もうすぐつきあいが一年になろうとしていた恋人に振られた。
おとなしくて、ひかえめで、かわいい感じだった彼が俺を振った理由は、「ほかに好きな人ができた」という思いがけないものだった。そして、俺の夢が不安定すぎるとか優しすぎて考えがよく分からないとか、わりとさんざんに言って、彼は俺の元を去っていった。
その次の日、重たい雨が降って梅雨が始まった。しばらく、バイトのとき以外はベッドに伏せって落ちこんだ。
愚痴を聞いてくれる友人もいない。孤独でおかしくなりそうで、俺を振った彼に泣きつくようなメッセを送信しそうになって、慌てて文章を削除する。どうせブロックされていて、既読もつかなくて、かえって打ちのめされるだろう。
それでも、誰かと話したい。そう思った俺は、街に出てゲイバーやクラブが小さく密集している場所に出かけた。雨のせいで通りは人が少なかったものの、そのぶん、久しぶりに来るゲイバーに入ると男がひしめいていた。
セックスがしたいわけじゃない。ただ話したい。失恋の愚痴を聞いてくれる物好きがいればいい。
カウンターでライムが香る透明なカクテルを舐めながら、洋楽がかかる中、キスを交わしたり抱きあったりしている野郎共を眺めた。
辛気臭いため息をついて、やったら一瞬は楽になるかもしれないけど、と思う。俺が今吐き出したいのは、この膿んだ心に蓄積する感情なのだ。
話しかけてくれる奴もいたけど、モーテルに行く雰囲気にならず、面倒そうな話を始める気だと察すると「いい出逢いがあるといいね」と立ち去ってしまう。
俺はうめいて、ドリンクのメニューが貼られたテーブルに伏せった。みんな俺に冷たい。目的はセックスばっかりか。
もっと静かなバーに行ったらマスターとかが聞いてくれるかな、と思い、カクテルの残りを一気に飲み干して、スツールを立ち上がったときだった。
「おにいさん、帰っちゃうの?」
そんな声がかかって、振り返った。そこには、茶髪の緩いくせ毛を少し伸ばし、二重の大きな瞳と骨組みが華奢な軆が中性的な、二十歳ぐらいの男がいた。
視線が重なってにっこりとされて、「まあ、うん」と俺は口ごもりながら答える。
「じゃあ、俺も一緒に出ようかなー」
カクテルを一気飲みしたせいか、急に軆がほてって、頭の中がとろりとしてきていた。
何か、もう、いいかな。セックスしてるあいだでもいいから、失恋のことを考えたくない。
「モーテル行く?」
投げやりに訊いてみると、彼は俺を見つめて「ちょっとだけお小遣いくれるなら」と指に指を絡めてきた。
お小遣い。眉を寄せたものの、変に情を移されるより、そっちのほうが楽かなと思った。未練を引きずる俺は、どのみち割り切った行為しかできない。
「いいよ」と言うと、彼はぱあっと表情に光を射して、「じゃあホテル行こっ」と俺の手を引っ張った。
まだ雨が降っていた。アスファルトでは水溜まりが跳ねて、空気がなまぬるい。湿った匂いが立ちこめている。
俺が折り畳み傘を開くと、「俺も入れて」と彼は腕にくっついてきた。絡みついてきた細腕は白くて、ちょっと元彼に似てるかなあなんて思う。でも、そんなふうにあっけらかんとにこにこ咲うより、はにかむように咲う人だった。
雨音の中の踏み出すと、雨粒が傘の表面をぱらぱらと跳ねる。
彼氏がいるあいだは、こんな場所ご無沙汰だったから、最近どこのモーテルが安いかとか分からなかった。少し迷ったものの、雨の中うろうろしたくなかったので、休憩で手持ちに間に合うところに適当に入った。
ついてくる彼は、「へー」とか「ほー」とか言いながらきょろきょろしている。いきなり小遣いとか言い出すのだから、初めてでもないだろうに。というか、売りみたいなことやってるなら、彼が安いモーテルを知っていたのではないか。部屋の鍵をパネルで手に入れ、エレベーターに乗ってそのへんを訊くと、「あー、いや、俺このへんのことよく知らない」と返ってきた。
