陽炎の柩-9

冷暗していく

 たぎっていた部屋が静かになった。ふたつの乱れた息が、静寂を強調する。
 のろのろと実摘と軆を離した。実摘は仰向けのまま力を抜き、肢体を投げだした。飛季は床に座りこみ、深く呼吸した。冷めていく空気に、頭にがんがん響いていた鼓動も鎮まっていく。
 首を垂らした視界に、食べかけの食事が入った。やけに羞恥心を刺激された。まっすぐ射し込んできていた白日の陽射しは、かたむきそうになっている。そんなに長続きしたのか、とぼんやり思った。
 実摘が鈍重そうに起き上がった。目を向けると、彼女は飛季に近寄って、股ぐらに顔を埋める。陰毛に萎えた性器に舌を這わせる。そこに性的な色はなく、しばし考え、後始末をしてくれているのだと理解した。
 飛季は実摘の頭を撫でた。実摘は飛季を上目遣いで一瞥する。飛季の精液が散ったみずからの腹も綺麗にすると、実摘は飛季の腿に頭を乗せて軆を丸くした。
 肩の傷がさらされている。こうして見ると、その傷はかすっただけのものではなさそうだった。生々しく赤黒く、刺したというより、えぐった感がある。そして、首や背中には、たった今の飛季の赤い花に混じり、紫の花が咲き乱れている。
 彼女は何なのだろう。この口づけの痕も、その肩の傷も──
 白くてすべすべした尻が剥き出しになっている。飛季は腕を伸ばし、ベッドのブランケットを取ると、彼女にかけた。実摘は顔を飛季の肌にこすりつけ、睫毛を伏せる。飛季が愛撫の手を休めずにいると、そのうち彼女は眠りこんでしまった。
 飛季は手を引いた。実摘は飛季の脚のあいだで安眠に浸る。この子は、寝顔は本当に無邪気だ。
 そっと実摘と軆を離してブランケットに包まれたその軆を抱き上げる。軽かった。ベッドに寝かせるとブランケットをかけなおし、汗で額にはりついた髪をはいでやる。実摘は目覚めずに寝息を立てている。まだ子供だな、と微笑ましくなる。
 飛季は服を身につけ、残り物を味気なく胃に放った。ぼんやり食器を洗っていると、起こってしまった事態が案じられてくる。
 抱いてしまった。この得体の知れない子供を。誘ってきたのは向こうだとしても、大人の理性をきかせられなかった。部屋に連れこんだだけであれば、どうにか言い訳できていたかもしれない。だが、こうなってはどうにもならない。彼女が、万一、誰かにしゃべったら──
 実摘を見返った。この位置ではベッドスタンドが邪魔になり、覗けるのは向こう側の足先だけだ。
 彼女は、このなりゆきの行為を黙っているだろうか。飛季は彼女を何も知らない。あの奇妙な振るまいがよぎり、吹聴するのではないかと邪推ばかり生まれる。後悔と罪悪感が綯い混ぜになる。
 喪心して夢中になって、彼女を犯した。剥き出しになった欲望を、荒々しくぶつけた。何が跳ね返ってくるか知れないのは、承知していたのに。世間体を気にしたみじめな杞憂が、左右のこめかみをぐるぐるまわる。
 洗った食器を水切りに並べると、ベッドの脇に戻った。床に腰を下ろし、ベッドサイドに背中を預ける。
 実摘の寝息が聞こえる。飛季は放り出した脚に漫然と目をそそぎ、長い息をつく。
 何もする気が起きない。腰がだるかった。セックスが久しぶりだったし、あんなに我を失くしたのは初めてだ。
 飛季の中には、常に冷静な監視がある。実摘を押し倒した瞬間、それがかきけされた。真っ白になり、放心して実摘を抱いた。記憶にもはっきり残っていない。ぶれたりずれたり、そんな映像だ。実摘の喘ぎ声だけ、鼓膜に残像している。
 沈思は深まり、気づくと部屋は陰りはじめていた。飛季は立て膝に肘をつけ、前髪をかきあげた。視界が開ける。ぼやけた脳を揺すって、思考は廃棄した。
 実摘は眠っている。飛季は立ち上がり、どうするかを考えた。シャワーを浴びたかったが、実摘を放置するのは避けたい。
 明日は仕事だ。用意でもしておくかと床に転がるデイパックを取る。ミニテーブルの下に置いた教科書やノートを集め、何となくノートをめくった。
『つめたい
 くらい』
 はがしていなかった。熟睡する実摘をちらりとかえりみる。これを読んだとき、彼女にはもう取り合わず、拒絶すると誓った。
 なのに、こうして部屋をホテル代わりにさせ、肉体関係まで結んでしまった。何してるんだ、と自分であきれる。
 冷たい。暗い。これは飛季のことだ。なぜ、こんなものを残していったのだろう。とりあえずそのページははいで、ミニテーブルに置くと、仕事の用意も終えた。
 ベッドスタンドの中の時計を見た。十六時過ぎだ。
 実摘はまだ眠っているだろうか。かいた汗が、軆にべとついてかなわなかった。シャワーを浴びられたらいいのだし、十分間あればいい。実摘が熟睡しているのを認め、飛季はシャワーを浴びることにした。もし目覚めたとしても、あんなにぐっすり眠っていれば、ぼおっとする時間もあるだろう。
