陽炎の柩-8

白い光の中で

 今年のゴールデンウィークは、週末と重なっていた。しかし、いつもの休日と変わらず惰眠していた飛季は、後頭部をどんどんという耳障りな音に引っぱたかれた。うめいて顔を上げると、空気は蒼く、どうやら早朝だった。
 痛む眼球をまぶた越しに抑え、朝っぱらに仏頂面になる。音は続いている。何なのかと部屋に首をまわすと、玄関からだった。どうも、ドアを連打している音だ。せめてチャイムにしろよ、と内心で毒づきつつ、飛季はベッドを降りる。
 犯人は誰なのか、それを考えるには頭の接続が終わっていなかった。とにかく音を止めたくて、ドアを開けて──そういえば誰だ、と思った。
 答えは目の前にいた。緑の毛布をかぶった、実摘だった。
 頬が引き攣った。ドアを閉めようと思っても、本人を眼前にすると、誓った黙殺が実行できなかった。
 実摘は飛季を見つめたのち、手招きした。この子には流されるしかない。それは学習していた飛季は、スニーカーを突っかけて彼女がしめすところに行った。
 実摘は、飛季の部屋番号のネームプレートを指さした。面倒なので、何も入っていない。
「これが──」
 声がかすれていた。咳払いして、喉を整える。
「これが何か」
 実摘は長い睫毛をまじろがせ、首をかたむける。
「名前」
「え」
「名前ないの」
 飛季は実摘を見つめ、「ああ」とつぶやいた。そういえば、名前を教えていなかった。
「桐月飛季だよ」
「きりづきひとき」
「うん」
「ヒトキ……」
 実摘は口の中で飛季の名前をくりかえし、ひとりうなずくと、消化した。
 毛布を脱いで腕にかけた実摘は、部屋に入ろうとした。止めようとしたが、彼女は小さな軆を丸めて飛季の腕の下をくぐってしまう。靴を脱ぎ捨て、部屋に侵入した彼女に、飛季は息をついた。
 誰にも見られていなかったのを確かめ、ドアを閉めて鍵をかける。
 部屋に戻ると、実摘はベッドサイドに腰かけ、折りたたんだ毛布をリュックに丁寧に押しこんでいた。
 飛季はぼさぼさの髪に指を通し、こまねいて右脚に重心をかけて突っ立つ。実摘は飛季の服を着ていなかった。
 毛布がすっかり収まると、実摘はリュックの綿布に優しい愛撫をして、床に下ろす。そして、そのまま飛季が安眠を貪っていたベッドにもぐりこんだ。
 眠り足りない飛季は、急いで止める。腕をつかんでベッドからおろそうとすると、実摘は唸ってむずがった。
「待てよ。俺の部屋はホテルじゃないんだ」
「眠いよ」
「家に帰ったら」
「ここだもん」
「は?」
「決めたの。ここが僕のおうちなの」
「いや、決めたって」
「決まったの。もう変えないの」
 飛季が唖然としていると、実摘は飛季の手を振りほどき、ベッドに再びもぐりこんだ。止める間もなく、ブランケットで身をくるんで胎児のかたちになる。声をかけても、反応もよこさない。そのうち、彼女は本気で眠りに落ちてしまった。
 何なのだ。この少女は、いったい何様なのだ。十も年上なのに、完全にこちらが振りまわされている。情けないやら恥ずかしいやらで、飛季はのろのろと床に座りこむ。
 左頬をまくらに埋める実摘は、寝顔をこちらに向けていた。言動は風変わりであっても、寝顔はあどけない。安息した寝息や、それを生む桃色の唇も幼い。
 その寝顔を見つめて、飛季は不覚にもかわいいと思ってしまった。その直後に恥ずかしくなる。顔を伏せて、ベッドには背を向けると、長いため息をつく。
 眠かった。外は薄暗く、朝陽も射しこんでいない。実摘の柔らかな寝息が眠気を誘う。