淫猥なピンクの照明以外はシンプルな部屋に入ると、彼はさっそくシャワーを浴びにいった。やるのか、と相変わらず乗り気になれずにベッドサイドに腰かける。
俺はもともと性欲にがつがつしていないのだが、それにも文句言われたなあと思う。『僕はもっと君に触れてほしかったのに』──言われた言葉がよみがえり、心に赤いものが刺さる。
俺は大事にしてたつもりだったのに、なんて思っていると、「おにいさんは浴びないの?」と突然顔を覗きこまれてはっとした。
「あ……そう、だな。少し」
「んー。俺、テレビ観てるね」
「あ、俺、普通のAVちょっと苦手なんで、それ以外……」
「普通のAVとは」
「え、男と女の」
「ああ。いや、AVとか観ないよ!? 普通のチャンネル観てるよ」
「そ、そう。ならいいけど」
念のため財布の入ったショルダーバッグも連れて、俺はバスルームに行った。彼が浴びたあとのせいか、安っぽいボディソープの香りがただよっていた。
やたら鏡の大きな洗面台があって、白いバスタオルが無造作に積まれている。のろのろと脱いた服もバッグもその洗面台に置いて、俺は本来ふたりで入るらしい広いバスルームでシャワーを浴びた。
この歳で男を買うって情けないかなあ、なんて思う。まだ二十三歳だぞ。おっさんになって、パートナーがいなかったら若い男を買ったりするようになるのかとか思ったことはある。でも、この歳ならナンパでどうにかなるだろう。
いや、ナンパっぽいことをされても、愚痴を始めようとして台無しにしたのは俺だが。やばい、酒を飲んだ高揚が落ちてきた気がする。冷静になってくると、病気とか大丈夫なんだろうなと不安になってくる。
いよいよやる気をなくして、かったるい神経に金だけ渡して何もしないでおこうかなとも考えはじめつつ、部屋に戻った。彼はベッドに転がってテレビは観ていなくて、俺に気づくとぱっと起き上がった。
「チャンネルがエロばっか!」と彼はむくれ、俺は「ラブホはそうだろ」と苦笑する。
「そうなの? エロチャンネル映して、追加料金とか出なかったかな?」
「出ないよ。衛星とかで映画観たら取られるけど」
「ふうん。ラブホなんて初めてだもんなー」
「初めて」
「あー、うん。いや、それより始めよっか! しゃぶるぞー!」
変な気合いを入れた彼に、やめとこうかとも言い出せず、俺もベッドに乗った。軽くスプリングがきしむ。
彼は俺の正面に来て、「よろしくお願いします」なんて言った。初夜か、と思いつつ「こちらこそ」と俺も言うしかない。「では」と彼は身をかがめて、俺のジーンズのジッパーを下ろした。
勃つかなあ、とちょっと心配な俺を、彼はたどたどしく下着から取り出す。俺は少し首をかしげた。何だか、慣れてない手つきだなあと思った。そして、いざ口に入れたら──遠慮なく歯が当たったので、「ちょっ、待った」と俺は彼のフェラをいったん止めた。
「ん、何?」
彼はきょとんと俺を見上げて、俺は真剣な顔で訊いてみた。
「君、もしかして、初めて?」
「はっ?」
「売り──いや、そもそも男とやったことある?」
「………」
「いや、その──何というか、」
下手くそすぎるんだけど。とはっきり言えず、俺が口ごもると、彼はみるみるしゅんと落ちこんで、「ごめん」と言った。
「男というか、女ともしたことない」
「え」
俺がまじろぐと、彼は急に瞳をうるうると濡らしてから、「だって!」となぜかこちらを睨みつけてくる。
「金なかったんだもん!」
「金……」
「あと、ベッドで寝たかったんだもん」
