野生の風色-17

彼の中の暴風

 カーテンに閉ざされて白熱燈がついたそこには、さまざまな残骸が飛び散っていた。つぶされたノート、破られた本、散らかった暗い洋服。ぶん投げられたらしい通学かばんが、はらわたのように教科書を引きずりだしている。つくえのものは床に薙ぎはらわれ、引っかきまわしたクローゼットにはまくらが食いこみ、倒れたゴミ箱がゴミを吐き出し──
 息を飲んでいると、ベッドの上にいた竜巻当人が何かをつかみ、振りかぶってそれを投げつけてきた。反射的に後退ったけど、それは僕の目の高さのそばの壁にぶちあたり、派手な音と床ではじけて砕けた。何かと思えば、目覚まし時計だった。「大丈夫?」とかあさんに言われ、僕は狼狽えつつうなずき、遥に目を向ける。
 遥はベッドにうずくまっていた。制服のまま、低くぶつぶつ言いながら、手の中で何かちぎっている。泣いているのか、鼻をすすりあげる音もした。
 困惑して突っ立っていると、いきなり遥は起き上がって、毛布をわしづかむと放り投げてくる。空中でふわりと広がった毛布は、こちらに届くことなく床へとすたれた。遥はその不発にいらついたようにベッドスタンドを殴り、その反動ではずんだマットレスに、がくんと身を崩す。
「遥──」
「うるさいんだよっ」
 ドスのきいた、あの平坦さの名残もない声だった。喉を絞められて発するような、つぶれた、振りしぼった声だ。
「何で俺はこんなのばっかりなんだ。死んでやる。お前は俺に死ねって言ったんだっ」
「え、あの──」
「何でそんなの言われなきゃいけないんだ。お前、俺のこと殺したいんだろ。何でだよ。ちきしょう、ぶっ殺してやるっ。俺が何にもできないと思ってんだろ、ふざけんなよっ」
「は、遥、あの、広田はそんなつもり──」
「お前は俺の何なんだよっ。あの女レイプして、俺を作っただけだろ。何だよ、その目は何だって? だったらえぐってこいよっ。俺だって、お前の顔なんかもう見たくないよ。だいたいお前、死んだんじゃなかったのかよ。また殺すんだろ。じゃあ、こんな目とっととつぶして──」
 遥は耳をふさいで、シーツに伏せり、のたうちながら唸りを喉で捻じった。僕の後ろで、かあさんが一歩下がり、「先生を呼ぶわ」という。
「せ、先生って、え、広田?」
「病院の先生よ」
「あ──、でも」
「変なことしないように見ててあげて。いいわね」
 かあさんは頬を蒼白にさせ、一階に駆け降りていく。残された僕は、シーツで嗚咽をこもらせる遥を見た。美しく、生気がない彫刻のようないつもの影はなく、遥は剥き出しになってひりついていた。
 その目は何だ。確かに広田はそう言っていた。どうやら遥は、その台詞を親にも吐かれたことがあるようだ。それで、広田と親が重なり、記憶をえぐられて心が錯乱した。
 やっぱこいつ過去あるんだ、と僕は立ちすくむ。視線を迷わす余裕もなく、遥の現実を突きつけられた感じだった。
 そうだ。遥は冷めた無愛想野郎じゃない。彼は心を破壊され、魂を打ちのめされ、微笑むことを掠奪された無力な子供なのだ。
 部屋にただよう悲惨な匂いは、遥の深くべとつく傷の匂いだ。めちゃくちゃになった本や服は、どくどくと流れる遥の心の血だ。
 遥の普段の乾いた感触は、もしかすると、傷つきすぎたせいなのだろうか。長いあいだ、絶え間なく流れつづけて血が枯れ、傷口は極限に達して虚ろと化した。あの淡白さは、そんな精神状態の表出なのかもしれない。
 でも、踏みにじられた心はやはりそれで終わらず、枯れている裏で痛みが造血して、何の前触れもなく傷口をどろどろによみがえらせる。遥の痛ましい嗚咽は、心にぱっくりと湧く赤い沼に起こる、尋常ではない悲鳴の波紋なのだ。
 身を丸めて震えていた遥は、唐突にベッドを転げ落ちて、僕を見た。その目は、涙にもつれる前髪にくしゃくしゃだったが、真っ赤にとがっていた。常に気だるくかかっていたまぶたが押し上げられ、大きく剥かれた瞳には、殺意の電流が血走っている。