 あくびを噛んだ。まぶたも重くなり、眼球をさらしているのがつらくなる。首を垂れた。意識が遠くなっていく。眠ったら、この子は何をするか分からない。見張っておかなくては──
 そう思ったときには、眠気にそのまま襲われていた。
 どれくらい居眠りをしてしまっただろう。ふと胸に重みが横たわって、飛季は軽くうめいて、重みを追いやろうと軆を動かした。すると、うまく動けない。おぼろげに疑問を感じ、ぼやける頭を揺すった。
 目頭を揉もうとすると、肘に温かいものが触れる。何だ、と目を開けてみて息を飲んだ。飛季の胸の中には、栗色の髪の人間の頭があった。
 一瞬混乱したものの、すぐにそれが実摘だと気づく。ほっとしたのも束の間、混乱は続く。
 なぜ彼女が、こんなところで眠っているのか。彼女に勝手にベッドで占拠されたので、自分は床で眠ってしまったのではなかったか。
 とりあえず、軆を離そうとした。すると、実摘は飛季の軆にしがみついてきた。腕や脚を絡められ、こちらの動きも制御する。
 困り果てていると、実摘が胸に鼻をこすりつけてきた。見下ろした拍子に彼女が顔を上げ、顔が重なりかける。どきっとして、飛季は露骨に顔を背けてしまった。
 深呼吸して、ほてりかけた頬を鎮める。実摘に向き直った。くるんとした瞳は、何度かまばたいて飛季を映していた。
「何、してんの」
 飛季の問いに、彼女は首をかたむける。
「君、ベッドで寝てなかった?」
「寒い」
「は?」
「飛季、寒いでしょ。あっためたの」
 いきなり呼び捨てだ。面食らったものの、飛季さん、などと呼ばれても気味が悪い。
「あっためたって」
「起きたらね、飛季がここで寝てたの。おふとんかぶってないの。寒いでしょ。僕、ぽかぽかなの」
 ずいぶん言葉が抜けている。何十秒か咀嚼して、座って眠る飛季を寒いだろうと気にして、温かい軆をくっつけた、と解釈した。ブランケットをかけてくれたらよさそうなものだが、それはベッドでくしゃくしゃになっている。
 ともあれ、彼女なりの厚意だったらしい。飛季は、ぎこちなく礼を述べた。実摘は無表情にうなずき、飛季の膝を降りた。内心ほっとした。
 部屋には、昇った太陽の光が満ちていた。寝汗にべたつく前髪をはねやり、ベッドスタンドの時計を覗く。九時過ぎだ。
 飛季の隣に座りこんだ実摘は、リュックを抱えこむ。出ていく気はないようだ。肩を縮めて、窮屈そうにリュックに顔を埋めている。
 実摘の白いうなじは、朝陽の粒子を金色に踊らせる。何となくそこに目をやった飛季は、はっと息をつめた。その実摘の首筋には、赤紫の痣があった。きつい口づけの痕のような──
 実摘は顔をあげた。すでに飛季を映したときのくるくるした輝きはなかった。あのひたすら深い鬱血がとどこおっている。その目が飛季を捕らえる。
 取りこまれそうな不安が生まれ、飛季は苦し紛れに立ち上がった。飛季に合わせ、実摘の首は折れ曲がる。
「腹、減ってない?」
 実摘は、まばたきもかなり重たい。
「食べるなら、君のぶんも作るよ」
 実摘は静かに首を縦に振る。飛季は彼女の視線を逃れて、キッチンに行った。朝食を用意しつつ、彼女を盗み見ると、実摘は床に這いつくばっていた。
 彼女はまとう空気がころころ変わる。多重人格ではなさそうだが、それと遠くない感じがある。数分前の無邪気で不可解な言動と、目下の重苦しく陰鬱とした塞ぎこみは、同一人物とは思えない。切り替わる基準も謎だ。
 おととい、実摘に部屋を荒らされたのが思い返る。あのときも、飛季が知らない面が暴れ出たのだろうか。