俺は彼を見つめた。彼は唇を噛みしめていたけど、結局、しくしくと泣き出した。俺は息をついて首を垂らしたものの、どこかでは行為に及びそうにないことにほっとして、ひとまず彼を軽く抱き寄せた。
彼は身を硬くしたものの、俺がなぐさめるためにそうしただけだと察すると、胸に顔を押しつけてさらに泣いた。
「ごめ……なさ、俺──」
「謝らなくていいけど」
「俺、……もっかい、今度はちゃんと、」
「いいよ。しなくていい」
「でも」
「俺も、買うとかどうなのかなって思ってたし」
「………、うー、でも、もうお金ないよお」
「ん、まあ……金を渡すかは保留だけど、それって泊まるところ──と、食べるものもないとかなんだろ」
「……うん」
「じゃあ、とりあえずここじゃなくていいし。俺の部屋のベッドを貸してあげるよ」
彼はがばっと顔を上げ、涙でぐちゃっとしたまま「マジで?」と大きく目を開いた。
「いいの?」
「モーテルのベッドじゃ落ち着かないし」
「微妙にどこかの喘ぎ声が聞こえる」
「俺の部屋、わりと静かだし。眠れると思うよ」
「おにいさん、俺とか部屋に入れて大丈夫? 彼氏いない?」
「こないだ別れちゃったから」
「そうなの? えー、俺、おにいさんとならつきあえるかもしれない」
苦笑いして何とも答えず、ひとまず出しっぱなしの股間をジーンズに収めた。「ちょっと舐めただけで初めてとか分かるんだね」と彼はぱちぱちとまばたき、「まあね」と下手だったとは言わずに俺はベッドを降りた。
彼も俺にとことことついてきて、モーテルをチェックアウトするとスマホで時刻を確かめる。二十一時半をまわったところで、じゅうぶん電車はある。まだ小雨が降る中、俺と彼はまた同じ傘に入って、駅に向かった。
俺の最寄り駅は地下鉄だから、途中から地下に入った。俺はICカードだけど、彼は切符を買うらしい。高い運賃でもないので買ってあげた。
帰宅ラッシュは終わったものの、まだ混んでいる改札を抜け、ホームで電車を待つ。
「もう腕組んでると変だから」と俺が言ったので、彼はくっついてこなかったが、どこか不安そうなので身につけているショルダーバッグの肩ベルトを握らせた。するとちょっと安心したように俺に照れ咲いしたので、このへんをよく知らないという台詞を思い返し、遠くから家出してきたとかなのかなと思った。
電車に乗ると座席は空いていなくて、立ったままで最寄りに着いた。
こちらでも雨は続いていて、傘をさす。駅前を抜けると月もなく暗い夜道なので、傘の下で「手、つなぐ?」と訊いてみる。彼はこくんとして、さしだした俺の手を握った。
手のひらの熱が混ざりあう。「何かつきあってるみたいだね」と彼は何だか嬉しそうに言って、「うん」と俺もおもはゆく咲った。
飲み屋やラーメン屋が並ぶ通りを歩き、駅から二十分くらいで住宅街に入る。その中のアパートのひとつに、俺のひとり暮らしの部屋がある。
アパートの玄関で濡れた傘をたたんでいると、「ここんとこ、月見えないよねえ」と彼は雨雲がうごめく空を見上げる。「梅雨が明けたら見えるよ」と俺が言うと、「そっか、今は梅雨なのかあ」と傘をしまった俺の腕にまたくっついた。
二階の奥の俺の部屋に入って、明かりをつけると「わあっ」と彼は声を上げてベッドに飛びこんだ。「おうちのベッド久しぶりだあ」と彼はごろごろとしながら、毛布を引っ張り上げて軆を包みこむ。
久しぶり、という言葉が気にかかっても何も問わず、「好きなだけ寝ていいよ」と俺は彼の頭をぽんぽんとした。彼は毛布からちろっと俺を覗き、「ありがと」と咲う。そして「おやすみ」と続け、「おやすみ」と返した俺の言葉を合図に、あっという間に眠ってしまった。