 飛季は洗面所で服を脱ぎ、タイル張りのバスルームに入った。水の張られていないバスタブにシャワーヘッドを向け、湯を出す。湯気の上がった飛沫を軆にかけると、肌が通気していく。
 スポンジにボディソープを垂らそうとしたときだ。唐突に叫び声がした。びくっと手を止め、悲鳴が泣き声になっていくのを聞く。
 実摘だ。
「何だよ」とつぶやいて、飛季はバスルームを出た。下半身には服を身につけ、部屋に戻る。全裸の実摘がベッドの上に座りこみ、天井に泣きわめいていた。ぼろぼろと生まれる涙が、喉で濁流になっている。
「実摘ちゃん」
 飛季が声をかけると、悲鳴が切断された。実摘は首をこちらに向け、「ひとき」とつぶやくと、ベッドを降りる。そして突っ立つ飛季の元に来ると、きつく抱きついてきた。飛季は、彼女の甘えきった行動や剥き出しの白い肉体に狼狽える。
「実摘ちゃん──」
「実摘」
「………、実摘。何か、あったの」
 実摘は身をよじらせた。濡れている飛季の軆にぴったりと身をよせる。彼女の長い睫毛を湿らす水分が、シャワーの雫と混じる。
「実摘」
 実摘は、飛季の胸に涙やよだれをすりつけた。背中にまわった彼女の手のひらは、かろうじて飛季の肩甲骨に届いている。
「実摘、」
「飛季、いなかったの」
「え」
「起きたらね、飛季がいなかったの。びっくりしたの」
 飛季はとまどった。いつもの抽象的な言葉の羅列ではなく、彼女の心の動きはたやすくつかめた。だが、うまく信じられなかった。
 実摘は飛季の胸に鼻をなすりつけている。足元に、水たまりができている。飛季の髪や軆の雫が、ぽたぽた音を立てる。実摘も濡れていく。
 飛季は彼女と隙間を作った。実摘の瞳が不安そうに揺れる。
「濡れるよ」
 実摘は飛季の胸元を見つめ、おとなしく軆を離した。赤紫の花を散らす、青白い肉体が飛季の視界に入る。飛季はぎこちなく視線をよそにやった。実摘は飛季の所作を気遣ったのかどうか、しゃがみこんで落ちている服を着始める。
 飛季も、このなりや水たまりをどうにかしたかった。ひとまずバスルームに戻ろう。濡れた軆に着たジーンズも気持ち悪い。これも替えてしまおうと、クローゼットをあさって服を選んだ。バスルームへの廊下に踏み出し、さりげなく実摘を瞥視する。
 彼女はすでに上半身には服をまとい、鈍重そうに脚にジーンズを通していた。甘えた雰囲気は消え、気だるげな重みがただよっている。
 バスルームに行った飛季は、いったん軽くシャワーを浴び、タオルで全身の雫をぬぐった。快適な服に着替えると、水分の残る髪も雑に拭く。水たまりを掃除する雑巾を手に部屋に戻る。
 着衣した実摘は膝にリュックを抱き、ベッドのそばで床に尻をつけていた。泳ぐ視線は窓を彷徨い、ゆっくりと枝分かれしている。今の彼女なら、飛季がいようがいまいが、ああしてぼんやりしている気がした。
 水たまりに腰をかがめる。雑巾をかぶせると、布地がさっと水気を吸い取る。
 あの子は自分に懐いているのか。そう感じたりしても、ああした様子の変換に、期待はあっさり削られる。でたらめな性格に、飛季は実摘が信用ならなかった。
 雑巾を置きにいくため、バスルームにもう一度行った。そして帰ってくると、さっきの場所に実摘がいなかった。
 帰ったのかと玄関に首を曲げたが、左耳にフローリングに服がすれる音がした。窓辺を向くと、実摘はそこにいた。床に横たわり、透明なオレンジの光に染まっている。もう夕方かと思った。
 飛季はベッドサイドに腰を下ろした。実摘は動かない。呼吸も聞こえない彼女を黙って見つめた。
 彼女の白い肌は降りそそぐ光の色を溶かしている。栗色の髪は夕暮れに透け、金色の微粒子をこぼす。その背中はもろげで細く、金の砂になって、夕焼けにかきけされそうだった。
 光から守ってやりたくなっても、彼女は遊離した空気に包まれている。こちらの空気とのあいだのひずみが、痛々しい排他を行なっていた。
 視線を下げると、足元にデイパックが転がっている。ミニテーブルに残したあの一枚を思い出し、その紙を取りにいく。冷たい。暗い。実摘を振り返る。どういう意味か──など、訊かなくても明確だが。
 ベッドに腰かけてその紙を眺め、ひっそりとした時間を過ごした。実摘の気配はまったく失せていて、ときおり飛季は彼女がいるのを確認した。濃紺に飲まれる空の色に、彼女も埋もれていく。電気をつけなくてはと思っても、立ち上がるのもはばかられた。

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