「飛季」
 ぽつりと実摘の声が聞こえ、たまごを溶いていた飛季は彼女を見返った。
「何?」
「陽炎って、知ってる?」
「………、暑いときとかの」
「うん、………、熱いとゆらゆらするの。寒かったら、ない」
 飛季は手を止めた。実摘は床に顔面を押しつけている。
「僕は、寒いよ」
 黙然とした。そして、すぐに壊れた。いきなり、実摘が悲鳴混じりに泣き叫びだした。
 わっと哭して、静寂にいびつな亀裂が走る。腕で頭を抱えこみ、自分を守るように泣きわめく。「嫌」という言葉が入り混じる。大声の悲鳴は壁を跳ね返って、飛季の聴覚に反響する。
 飛季は溶きたまごのボウルを置いて、彼女に駆け寄った。
「実摘──」
 実摘はびくんと震え上がった。高まる嗚咽に喉がつづまり、彼女は咳きこんでいた。
「実摘ちゃん」
 彼女のぴくぴくしていた肩が止まる。実摘はそろそろと顔を上げた。綺麗な顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃだ。飛季は、彼女のそばにひざまずいた。
「……飛季」
 涎の垂れた口元に、何か返そうとした。何も言えなかった。彼女が何に怯えたのか、何に傷ついているのかも分からない。実摘の心の裂けた闇は覗けない。ただ見つめることしかできない。
 実摘は脱力して、床にぐったりとした。飛季は濡れた前髪や涙をぬぐってやった。
 実摘は飛季を見つめる。飛季も黙って彼女に瞳をそそぎ、栗色の髪を撫でる。実摘はまぶたを下ろし、飛季の愛撫に痙攣する嗚咽を落ち着かせていった。
 長らく、そうしていた。実摘の開いた傷口にかさぶたができるまで、ゆがみ濡れた瞳が暗い停滞に収まるまで、飛季は彼女につきあった。「お腹空いた」と実摘がつぶやきを空中に投げるまで、その髪の手触りに酔っていた。
 キッチンに戻り、放置していた溶きたまごをフライパンに流しこむ。シーチキンの缶詰を開け、それでオムレツを作っていると、実摘が背後にやってきた。服の裾をつかまれ、飛季は振り向く。
「どうかした?」
 実摘はうつむいている。上がった湯気が手首にまといつく。オムレツを引っくり返そうとフライパンを向いたとき、実摘が背中に抱きついてきた。
 心臓が跳ねる。
「な、何」
 実摘は押し黙り、答えなかった。背中に頬を密着させている。飛季は息をつき、したいようにさせた。バターの匂いが満ちていく。実摘の腕が腰にまわる。
 何となく、分かった。彼女は自分を飛季に押し倒させようとしている。飛季には、その意図に乗る情欲があった。何とか殺そうとしている。彼女の細い息遣いが、服越しに背骨をさする。
 オムレツができあがったのを口実に、実摘と軆を離した。実摘はたたずんで、飛季を見つめる。
 食べれるかを問うと、彼女はこっくりとした。飛季はフライパンのオムレツを皿に移すと、彼女に渡した。実摘は首をかしげ、ぼそりと訊いてくる。
「半分こ」
「え。いや、俺のも作るよ」
 納得したらしい実摘は、足の裏を引きずってミニテーブルに歩み寄った。彼女が床に腰をおろし、フォークでオムレツをつつきはじめるのを飛季は見守る。身をかがめる背中は塞ぎこんでいて、重たかった。
 飛季も手早く実摘と同じものを作ると、彼女の正面に皿を置く。置きっぱなしだった教科書やノートは床にやった。飲み物は飛季はコーヒーで、実摘にはポタージュスープを渡す。コーヒーがよかったかを問うと、実摘は飲めないと答えた。