彼の寝息を確かめると、俺は部屋を見まわした。ベッドのほかには、テレビと作業用のつくえに乗るPCがあり、壁際には大きな本棚がふたつ並んで、子供の頃から買い集めた漫画が並んでいる。料理はあんまりしないからキッチンは物置で、ベランダに洗濯機は外置きしている。あとはユニットバスぐらいだ。
元彼とも、よくこの部屋で過ごした。あんまりデートとかはしなかったけど、それも悪かったのだろうか。俺はそばにいられたら幸せだったのに、彼にはそうではなかったのか。
ほかに好きな人ができた。あれはやっぱりこたえた。いまごろ彼は、その新しい好きな人と過ごしているのだろうか。あいつかわいかったからなあ、となんて今になってもそんなことを思う。きっと、その相手もすぐ落ちてしまっただろう。
やることもなく、ベッドでだらだらすることもできなかったので、俺は音楽はかけずに雨音の中で黙々と作業した。PCの画面を見つめていて目が疲れてくると、眠気も感じながらつくえを離れた。
時刻は零時をまわっていて、彼は相変わらずすやすやとしている。俺もベッドに入って勝手に添い寝するわけにもいかないし、仕方なくクッションをまくらに、タオルを毛布にして床に寝転がった。
頭がぼんやりして、あくびがいくつももれていく。硬いフローリングなのに、何か疲れた、とうとうとしはじめて、そのまま意識がすうっと消えてしまっていた。
──目が覚めたのは、何だかいい匂いに鼻腔をくすぐられたせいだった。
何か軆痛い、と思って、床に寝ていたのを思い出す。思ったより熟睡してしまっていたようだ。
にぶい動きで身を起こすと、そばのベッドには誰もいない。が、「あ、おにいさん起きた」という声が背後にかかって振り向くと、例の彼がカップラーメンを食べていた。
「それ……」
「あ、見つけたのでいただいてますー」
俺は大きなあくびをしてから、確かに腹減ったなと思った。軽く伸びをして軆の重みをはらってから、のっそり立ち上がってキッチンに近づく。
適当に積みあがったインスタントの中から、焼きそばを選ぶと電子ポットのお湯で調理とも言えない調理をする。彼はシーフードのラーメンを割り箸でずるずる食べながら、俺の手元を覗いてくる。五分経って湯切りをすると、「俺、それで中身引っくり返したことあってさ」と彼は言って、「俺もやったことある」と俺は苦笑いした。
お湯を流しきると、香ばしいソースとからしマヨネーズを入れて混ぜる。「向こうで食べようか」と俺が言うと、彼はラーメンを食べ終わりかけていたけどこくんとした。
俺が焼きそばをかきこんでいるあいだ、ラーメンをスープまで飲み干した彼は、壁際の本棚の前に立って、俺の漫画のコレクションを眺めていた。「これ初版だし」とか「あー、読んでた」とかいろいろつぶやいていたのち、「漫画すごいね?」と振り返ってくる。
俺は焼きそばをごくんと飲みこみ、言うのを躊躇ったものの、ぼそりと答える。
「漫画家になりたいから」
「マジ?」と彼はなぜか嬉しそうにまばたく。
「俺、小説家だわ」
「はっ? 作家の先生?」
「いや、なりたいだけだけど」
「なんだ」と息を吐いてしまったものの、「小説書くんだ」と彼を見直す。
「うん。つか、書いてた……かな」
彼はベッドサイドに座る俺の隣に腰かけると、「今はさ」とシーツに手をついて脚をぶらつかせる。
「創作ってネットで公開できるじゃん。プロになんなくても読んでもらえるっつーか」
「まあ、そうだね」
「けど、そういうのってやっぱ危ないんだよ」
「危ない」
「俺ね、投稿サイトでそこそこ評価もらったりレビューもらったりしてたんだ。書籍化になるほどでもないけど。で、ファンになってくれる人とかもいて」
「え、すごいね」
「んー、まあ。けど、中にはやばいのがいるんだ。粘着っていうのかな、俺の登録してるSNSとかまで見つけ出して。ぜーんぶ、見てるんだよ」
