Kill me, again

 あなたの中で、私は一度死んでしまったから。
 いいよ。ねえ、いいよ。そのままもう一度、私を殺していいよ。
 そして、私のことなんか忘れて、気にすることもせず、生きていっていい。
「……ほんとによかったの?」
 あの日、あんなことがあった場所で、チャコを抱えた夏織かおりちゃんが、こちらを見上げて不安そうに問うてくる。私はうなずく。「でも」と小学生になった夏織ちゃんは私の服を引っ張る。
涼花りょうかちゃん、すごく泣いてるよ……?」
 ──孝人たかひととつきあいはじめたのは、高校の卒業式だった。
 二、三年生のクラスメイトで、たまに話すくらいだった孝人。いつも明るく咲っている彼に好感はあったから、「ずっと好きだった」と告白されたときは、素直に嬉しかった。
 一応ひと晩考えてみて、このまま孝人と他人になるのは嫌だなと感じたから、私は次の日の朝にはもう『私もつきあいたい』というメッセを送っていた。
 通いはじめた大学は違っても、私たちはよく会ってデートをした。そのうち、私のほうが孝人を好きなんだか、やっぱり孝人が私に惚れているんだか、分からなくなるくらい仲良くなった。
「涼花と一緒にいるのって飽きないんだよなー」と孝人は快活に咲い、つないだ私の手を引く。そういう孝人の言葉が嬉しくて、私も咲ってしまう。
 幸せだった。この人となら、ずっとこのままでいられるんじゃないかと思っていた。
 あの日までは。
 二十歳になった私たちは、相変わらず仲の良い恋人同士だった。十月、残暑がようやく終息して、深まる秋の中で気候も涼しい頃だった。
「紅葉が観たいなー」なんて私が言ったから、孝人は景観のいい場所を調べて、電車で連れていってくれた。「もうちょっとで車の免許取れるんだけど」と謝る孝人に、「電車も悪くないよ」と私は微笑む。
 着いた駅からけっこう歩いて、暖色に染まった樹々が鮮やかな山のふもとに到着した。
「山登る?」
「ちょっと疲れたね」
「少し休んで考えるか」
「だね」
 私と孝人はそばにあった純喫茶に入って、優しそうな初老のマスターにコーヒーとケーキを注文した。マスターに山道はきついか尋ねてみると、今は道が整備されてだいぶ歩きやすくなっているらしい。
「痩せるかな」と私が変なやる気を見せると、「登ってみるか」と孝人は気合いを入れるようにうなずいた。
 しかし、道はデコボコしていなくても、登り坂には違いないから、なかなか厳しい道だった。
 それでも、顔を上げると紅葉や銀杏が幻想的なくらいにあふれて輝いていて、「写真撮りたいなあ」なんて言ってしまう。「撮ってもいいんじゃね」と孝人が言うので、私は何枚もその色彩をスマホで切り取った。よく晴れていたので、自然光でいい感じに撮れたから、孝人のスマホにもお裾分けした。
 山頂には休憩所があって、自販機でペットボトルのお茶を買うと、私たちはひと息ついた。
 まだ空は明るいけれど、時間帯的には、あまりゆっくりせずに下山しないといけない。「おりるのはまだ楽だろ」と孝人は言っていたけど、延々と歩くだけだから、ふたりとも脚が痺れはじめてしまった。
「ちょっと疲れたかな、ごめん」
「ううん、紅葉観れてよかった!」
 私がにっこりすると、孝人はほっとしたように笑みを作る。
 駅までの道のりでは、夕暮れが始まりかけていた。「今度のデートは秋物の服とか見にいきたいね」と孝人を見上げると、「すでに冬物が出てるけどな」と彼は笑いながらもうなずく。
「ちょっと安くなりはじめたところだから、買い物するんだよ」
 そんなことを言いながら、私は何となく車道を見やった。行き交う車はそんなになくて、静かなそちらから何か聞こえた気がして──
「あ、待って孝人」
「ん?」
「猫が怪我してる」
 孝人の呼び止める声も聞かずに、私は左右に車がいないのを確認して、車道に踏み出した。茶虎のまだそんなに大きくない子猫で、脚をすりむいている。
 どうしよう。何もしてあげられないけど、こんなところに横たわっていたら轢かれてしまうのは確実だ。せめて歩道に──
 そう思って身をかがめ、その子猫を抱え上げようとしたときだった。
「危ないっ!」
 え?
