Koromo Tsukinoha Novels
今になって、どきどきしはじめている。合格通知が来たときは、嬉しいというよりほっとした。けれど、あの大学に通うということは、県外に出てひとり暮らしを始めるということだ。
ひとり暮らし。私が。ずっと両親と暮らしてきた私にもできるかな。どのぐらい自由になれるんだろう。不安と期待が混じって結局眠れず、もう朝が近い。
六時をまわっても微睡みは来ないから、思い切ってベッドを降りた。明かりをつけて、部屋を見渡す。
この部屋ともお別れなのか。生まれたときから暮らしてきた、昔はおじいちゃんとおばあちゃんもいた一軒家。子供の頃からのものが詰まっているけれど、もちろん全部は持っていけない。本とかも大事なものだけに絞るんだよなあ、と本棚を眺めて、目を留めた。
アルバムがあった。卒業アルバムとか持っていったほうがいいのかな、と指を這わせる。高校の卒業アルバムはまだ届いていない。中学校、小学校、幼稚園まで残してある。
幼稚園かあ、とずいぶん色褪せてしまった想い出につい引き抜いてみる。開こうとして、その拍子にばさっと何枚かはさんでいたらしい写真が床に落ちた。何の写真だろ、と拾い上げてみて、「あ」と声が漏れる。
ピースサインの幼い私の隣で、ひかえめに咲っている男の子がいる。
そうだ。あのときから、私は彼に会えなくなってしまった。それでもいつでも顔を見れるように、何枚か気に入っている写真をすぐ取り出せるようにはさんでいた。いつのまにか忘れていた。彼のことまで忘れたわけではないけれど、会えない時間が経つほど、写真を見るのがつらくなった。
舞島恵人。隣の家に住んでいる、同い年の幼なじみの男の子だ。会えなくなったのは、小学四年生になったばかりの春だった。恵人のおかあさんが交通事故で亡くなって、そのショックで恵人は鬱状態に陥り、引きこもるようになった。親しかった私にも心を閉ざした。訪ねても、絶対にドアを開けてくれなかった。
中学生、高校生と、けして忘れはしなくても、恵人のいない生活を送ってきた。この家を出たら、本当に恵人とはかけはなれた生活を送ることになる。
写真を見つめて、やっぱドア開けてくれないのかなあ、と哀しくなる。できることなら、挨拶したい。離れるけど頑張ってくるよ、って──
恵人が映る何枚かの写真を眺めていたら、朝陽が昇っていた。その日は、ひとり暮らしを始める物件をおかあさんと話し合いながらネットで検討した。不動産屋に電話を入れて、ひとまず明日ひとりで見学に行くのが決まると、おかあさんは慌てた様子で今日の買い物に出かけた。
夕方が近かった。家にひとりになった私は、暖房の効いたリビングでお菓子を食べながらぼんやりしていた。あの写真の中の恵人の笑顔を想っていて、やがて、よし、と不意に立ち上がった。
家を出て鍵をかけて、隣の家の前まで夕景を歩いた。昔は毎朝こうして恵人を迎えにいって、一緒に登校していた。
風が抜けて、まだ寒いな、と羽織ったカーディガンを深く着る。どこかの夕飯の匂いもただよいはじめている。いつものこの空気とも、もうすぐ離れ離れになる。