「……ネトスト?」
「本人、自覚ないんだろうけど。怖くてさ。メッセとか来ても無視するようにして。そしたら、いっそう俺のこと監視するみたいに貼りつくんだよ。だから、俺、だんだん登録してるとこはどこも退会していって。小説の投稿サイトだけは残したかったんだけどね、やっぱそいつがいるだけで吐きそうになってたから。そこも退会して、書いた小説も削除しちゃった」
「原稿とか残ってないの?」
「PCで書いてたからUSBに入ってるよ。でも、今はPC環境ないしね。ずっと書いてないよ」
彼はため息をつくと、ちょっと首を捻ってから、「俺、書いてないとしんどいんだよね」と視線をゆらゆら泳がせる。
「死にたいぐらい、しんどいの。ガキの頃からずっと死にたくてさあ……やっと小説書くことを見つけたのに。読んでくれる人を見つけたのに。それもあのストーカーのせいでめちゃくちゃだ」
「……死にたかった、って」
「希死念慮あるんだよね。病院でも鬱病って診断されてた。小学生くらいから引きこもってたかな。うち、親が殴ってくる家だったんだ。トイレ行くのも命がけなんだよ。勝手に部屋を出ただけでめちゃくちゃに怒鳴られんの」
俺は視線をうつむけて、空になった焼きそばの容器を、ミニテーブルのカップラーメンの隣に無造作に置く。
「引きこもって、部屋も出らんなくて。でも小説書いてるあいだと、反応もらえたときはほんと楽しくて、嬉しくて、やっとこれがあれば生きていけると思った。なのに、何だよあいつ。頭おかしくなりそうで、またどんどん死にたいって思うようになった。ネットも、どこも退会して見るもんないから、自殺サイトとか見るようになった」
彼の横顔は淡々としているものの、吐く宛てのなかった毒を吐いているのは分かったから、俺は口をはさまず聞き入る。
「そしたら、自殺幇助屋っていうのを見つけたんだ」
「自殺幇助屋……?」
「自殺をね、手伝ってくれるの。飛び降りる勇気が出ないから背中を押してくれるとか、手首深く切れないから動脈を的確に掻っ切ってくれるとか」
「……違法だよね」
「そりゃね。それで俺、親からも家からもストーカーからも逃げるには、死ぬしかないってどんどん思いこんでいってて。登録しちゃったんだよね」
「えっ」
「そしたら、何日か置きにメールが届くようになった。『あと何人待ちです』って。その、何人がメールが来るたび減ってんの。どんどん自分の番が近づいてくるの」
「待って、それ都市伝説じゃなくて?」
「ほんとに来たよ。あんなに死にたかったのに、めちゃくちゃ怖くなってさ。キャンセルの方法とか探したけど見つからなくて。もう住所も本名もメアドも登録してるんだよ。絶対来るんだよ」
「メールだけよこしてビビらせてるだけとか」
「登録したら会員サイト見れるんだけど、そこには死んだ奴の名前が載るの。検索するじゃん。ほんとに自殺で死んだことになってる」
「……でも、」
「嘘でも怖いだろ。もう、その家で誰かが殺しに来るの待ってるのは無理で。頭が変になりそうだった。家飛び出して、それで……こんな、金もないし、帰るベッドもないけど、落ちつけずに逃げてんの」
彼はやっと俺を向いた。俺はどんな表情をすればいいのか、頬がこわばる。
「すでに頭おかしいと思ってる?」
「いや……まあ、怖かったよな」
「ん。俺なんか死ねばいいんだけどね。親はあんなだし、小説も書けないし、書いたってネットに居場所はないし。どこにもいられない。生きてる意味がない。何で逃げてんだろうね。逃げずに殺してもらえばいいのに」
「……でも、君の小説、読んでみたいな」