 孝人の聞いたことのない鋭い声が背中に刺さって、同時に、私は向こう側の歩道まで突き飛ばされた。ついでジープみたいな大きい車が突っ込んできて、あ、と思ったときには、私がうずくまっていた場所に代わりに立って、ほっとした笑みなんか浮かべていた孝人が、一瞬にして跳ね飛ばされた。
 え……え?
 何?
 孝人は車道に頭から倒れこみ、ざあっと一気に血の海が広がる。ジープの運転手が慌てて降りてきて、「やばい」「どうしよ」と錯乱する。
 腕の中で鳴いた猫は、私が腕を垂らすとそのまま地面に着地したものの、やっぱり歩けないのか丸くなった。
「孝人」
 私はようやく彼の名前を呼んで、うつぶせに倒れた孝人の頭のかたわらにひざまずいた。
 金属的な血の匂いが秋風にむせかえる。
 孝人は動かない。
「……孝人っ。ダメだよ。死なないで」
 勝手に涙がどくどくとあふれてくる。スカートに生々しい赤が染みこんでいく。
「孝人」と私はバカみたいに彼の名前ばかり呼んで、その肩を揺すぶっていた。何だか遠くで悲鳴が聞こえた。え、と顔を上げると、あっという間に私たちは人だかりに囲まれていて、救急車のサイレンが毒々しい赤を光らせて、夕闇を切り裂いてきた。
 まだわけが分からなくて、頭がぼんやりした状態のまま、孝人が運びこまれた救急車に私も乗せられた。「この方のご家族の連絡先は分かりますか」とせわしなく手を動かす救急隊員の人に訊かれて、孝人の家族にはまだ会ったことのなかった私は、ゆいいつ手掛かりになりそうな孝人の自宅の電話番号を、わななく声で伝えた。
 ピッ、ピッ、という医療ドラマでよく聞くあの電子音が聞こえてきて、孝人がまだ生きていることを何とか理解した。
 受け入れ先の病院に到着すると、担架に横たわった孝人は、救命室に吸いこまれていった。孝人の血があちこちに染みついたまま、私は茫然と扉の前で突っ立っていた。すると、看護師さんが優しく声をかけてきて、家族に着替えを頼むこと、家族が来るまで休憩室のベッドで落ち着いたほうがいいことを言ってくれた。
「孝人……助かるんですか?」
 私の震える声に、看護師さんは「先生たちが頑張ってくれてるし、彼氏さんも頑張ってるから」と言った。
 孝人。そうだ。私のせいだ。私があの子猫に気を取られて、ジープに気づかなかった。
 孝人、最後に咲ってた。すごく優しく咲ってた。何で? 私のせいで、もしかしたら死ぬかもしれないのに──
「猫……」
「うん?」
「猫を……助けようとしたせいで。あの猫は、無事だったんですか……?」
「それは、ちょっと分からないですね……現場の警察なら分かるかもしれないですが」
「警察……」
 そうだ。孝人は私のせいで事故に遭った。この場合、私は捕まるのかな。いっそ捕まってしまったほうが、罪としてこの事故を償えるほうが、いいような気がした。
 やがて、孝人の家族が駆けつけてきた。私は自分の家族に連絡はしたけども、ベッドでゆっくりするなんて気にはなれず、救命室の前の長椅子にぼうっと座っていた。
 ご両親、それから妹さんが、真っ青な顔で赤く点燈する『手術中』の字を見上げる。まだ中学生くらいの妹さんが、私に気づくと唇を噛みしめて駆け寄り、思いっきり頬を引っぱたいてきた。
「あんたのせいで、兄貴がっ……」
仁美ひとみ、」
「だって、この女のせいなんでしょ!? 警察の人の話だったら、」
 涙を流す妹さんを見上げて、かすれた声でもいいから、ごめんなさいと言おうとした。
 でも、うまく声が出てこない。呼吸さえ苦しい。
「申し訳ないんだが」