 黙りこくった食事になる。かちゃかちゃという音が妙に気まずい。実摘が先にオムレツを食べ終わり、ずるずるとスープをすする。瞳は分裂し、何を捕らえているのか分からない。
 飛季がスプーンでオムレツをすくっていると、実摘は不意にこちらに視線を統一させた。見つめ返すのを拒否していると、実摘はもそもそとすりよってきた。
 飛季は軆を硬くさせ、心持ち離れる。実摘はあきらめずに飛季にくっついてくる。
「実摘ちゃん──」
「実摘」
「え」
「実摘でいいよ」
「………、実摘、その──」
 実摘は飛季の膝を捕らえ、その股ぐらに顔を埋める。彼女の細い指先が股間にもぐりこんで、飛季は腰を引いた。
「応えられないんだ」
 実摘は、飛季の股間に頬を当てる。
「おっきくなってるよ」
「なってない。金を期待されたって、」
「いらない」
「え」
「いらないよ。僕、お金、欲しいときしかいらないの。今、いらないの」
 実摘を見る。彼女は飛季の性器に頬をすりよせている。その息は震えて、熱がこもっている。
「金が欲しくないのに、男とするわけ?」
「うん」
「何で」
「淫乱だから」
 さらりと述べられ、とっさに受け止められなかった。ぽかんとする飛季に、実摘はくすくすと続ける。
「淫乱なの。男が好きなの」
 実摘は飛季の性器にジーンズ越しに口づけている。数年、自分の手以外には与えられなかった感覚が走る。
「淫乱、って」
「男にされるのがいいの。好きなの。いっぱいするの。気持ちいいの」
「俺、は──」
 淫乱なんかじゃない。拒絶しようとしても、声が出ない。声を発するには、渦巻く実摘への欲望が喉を乾上がらせる。実摘の首筋には赤紫の痣がある。口づけの痕だ。
 実摘は誰かに抱かれてきた。金と引き換えか、もしくは──
 実摘は軆を起こして、飛季の顔を覗きこんだ。実摘の窃笑がこめかみにしたたって、飛季の脳は錯乱する。唇に柔らかいものが触れた。口の中に、熱く弱い感触が侵入する。視界がぶれて、失神しそうなときの感覚がした。唾液をすする卑猥な音が、白昼の陽射しに飲みこまれる。
 床にじかに横たわった。日光が眼球を刺し、思わず目を眇める。影がかぶってきてそっと睫毛を上げると、すぐそばに実摘の顔があった。
「実摘──」
「して」
「俺、」
「困る人、いるの?」
「え、いや……」
「じゃあ、して」
「でも」
「してよ」
 視覚が蕩けそうだった。かわいい女の子の顔が眼前にある。唇が濡れている。その唇が唇にかぶさる。息を埋め、その口づけを受ける。
 いつ、その口づけが終わったのか分からなかった。気づくと胸をはだけさせられ、肌を愛撫されていた。栗色の髪が鎖骨をくすぐっている。
 たった十五歳。自分は成人。未成年に手出ししたらどうなる? この子供が口をつぐんでいる保証があるのか。平穏でいたければ──
 軆を返した。実摘を床に押し倒す。実摘の陶酔した笑いが視界の端にちらつく。
 飛季は彼女の軆を剥き、きつく口づけた。実摘のかすれた声が、理性を狂わせた。
 飛季はそのまま、実摘を抱いた。実摘の性器に口をつけ、彼女にも自分の性器をくわえさせた。唾液にべとついた勃起した性器を、実摘の体内に押しこんだ。
 実摘は喘ぎ、飛季の背中に脚を絡めて悦んだ。飛季は汗を降らせて息を荒げ、実摘の中を動く。快感を締めつける実摘の熱い内部に、こめかみや頸部が脈打ち、頭の中が白濁する。
 やがて、飛季は実摘の腹に射精し、同時に実摘の軆が大きく痙攣した。

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