俺がぽつりと言うと、彼は一度まばたいてきた。それから首をかたむけると、「ふむ」とつぶやき、ジーンズのポケットを探って小さなUSBを手に載せる。
「それ……」
「俺の小説が入ってる」
「くれるの?」
「いや、コピーなら。そこにPCあるし。あ、『小説』フォルダね」
「いいの?」
「無断転載しないよね」
「それは、うん」
「じゃあどうぞ」
俺はそろそろとUSBを受け取ると、その小さな端末を眺めた。そして立ち上がり、つくえのPCを立ち上げる。
彼は俺の隣にやってきて、「おにいさんもPCで描く人?」と訊いてきた。俺はうなずきながら、PCがUSBを認識したことにほっとして、それからドキュメントフォルダに『小説』フォルダをコピーしておく。
「ありがと」とUSBを返したあと、迷ったものの、「俺の絵とか見る?」と訊いた。すると、彼は「うんっ」と嬉しそうにうなずき、俺は気恥ずかしさを覚えつつもピクチャフォルダを開いた。
並んだサムネイルに、彼は「わあっ」と声を上げる。
「すごい。繊細な感じだね。カラーも水彩画みたい。ほんとにPCでこんなの描けるの?」
「一応。デジタル作業もできないと、最近はアシスタントもできないしね」
「アシスタントとかやってんの」
「アシスタントとバイトで生活してる。あと、少しだけ仕送りもあるし」
「親と仲いいんだ?」
「どうだろ。俺は家出じゃなくて、追い出されたから、ひとり暮らしなんだし」
彼は俺を見つめる。「ごめん」と愚痴っぽくなったことに気づいて俺が首を垂らすと、「えー、おにいさんもぶっちゃけようよ」と彼は笑ってくれる。
ぶっちゃける。「いいの?」と俺が弱々しい目を向けると、「遠慮しないっ」と彼はにっとした。俺はPCの画面をしばしじっと見つめたのち、「うん」とうなずくと、正直に彼に心の澱みを語ってみることにする。
「みんな……俺のこと、分かってくれなかったんだ。分かろうと、してくれなかった」
「うん」
「俺が、その……男を好きになるってことを」
「……うん」
「親には、何というか、失望されてさ。母親は泣くし、父親も笑わなくなった。兄貴もいたけど、すげえ嫌悪されて。俺も、家に居場所がなかった」
「そっ、か」
「もともと、学校で知られたんだ。授業で同性愛のことに触れたとき、その教師はセクマイに理解をしめそうとしたんだろうけど、ゲイやビアンの子は手を挙げてカムして、堂々と生活しようって。何で、正直に手を挙げたんだろ。絶対、カムなんかすべきじゃなかった。せめて、『軆張ったな』って冗談だと思われてるうちに、そういうことにしておくべきだった。でも、うまく嘘をつくのができなくて。結局、あいつホモかよってうわさが広がって……ほとんど、イジメみたいな」
彼が俺の手に触れる。俺はその手を握り、泣きそうなのに咲ってしまう。
「高校卒業まで、ずっとひどかった。大学行って絵の勉強したかったけど、親が俺の顔見てるの限界だって、ひとり暮らしするように言った。それから、この部屋に暮らしてる。俺を受け入れられなかった罪滅ぼしが、ほんの少しの仕送り。今生活できてるのは、ほとんど自分の収入のおかげだよ。俺も君と同じかもしれない。ここまでして生きなくていいだろって、死ねばいいだろって思うときがある。でも、俺は家族も友達もいないから。このままじゃ孤独死で、無縁仏だから。漫画家になって死にたい。一作でもいい、作品を残して死にたいんだ」
彼は俺をじっと見つめ、俺の手を握り返すと、「すごいね」と睫毛を陰らせる。
「俺は、自分の小説をそんなふうに思ってあげることできない。書くことすら、もう俺の生きる意味にならないんだ」
俺と彼は、しばらく無言でつないだ手にぎゅっと力をこめていた。