 妹さんを抑えた孝人の面影があるおとうさんが、苦渋の表情で私に声をかける。おかあさんは泣き崩れながらも、看護師さんに説明を受けている。
「お引き取り願えますか」
 何か答えたくても、喉がひらつくほどにからからだ。
「私たちは、孝人から君の話だけなら聞いていたが、こんなことになってもつきあいを続けることは認められない」
 脳内が軋んで、おとうさんの言葉をゆっくり飲みこむ。
 ……そうだ。そうに決まってる。私は、孝人の家族にとっても、とんでもないことをしてしまったのだ。
 私はふらりと立ち上がり、本当にかすれきった弱い声で「ごめんなさい」と何とか言うと、頭を下げて廊下を歩き出した。院内は非常燈だけで暗かった。息を吐いて、吸って、誰もいなくなった待合室の椅子に座りこんだ。
 バッグの中のスマホが震えていて、のろのろと手を伸ばすとおかあさんからの電話着信だ。私は虚ろな目のまま、応答ボタンをタップする。
『もしもし、涼花? 病院着いて、今、玄関みたいなところにいるんだけど』
「……おかあさん」
『うん?』
「私……、どうしよう」
『………、大丈夫だから。彼氏って、いつも家の前まで送ってくれてた、あの男の子でしょう』
「知ってたの……?」
『それくらいはね。まずはあんたがしっかりしないと、あの子も頑張れないでしょ』
「でも、孝人の家族に、もうつきあうのはやめてくれって言われたの」
『それは、助かった彼氏自身が決めることだから、気にしなくていいよ。彼氏もあんたを突き放すと思うの?』
「………、咲ってたの……。今から私の代わりに轢かれるのに、孝人咲ってた……」
『涼花──』
「何で……っ、そんな、優しいの。いつも、優しいの。嫌だよ。死なないで。別れたくない」
 涙が再びこみあげてくる。おかあさんは、何とかそんな私から待合室にいるのを聞き出すと、おとうさんも連れて駆けつけてくれた。両親はそのまま私を保護するように家に連れて帰り、明日は警察が訪ねてくるという話をした。
「私、捕まるの?」と訊くと、「捕まるのは運転していた奴だよ」とおとうさんは言ってくれたけど、「私が捕まるほうが正しいのに」と私はまた泣き出した。おかあさんが抱きしめてくれても、嗚咽が止まらなかった。
 次の日の月曜日、私を訪ねてきた警察の人は、思っていた厳しい印象はなくて物柔らかだった。「松崎まつざき孝人たかひとさんですが、命は取り留めたそうなので」とまず言われて、私はどんどん黒いものが蓄積していた心が少し安堵で通った気がした。
 それから、事故が起きた経緯などを確認された。例の子猫のことを訊いたけれど、分からない、現場では見なかったと言われた。「そうですか……」と落ちこむ私を見て、警察の人は最後に「涼花さんにも心のケアが必要だと思うので」とカウンセリングに行くことを勧めて、帰っていった。
「おかあさんもそう思うけど」とおかあさんはカウンセリングについて言ったものの、私はかすかに首を横に振った。
「命が助かったのは、本当によかったね。大学はしばらく休んでいいから、お見舞い行ってみたら?」
 私はうつむき、「私が、行っていいのかな」と不安が混ざった声で言う。「改めて、ご家族に謝るのも必要だよ」とおかあさんは私の肩をとんと励まし、心許なくうなずいた私は、「明日行ってみる」と弱い声音ながらつぶやいた。
 しかし、孝人は家族以外を面会謝絶の状態だった。受付の人も、孝人の詳しいことは教えてくれなかった。
 命は取り留めた、と警察の人は言っていた。でも、目が覚めたかは分からない。もう無事安定しているのかも分からない。まだ危ない状況なの? 命は助かっても、どこかに障害が残ったりしそうなの?
