わりはないし、言っても報われない。聖樹さんの声を聞きつけ、「お腹空いたあ」と悠紗が走ってやってくる。
「はいはい。萌梨くんも朝ごはん食べるよね」
「あ、そう、ですね。お願いします」
ずうずうしいかな、と思っても、聖樹さんは気にしたふうもなくキッチンにむかう。断りまくるのも感じ悪いかな、と思っておいた。
エプロンをつけた聖樹さんは、冷蔵庫を開けたりフライパンを出したり、手際よく朝食を用意する。悠紗は背伸びをしてキッチンをきょろきょろし、聖樹さんが出したソーセージをつまみ食いする。そして怒られているさまは、何だか微笑ましい。所在ない僕に、「顔でも洗ってきたら」と聖樹さんは勧めた。そうさせてもらうことにした僕は、かばんの中のタオルを取って、奥の引き戸に向かった。
白い壁に淡い水色のクッションフロアの洗面所は、ボディソープの匂いがしていた。聖樹さんがバスルームを使ったせいだろう。洗濯機もあり、いくつかの洗剤がその足元に寄り添っていた。
目を覚ましたかった僕は、水色へとレバーを捻った。あふれた水に指をかざすと、ひんやり冷たい。長めの袖口を折り、手に水を溜める。それを何度か顔にかけ、タオルで水滴を拭いた。ふと、夕べ聖樹さんに言われた台詞がよぎる。目の下が真っ黒。取れているだろうか。やや躊躇い、正面の鏡に顔を上げる。
隈は、完全には取れていなかった。白い肌は蒼ざめ、瞳も暗い。僕はこの特徴のある目が大嫌いだ。大きくて目尻が切れこんで、暗闇の雌猫みたいだ。別に不細工ではないのだけど、嫌いだ。おかあさんにそっくりだ。おかあさんもこんな目をしていた。僕が前髪を伸ばして目を隠しているのは、人と視線を合わせたくないのと、水面やガラスでこの目と見合いたくないのが理由だ。この顔を好きになれない。顰めがちな眉も、蒼白い頬も、噛みしめてばかりの唇も。この顔は作りでなく表情に支配されている。鼻や顎の、それなりの線には存在感がない。僕の顔は、いつも疲れていて、暗い。
リビングに戻ると、悠紗がテーブルにふきんを走らせていた。こちらに気づくと、「待っててね」と笑んでくる。僕はうなずき、タオルをかばんにかけた。聖樹さんに言われる通り、悠紗はてきぱきと朝食の準備を手伝っている。
聖樹さんは手間なく朝食を作りあげた。バターの匂いが柔らかなスクランブルエッグ、きつね色のトースト、うまく焦げたソーセージ、洋風の朝食だ。僕は家族のひとりみたいに食卓につかせてもらう。
「今日、おとうさん何してるの。お洗濯?」
銀のスプーンに半熟のスクランブルエッグをすくう悠紗に、「そうだね」と聖樹さんはうなずく。
「あと、掃除もしないと」
「手伝おっか」
「いいよ」と聖樹さんは咲って辞退する。
「萌梨くんとゲームでもしてて」
「そっか。うん」
悠紗はスクランブルエッグを頬張って飲みこむと、コーンスープに口をつける僕を向く。
「萌梨くん、何のゲームしたい?」
「え。あ、ゲームしたことない」
「そなの。おもしろいよ」
「どんなのするの」
「んー、僕はRPG。長編のが好き」
と言われても、僕にはどんなものか分からなかった。「やって見せて」と言うと、悠紗は得意げにうなずく。聖樹さんはそんな悠紗と僕の会話を邪魔せず、微笑ましそうにコーヒーに口をつけていた。
穏やかだった。ふたりとも僕に「帰れ」とか言わない。気遣いか許容か、どちらなのかは読めなくても、僕の気持ちは楽だった。もし少しでも厭われたら、過敏な神経がこんなふうにのんきに座っていたりさせない。
朝食が終わって、食器を洗った聖樹さんは、悠紗への返答通り洗濯を始めた。「萌梨くんのも洗おうか」と言われ、無論遠慮する。僕は今日の夜か、せいぜい明日にはここを出ている。単にこれ以上迷惑をかけたくないのも、あんな精液の染みついた服をさしだせないのもあった。
テレビの横のラックをあさっていた悠紗は、ひとつ選び出すと、ゲームの本体に入っていたソフトとそれを入れ替えて、電源をつけた。
「ゲーム、ほんとにしたことないの」
悠紗はクッションの上に座り、へこんだそれは即席ソファとなる。
「ん、うん」
「そっか。じゃ、沙霧くんがいたらよかったね」
「沙霧、くん」
「ゲーム上手なんだ。僕、いっぱい教えてもらうもん」
「友達なの」
悠紗はこくんとして、小さい手でコントローラーを握ってボタンを押した。友達。いるのか。でも、そういえば、悠紗と聖樹さんも親子より友達という感じだなと思う。
オープニングを飛ばし、悠紗はデータを読みこんだ。テレビは勝手に流れるもの、という固定観念のある僕は、そこに映るものを操作できるのは妙な感じだった。綺麗なグラフィックの街並みを、数人連なった列が、行き来する人を縫って駆け抜けていく。
地図に出たキャラたちが、洞窟の奥に進んでいくのを眺めていた。「見てるのじゃつまんないでしょ」と言う悠紗に、かぶりを振る。めずらしさもあっておもしろかった。僕は息抜きにも体力が要って、だが、何もせずにぼんやりするのも重たい。このぐらいがちょうどいい。僕が楽しんでいるのを理解すると、悠紗もときおり説明をくれるだけになった。消費を最低限に留め、一行は魔物を倒していく。
悠紗と僕が画面を覗く後ろを、洗濯物がいっぱいのかごを提げた聖樹さんが通って、ガラス戸の鍵を開けてベランダに出ていく。数回に渡ったそんな洗濯が昼前に終わると、昼食がはさまれた。エビピラフだった。僕も遠慮がちにながら食べさせてもらった。冷凍食品をフライパンで解凍しただけのものだったけど、おいしかった。
昼過ぎからは掃除が始まった。聖樹さんが掃除機をかけると、悠紗は自発的に退き、立ってゲームを続ける。僕も慌てて退いた。掃除。ふと、昨夜の聖樹さんと悠紗の会話が思い返る。十三日の金曜日に帰ってくる、とかいう話だ。何なんだろ、と思っても、悠紗はゲームに熱中しているし、聖樹さんは掃除をしている。邪魔できず、またもや疑問は葬られた。
そうこうしていると、短くなる日にガラス戸の向こうはすぐ夕暮れに染まった。「疲れた」と悠紗はゲームをやめて横たわって、家事を片づけた聖樹さんも、テーブルに頬杖をついて新聞に目を通していた。僕は窓ガラスを見ていた。橙々色のような、桃色のような、晴れた夕暮れは、微妙に紺色を入り混ぜて、夜に移り変わっていく。
みんな新幹線で向こうに発っているだろう。昨日やおとといには、考えてもみなかった。自分が予定を破り、ここに残っているなんて。
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