けれど、ふと俺は「ごめん」と言ってから手を離し、引き出しからノートを取り出した。白紙のページにメールアドレスとパスワードを走り書きする。ページをびりっと破ると、「ここ、使ってないクラウドのアカウントなんだけど」とその走り書きを彼に握らせる。
「いつになってもいい。何年経ってもいい。もちろんすぐでもぜんぜんいい。また小説書いたら、ここにそのファイルをアップして。俺、読むから」
「え……」
「感想とかはうまいの言えるか分からないから、代わりに君の小説を絵にして、俺もアップする」
「……でも、書く環境が」
「思いついたら、ペンでノートに書けばいいじゃん。それをネカフェのPCとかで、ワード? とかに清書してさ。そのファイルを、俺に送って」
「おにいさん……」
「書けるよ。俺が読むから、君は書ける」
彼は目を開いて俺を見つめ、急に瞳を潤ませると、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。「何でそんな優しいの」と彼は俺の走り書きを握りしめ、「優しいしか取り柄ないから」と俺は苦笑する。
「それで彼氏にも振られたぐらいだしね。優しくて、何考えてるか分かんないんだって」
「分かるよ」
「え」
「おにいさんが、何で優しいのかは分かるよ」
「………」
「俺に生きてほしいからだよね」
「……うん。たぶんそう。君が死んだら哀しいよ」
彼の涙がきらりと光り、カーテンの隙間で外が夜明けを迎えていることに気づいた。彼も日の出が射しこむ黎明を見て、「そろそろ出なきゃ」と言う。
「もう少し休んでもいいよ?」
「はは。おにいさんのこと好きになっちゃって、棲みついちゃうよ」
「……俺は、」
「それに、ほんとに俺が死んだとき、関わりがあったっておにいさんに迷惑もかけたくない」
「───」
「頑張って。おにいさんが漫画家になったら、俺が一番に応援する」
「俺も、君の小説待ってるよ」
「……そうだね。とりあえず、紙とペンは手に入れてみる」
俺は微笑み、自然と彼を抱き寄せると、その柔らかい髪を撫でてあげた。涙が止まっていなかった彼は、落ち着くまで俺の胸に顔を伏せていた。
そういえば、いつのまにか雨音がしていない。
俺の腕の中で落ち着いた彼は、「ありがとう」と優しく微笑してから俺の部屋を出ていった。話相手がいなくなって寂しくなり、しばらく突っ立ってしまったものの、ひとまず食べたあとのインスタントの容器を片づける。それから、つくえに着いて彼の小説を読んでみようとしたときだった。
『ごめん、ほんっとにごめん、今日の昼が締切なのに、ネーム押したせいで絶対間に合わないんだ。今から来れるかな?』
突然スマホが鳴り、それはアシスタントをさせてもらっている先生からで、早朝五時からそんなふうに泣きつかれた。しかし俺は、何となく安らかな気持ちだったせいか、「分かりました」と苦笑いしつつも引き受けた。
PCの画面は落としておき、支度をして五時半になる前に部屋を出る。
雨は上がっていて、朝陽が昇りかけていた。残る雨雫が、反射してきらきらと景色を輝かせている。昨夜は雨雲で、月さえも見えなかったっけ。でも、あんな重たい雲が垂れこめていたときだって、月は確かにその向こうにあったのだ。そう、見えなくても、想像するだけでも、光は常にそこにある。
生きる意味だって、きっとそんなふうにあると思う。見つからなくても、そんなもんないんだってあきらめても、本当は月みたいにすぐそこにあるのだ。
そして、月は朝になれば太陽を連れてきてくれる。
大丈夫。俺は頑張れる。彼がまた言葉を紡ぎ、それを届けてくれる日を信じる。
朝が始まっていく。太陽の光が、空色を水色に透かしていく。少しひんやりとした空気で深呼吸すると、俺は始発の時刻を目指してしっかりと歩きはじめた。
FIN