恵人には、尚人という弟がいる。確か高校生にはなっているはずだけど、いるだろうか。恵人が出るわけないしなあ、と思いながらドアフォンを鳴らす。しばらく間があったあと、『舞島です』とやっぱり尚人の声が応えた。
「あ、えーと、尚人だよね」
『え、……あっ、真実ねえちゃん?』
「そう。いいかな、お邪魔しても」
『もちろん! 待って、鍵開ける』
がちゃっとインターホンが切れて、すぐに庭越しにドアが開いて尚人が顔を出した。私は門を抜けて、庭を横切って尚人に駆け寄る。いつのまにか、尚人は私の身長なんか追い抜いている。
「真実ねえちゃん、久しぶりじゃん」
そう言ってにっと笑った尚人は、おとなしかった恵人とは反対に快活な男の子だ。
「うん、受験でばたばただった」
「そっか。もう大学生になるんだよな。受かった?」
「うん! でね、家も出るの」
「マジで」
「ひとり暮らしだよー。ちょっと怖い」
「大丈夫なの、女のひとり暮らしとか」
「ここから通うのは厳しいからね。頑張る」
「そっかー。真実ねえちゃんが大学生ってことは──」
そこまで言って、尚人の表情が陰る。私もその影は察せて、「変わらない?」と訊いてみる。
「ああ。もう、何年も顔も見てない」
「……そっか」
「飯とかは、一応食ってるみたいだけどな。夜中に動いてるの聞こえる。でも、そのとき話しかけるのはタブーみたいになっちまって」
私はうつむいてから、「恵人にも挨拶したくて」と小さくつぶやく。
「いい、かな?」
「俺は構わないけど。反応は期待しないほうがいいかも」
「うん」
「あー、と、俺はこれから塾があるんだ。鍵、いったん預けとく」
「分かった。夜にまた返しに来るね」
「おう。じゃあ、俺は塾の用意あるから」
そう言って尚人は家の中に戻って、私は玄関を後ろ手に閉めた。恵人の家の匂いがする。
靴を脱いでいると、かばんを提げた尚人が急いだ様子で現れた。私に鍵を渡し、「あんまり刺激しないでやって」とささやいて出ていく。私は玄関の鍵をかけると、懐かしい廊下を歩いた。
階段をのぼり、すぐ手前が恵人の部屋だ。私は深呼吸してから、その板張りのドアをノックする。
「恵人。久しぶり。私──真実だけど」
何も聞こえない。起きてるかな、とも思ったけど、勝手に話すしかない。
「今、尚人に会ったよ。塾だって。頑張ってるみたい」
言葉を切って、考える。あんまり、だらだらと世間話をしていても、うざったいだろう。私は息を吐くと、本題を伝えた。
「恵人、私──家を出ることになったよ。大学に合格したの。ちょっと遠いから、ひとり暮らし始める」
反応はない。私は指先を握りしめる。
「何か……ずっと、会ってないね」
部屋からは気配もない。
「もう、私、恵人に会えないのかな。恵人は誰にも会わないのかな。尚人も、心配してたよ。きっとおじさんも。恵人がつらいのは分かる、けど……」
言えば言うほど、ずうずうしくなってくる。私は目を伏せて、冷たい板張りから足元に視線を落とす。
「最後に、恵人にもう一度会いたかったな」
何でこんなに泣きたくなってくるのだろう。
「そしたら、私、ひとりでも頑張れるのに」
あんなにいつも、毎日そばにいた恵人が、こんなにも遠い。
「恵人が応援してなくても、それでも、私頑張ってくるね。だから──」
……だから?