 いろいろ考えても、私には孝人の現状を知るすべはなかった。
 まっすぐ帰る気になれなかった私は、忌まわしいはずである事故現場になぜかおもむいていた。駅から現場へ、たった数日前に孝人と咲いながら歩いた道をたどる。
 そうしていると、あの日孝人と交わした会話がよみがえり、また胸が締めつけられて泣きそうになってきた。そして、事故が起きた場所が前方に見えてきたとき、そこに座りこんでいる子供がいることに気がついた。
 何だろう、あの子──
 そう思いながら近づいた私は、その女の子が腕に抱えているものにはっとした。茶虎の子猫。私が立ち止まったのと同時に、女の子はこちらを向いた。
 まだ小学生にもなっていないぐらいの、幼い女の子だ。
「……その猫」
 私がそうこぼすと、女の子はまばたきをしてから、「もしかして、こないだの」と立ち上がって駆け寄ってきた。
「こないだの、事故の……人ですか?」
「……うん」
「あ、えと……私、花田はなだ夏織かおりっていいます。この子はチャコっていって、私の家の猫なんですけど、迷子になってて、こないだ、ここでこの子を助けたおねえさんが事故になったって」
 女の子の腕の中の子猫は、怪我していた脚をちゃんと手当てされている。「ごめんなさいっ」と女の子が私に頭を下げたので、ちょっとびっくりする。
「怪我したから、帰れなくなってたんだと思うんです。事故のこと見かけて、チャコをうちに連れてきた近所の人が話してくれて。おねえさん、チャコを助けようとしてたって。ほんとにごめんなさい。私も探してたけど、見つけられなかったから、そのせいで──」
 私は少し微笑み、「いいの、気にしないで」とその子の目の高さにしゃがんだ。
「チャコちゃんっていうんだね。無事だったならよかった」
「あの、えと……ありがとうございます。私、チャコがいなくなってすごく心配してたから」
「うん。怪我はひどくなかった?」
「はい。ちゃんと、病院にも連れていきました」
「そっか。これからも大事にしてあげてね」
 私が手を伸ばして喉を撫でると、チャコは目を細めて「にゃあ」と鳴いた。指先にチャコの体温が伝わり、私は急に息を震わせてうつむいた。
 孝人。私、もう孝人と手をつないで、その体温を感じることはできないのかな。
 そう思うとつらすぎて、涙がこぼれてきた。「おねえさん」と女の子が慌てたように私を呼んで、でも私は応えられずにぽろぽろと涙を落とした。
 孝人。今、大丈夫? 私のせいで、ほんとにごめんね。孝人に何かあったら、私も生きていけないよ。
 だから、どうかまた私の前に現れて、咲ってみせて。
 それから、何度も病院を訪ねたけれど、家族以外は面会できませんと突き返されるばかりだった。せめて孝人がもう安定しているのか知りたかったけれど、病院側も部外者には口が堅い。やがて、唐突に受付の人に言われたのは「松崎さんは先日退院されました」という事後報告だった。
 退院した、ってことは、少なくとも危篤状態が続いているとか、植物状態になったとか、そうではなかったのか。それにはほっとしたものの、こうなると孝人に会える道は絶たれてしまう。
 孝人の家に行ったことはない。それでも、住所は知っている──しかし、あの日のままである孝人の家族が、私を家に受け入れるとは思えない。せめて、孝人本人から連絡はないものかとスマホにメッセを飛ばしても、既読すらつかなかった。
 やっぱり、孝人も私を怨んでるのかな。だから、既読つかないのかな。
 私、振られちゃったんだ。そうだよね。あんな大変な目に遭わせて、それでもまだつきあってもらえるなんて──
 春まで休学して引きこもり、二年生をやり直すことで大学に再び通いはじめた。心配してくれる友達に笑みを返せるぐらいにはなっていたものの、食欲や睡眠時間は悪くなる一方で、何だか私は幽霊みたいにゆらゆらしていた。
 病院、やっぱり行ったほうがいいのかな。そんな考えもよぎらせつつ、週末になるとあの事故現場に行って、夏織ちゃんとチャコに会った。
 別に大したことは話さないのだけど、夏織ちゃんは私に懐いてくれて、ときには自分の家に私を招いてくれることもあった。夏織ちゃんのご両親も、恐縮しながら私に謝罪したけど、「気になさらないでください」と私は微笑み、淹れてもらった紅茶をありがたくいただいた。
 そんなふうに過ごし、数年が経った。私は無事に大学を卒業して、就職もした。けれど相変わらず、小学生になった夏織ちゃんと、あの場所で週末にたまに会っておしゃべりしている。事故現場はとっくに何事もなかったような風景になっている。
 ──そして、あの日から五年の歳月が流れた秋が訪れた。
「涼花ちゃん、もう彼氏は作らないの?」
 膝で丸くなるチャコを撫でながら夏織ちゃんに問われ、「そうだなあ」と私は苦笑した。
「二十五歳だもんね。考えなきゃいけないのかなあ」
「あの人のこと、まだ……好き?」
「………、忘れられないかな」
「そっか……」
「彼氏できたら、夏織ちゃんには報告するよ」
「うん。待ってる」
 そんな会話を交わしていたときだ。「あの、いいですか」という声が不意にかかって、私たちは顔を上げた。そして、私は目を開いて、硬直した。
 え?