「あ」と僕が喉でもらした途端、遥はこちらに飛びかかってきた。僕は反射的にドアに身を隠し、そのまま廊下に引っこんだ。ばたんっと閉まったドアに遥はぶつかり、激しい連打が耳をつんざく。
「てめえ、逃げるのかっ。今、俺のこと憐れんだろ。殺してやるっ。お前なんか死ねばいいんだ。俺が死ねばいいと思ってんだろ。俺は静かになんかならない、お前が黙れっ。俺はまだ死んでない。俺を殺す奴は、俺が殺してやるっ。俺、俺を──」
 僕はドアノブを握りしめ、開けるための回転を何とか止めていた。が、遥は板をたたくばかりで、ドアノブをまわせばドアが開くのは忘れているようだった。
 遥は暴言を吐き散らし、そこにささくれた嗚咽を綯い混ぜる。誰をののしっているのか、舌は混迷していった。僕か、広田か、親か──
 次第にぶつかる拳は弱まり、声もかすれ、不意にどさりと床に崩れ落ちる音がした。
 僕は板目を見つめ、何もできなかった。ただ、板越しに幼いすすり泣きを聞いていた。そして、途切れ途切れに息を吐き、ドアノブをつかむ握力を緩める。
 ドアノブを握る手がほどけると、ドアに背中を預けて冷たい廊下に座りこんだ。遥は弱い声をもらして泣いている。僕は階段のほうを見た。かあさんは来ない。
 黙って膝を抱えると、制服にはまだ防虫剤のにおいがした。天井をあおぐと、妙に高く感じられる。僕はフローリングにうつむき、静けさにずきずきする遥の嗚咽に心の息を止めた。
 制服も着替えず、ドアに寄りかかっていたそのあいだ、時間はひずみに滞ってしまったように、永遠を感じさせた。くぐもった罵詈が混じる、遥のすすり泣きの痛みに、僕はめまいを覚えた。
 厭わしいのはでなく、その途方もない絶望感は、こちらまで気が遠くなってくらくらした。五感も時間も奪われた、今にも自分が消滅しそうな、常闇に放置されたような感じだった。
 そういえば、遥は暗闇を怖がってたな。そんなことを思い出していると、「悠芽」と声がした。顔を上げると、かあさんが階段のところにいる。
 手招きされて、一度ドアを見返った僕は、僕なんかいてもいなくても同じか、と立ち上がり、抜き足でかあさんの元に行った。
「遥くんは」
「泣いてる」
「そう。先生、すぐ来るそうだから」
「………、触らずにそっとしといたほうがいいんじゃない?」
「ダメよ」とかあさんは驚きを混ぜて僕の提案を制する。
「昔のことを思い出したみたいだし、楽観的に放ってたらいけないわ」
「ほっとくというか──」
「遥くんは、傷ついても誰にも見てもらえないままにしてたのよ。ここでは見てくれる人を呼んであげてもいいでしょう」
「………、」
「それに、悠芽は今の遥くんにどう接したらいいか分かるの?」
「え、……いや」
「じゃあ、私たちだって専門家の先生のアドバイスをもらったほうがいいわ。間違った接し方をして、遥くんとの関係が取り返しつかなくなったら困るでしょ」
 反論できずに口ごもり、遥の部屋を振り返る。かあさんの言いぶんは、間違ってはいないと思う。思うけど、どこか、大人の屁理屈に聞こえて、違和感があった。
 遥の心に必要なのは、そんなのではない気がする。そんな整備された思いやりは、何だか計算機みたいで冷たい。間違いでも、心を触れあわせたほうが温かくて、その温かさが遥に必要なものなのではないか。
 青臭い感情論だろうか。それに、心を触れあわせるとはどんな態度か、と訊かれたら僕は言葉に詰まってしまう。
「着替えたら、学校でのこと教えてちょうだい」とかあさんは優しく僕の肩に手を置く。僕はかあさんを見ると、その微笑に小さくうなずいた。
 夕暮れにやってきた精神科医は男で、三十台前半ぐらいだった。綺麗に髪を分け、ワイシャツに茶色のスラックスと、あまり医者っぽくない。病院では、白衣で医者っぽくしているのだろうか。物腰柔らかい中に親しみがあり、僕はご無沙汰にしている希摘の兄を思い出した。彼は、三年半収容されていた病院での遥の担当医の「ひとり」であり、遥とのつきあいは長いそうだ。
 この人の治療で、一応、遥は二年間口きけなかったのは治ったわけだ。そう思っていたら、部屋でつぶれていた遥は、医者の顔を見た途端、床に広がっていたままの毛布に閉じこもってしまった。医者はそれに面食らうことはせず、「遥くん」とかたわらにしゃがみこむ。すると遥は、床を這いずって、ベッドの上に逃げた。
 医者はベッドの脇にかばんを置くと、遥とふたりになりたいと言った。異論はなくて、夕食の用意があるかあさんはもちろん、隣の部屋にいるのもまずいかと僕も一階に行き、ときおり上目をしながらテレビを観ていた。
 遥と医者は何時間も部屋にこもって、そのあいだにとうさんも帰ってきた。かあさんに事情を聞いたとうさんは、階段のほうを向いて、懸念を浮かべていた。
 テレビに飽きた僕は、両親に断って、二階に宿題を取りにいった。明日から三日間休みでも、希摘のところにも行きたいし、宿題はさっさと終わらせておきたい。足音を抑えて階段をのぼり、光をもらす遥の部屋のドアを横目に、部屋に踏みこむ。
 明かりをつけて、開けっぱなしだったカーテンを閉めた。つくえに放り出されたかばんをあさって、英語や数学の宿題を引っ張り出す。聞き耳を立てた隣の部屋では、医者の声はしても、遥の返答はないように感じた。聞き取れない低い声で答えているのだろうか。
 たいして心開いてなさそうだったな、と医者を逃げていた遥を思い出し、一階に降りる。口をききはじめたのも、もしかして単に、しつこさにうんざりしただけなのかもしれない。
 夕食を片づけたテーブルで僕が宿題をしていると、夜更けになって医者はひとりで降りてきて、しばらく両親とリビングで話をしていた。
「悠芽くん」
 宿題を口実に話に混じらなかった僕に、医者は帰る前に話しかけてきた。かしこまる僕に、彼は遥の状態について敷衍した。
「遥くんの中は、僕や悠芽くんには想像がつかないほど、ぐちゃぐちゃなんだ。子供の頃のこと、目の前で無残に死んだ両親、今の急激な環境の変化にね。そんなふうに見えなくても、見えないほど、押し殺されているものは深刻なんだよ。遥くんは、生まれたときから抑圧の中で育った。甘えるどころか、ごく自然にある自尊心も抑えつけられてきたんだ。僕は、遥くんにまず必要なのは、自分自身の確立だと思ってる」
「……自分」
「そう。だから、遥くんに自分の意志が通るのを教えてあげてほしいんだ。望みをできる限り叶えて、自分に生きて存在していく資格があると感じさせてあげてほしい。遥くんばかり良くて、悠芽くんには不満なこともあるかもしれない。それでも、遥くんがこうしたいと思うことを優先して、悠芽くんやご両親が自分を認める家族だって、遥くんに気づかせてあげてほしいんだ。できるかな」
 できない、と言ったところで、どうにかなるものでもない。僕はこくんとして、数学の広田に少し事情を話し、休み明けに殴りこんでこないよう言ったほうがいいのではと提言してみた。医者はうなずいて、かあさんが明日学校に行くことを請けあう。
 それから医者は、「また何かあれば、すぐ連絡をください」と帰っていった。
 僕はシャワーを浴び、リビングで話しこんでいた両親に訊かれて、遥の遅刻や早退を告げなかった理由を語った。ふたりとも僕なりの気遣いだとは分かってくれて、呼び止めたのを謝り、就寝をうながした。
 時刻は零時が近かった。眠かった僕は、素直に半袖の腕に宿題を抱えて二階にあがった。
 遥の部屋の明かりが、暗い廊下に切れこみを入れていた。あの鬱が来ているのだろうか。切れた反動に虚脱したと考えればありうる。たたずんで思案したものの、医者の言葉を反芻し、僕なんか関わらないほうが遥のためだよな、と静かに部屋に入ってベッドにもぐりこんだ。
 ふかふかのふとんに力を抜き、今日の遥についていろいろ想う。広田や心の感電、すすり泣きに医者の助言、何よりも急に鮮血が通った遥の過去。思索に微睡みが流れはじめると、まぶたを下ろし、日向の匂いに身を休めて眠りに落ちていった。

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