「恵人、私のこと……忘れないでね」
もう一度、大きく息を吐いた。何も返ってくるわけがない。何だかちょっと自分を嗤ってしまって、私は身を返した。キーホルダーにつながる鍵を握って、階段を降りようとした。
そのときだった。
かちゃ、と小さな音がした。
え、と肩がこわばる。空耳? ゆっくり、振り返る。
そして目を開いた。
「……真実ちゃん」
ドアの隙間から、壊れそうな声と怯えた目が覗いた。私は慌ててドアに駆け寄る。するとドアが閉まりそうになったものの、私は外側のドアノブをつかむ。
「恵人」
「……ご、ごめん。僕、その……最後、って」
柔らかそうな猫毛の髪、蒼い肌、華奢な体質──もちろん小学四年生から成長しているのに、なぜかあまり変わらないように感じた。
私は長く息をついて、「やっと開けてくれた」と滲みそうな目で恵人を見つめる。恵人はおどおどした様子だったものの、「うん」とぎこちなく答える。
「ひとり……暮らし、って」
「大学、合格したから。家を出るの」
「そう、なんだ。えと、お……おめでとう」
「ありがとう」
「すごい、ね。大学……」
言いながら恵人はうつむく。私はその長い睫毛を見つめて、「恵人は最近どう?」と訊いてみる。
「う、ん……。別に──何も、してない」
「そっか」
「ごめん……」
「ううん」
「い、いつ、行っちゃうの?」
「明日見る部屋がよかったら、もう決めて引っ越しの手続きして──少なくとも、三月中には出るよ」
「そっ、か」
「……よかった。会えて」
「う、うん」
「ずっと、会いたかったから」
恵人は私を見た。瞳が少し震えている。
「僕のこと……忘れた、と思ってた」
「そんなことないよ。隣の家にいつもいたんだから」
「ん……」
「顔見れて嬉しい」
「……僕、も。真実ちゃん、どうしてるかなって……」
恵人の細い手が、内側のドアノブを握る。
「が、頑張って、ね」
「うん」
「いって、らっしゃい」
「恵人も──ちゃんと、ここにいてね」
「えっ」
「帰省したとき、また、こんなふうでもいいから会いたい」
「………、」
「嫌、かな?」
「……あ、会えそう、だったら」
「うん。それでいい」
「真実ちゃんのこと……、忘れは、しない」
「ほんと?」
恵人はこくんとした。私は微笑んで、「ありがとう」と言った。恵人はまた、折れそうな首でこくんとした。私はちょっと考えてから、恵人に近づいた。
「恵人」
名前を呼ぶと、恵人はぎこちなく顔を上げる。そんな彼に、私は素早く唇を重ねた。恵人の肩がびくんと動く。私はすぐ顔を離すと、「じゃあ」とドアノブを離して一歩引いた。
「元気でね」
「え……あ、」
「私も恵人を忘れない」
そう言った私は、階段を駆け降りていった。
頬が熱かった。何? 何でだろう。何で急に、キスなんてしたくなったのだろう。でも、なぜだか、そうして恵人の記憶に残りたいと思った。
昔はいつも一緒だった。会えなくてもいつでも顔を見たかった。写真を引き抜いて、いつでも見れるようにはさんでいた。
ああ、そうか。私、ずっとずっと前から、恵人のことが──
次の日からめまぐるしく引っ越しの準備が始まった。あっという間に私は新しい部屋に生活を移した。最後にもう一度恵人に会いたかったのに、そんなヒマもなかった。
見送ってくれた尚人に私のケータイの番号は託して、恵人にも教えておいてほしいと伝えた。何となく、恵人が顔を出してくれたことは言っていないのだけど。尚人はうなずいて、私のおとうさんとおかあさんと一緒に、「いってらっしゃい」と私を送り出してくれた。
新居で夢中で荷物をほどいていて、気づくと夜中になっていた。いったんふとんを引き出し、そこに倒れて深呼吸する。ケータイをたぐりよせて、友達からのメールに気づいて返信した。ひと通りメールを返すと、天井の明かりを見つめる。
恵人。どうしてるかな。
そう思ったときだった。指先に触れていたケータイが震えた。返事か、とケータイを取り上げて、思わず目を見開いた。たぶんケータイなんか持っていないだろうと、念のため連絡先に入れていた文字が表示されている。
『恵人自宅』──
急いで通話を選択した。耳を当てると、かぼそくだけど、あの日再会した声が聴こえてくる。私はその声に答えながら、ひどくほっとして、泣きそうになるのを必死にこらえる。
隣にいるあいだ、何もしてあげられなかった。救ってあげたかったのに、何もできなかった。そして私は隣を離れてしまうことになった。本当に、恵人の中で私は終わるのだと思った。
でも、違う。離れたからこそ、恵人から歩み寄ってくれた。また会ってくれた。そう、私たちはこれからもう一度始まるのだ。
恵人。そっちに帰ってまた会えたときは、ちゃんと言葉で伝えるね。その目を見て伝えるね。
ずっと昔から、あなたのことが、一番大好き。
私がその気持ちを伝えたら、どうかその暗室を出て、大事に持ってきたあの写真の中の笑顔を再び見せて……ね?
FIN