 嘘──
「いきなりすみません。あの、ここって……五年前に事故があった場所ですよね?」
 私はまばたきをして、その人を見つめた。
 孝人。孝人だ。間違いない、顔立ちも憶えているままだ。でも──
「俺、その事故に遭った人間なんですけど」
 私に……気づいてない? え、私、そんなに変わったかな。確かにちょっと痩せたかもしれないけれど、そこまで……
「あの事故で記憶を……喪失というか、何も憶えてなくて。家族も、ちゃんと事故当時のことを教えてくれないんです。でも、この先の紅葉スポットを自分が雑誌とかで調べてたみたいで、それから自分の事故がここで起きたことも知って」
 頭の中がさーっと冷たくなる。
 記憶喪失? 孝人が? あの事故で。あの事故のせいで──
「それで、自分がつきあってた子をかばったっていうのも、初めて知って……」
 夏織ちゃんが私の服をつかむ。私は動揺のあまり視線が狼狽え、何も言葉が出ない。
「何か、知りませんか? ほんとにすみません、初対面で」
 私は孝人の瞳を見つめた。それを孝人は見つめ返してきて、「え」と声をもらす。
「もしかして──」
 私は咲った。泣きそうにだけど、何とか咲って立ち上がり、頭を下げた。
「そうですね、初対面になりますね」
 嘘。こんなの嘘。私たち、あんなに仲が良かったんだよ。私は、今もあなたを愛してるの。
 でも、それを言ったって……
「初めまして。私はその彼女さんの友人です」
「ほんとに? じゃあ、今、その子は──」
「ごめんなさい。もうあの子は、自分で幸せになってるので、忘れてあげてください」
 夏織ちゃんが立ち上がって私を見上げる。孝人はその腕の中のチャコを見て、「その猫……」とつぶやいた。
「あ、あのっ。俺、ほんとのこと知りたくて」
「ほんとのこと」
「なぜか分からないけど、家族は俺に彼女がいたこととか全部隠そうとするんです。何でですか? 俺、事故からかばうくらい、その子を愛してたんですよね?」
「っ……」
「教えてください。会いたいんです。会って、五年間も何も連絡できなかったことを謝らないと……」
 ……言って、いいのかな。私ですって、言っていいのかな。
 ううん、やっぱりダメ。
 記憶喪失になって、私はもう孝人の中では一度死んだんだ。もう一度、心臓に杭を打たれることくらい──
「ごめんなさい。あの子には『忘れてください』としか聞いていないので」
 孝人の愕然とした顔を見ていられなくて、私はうつむいた。夏織ちゃんが私を見つめている。「……分かり、ました」とふと孝人が言ったので、私は何とか顔を上げる。
「じゃあ、俺からも伝言いいですか」
「はい」
「君を助けることができてよかった」
 私は大きく目を開く。言い置いた孝人は、身を返して駅のほうへの道を戻りはじめた。その背中を見つめながら、私は息を引き攣らせて、叫びたくなった。
 ねえ、私、ここにいるよ。
 孝人のおかげで、私は今もここに生きてるよ。
 でも、いまさら……言えない。言ってはいけない。言っても報われない。
「……ほんとによかったの?」
 夏織ちゃんの不安そうな声が聞こえてくる。私がうなずくと、「でも」と夏織ちゃんも泣きそうな声で私の服を引っ張る。
「涼花ちゃん、すごく泣いてるよ……?」
 頬に涙がぼろぼろとあふれていく。孝人がもし振り返ったら、たぶん嘘はほころびる。そうなったら、もうなりふり構わずに彼に取りつこうと思った。
 けれども、孝人は振り返ることなく、道を曲がってしまう。
 これで、いいんだよね。そう、これが正しかったんだ。
 君の中にいた私は、周りに望まれず許されず殺された。だから、もう一度私を殺していいよ。今度は君自身の手で、私を殺していいよ。
 ずいぶん冷たくなった秋風が軆を突き抜けていく。ついに終わった恋もさらっていく。
 空はあの日みたいによく晴れていて、何も変わっていないみたいだ。なのに私は、もう咲うこともできず、息を引き取るみたいに目を閉じた。

 FIN

error: