野生の風色-18

相談できる存在

「俺は悠芽が正しいと思うな」
 遥の精神が分解された翌々日、僕は希摘の家を訪ね、事の次第や自分の考えを語った。外はうららかな気候で、僕も希摘も、とうに半袖のTシャツを着ている。
 ベッドで壁にもたれる僕の長談義を、椅子に逆にまたがる希摘は黙って聞いてくれた。広田の発火に始まり、昨日に続いて今日も遥が部屋にこもっていたのまで吐くと、僕はため息と共にスウェットの脚を投げ出す。
 背もたれに頬杖をつき、凛とした眉のあいだに皺を刻んでたっぷり考えた希摘は、おっとりした瞳をまじめにしてそう言った。
「大人の屁理屈、だっけ。俺もそう感じる」
「ほんと?」
「うん。正しいっつうか、悠芽のは精神的な理解なんだよな。つっても、俺と悠芽は同い年だしなあ。俺が悠芽の考えを理解しても、大人も同意するかは分かんない」
「……うん」
「俺は、悠芽なりに遥くんを医者ぐらい考えてると思うよ。医者が言うのも間違ってないし、ほんとだと思う。でも、それがすべてでもない。自分を作るのも、周りが思いやるのも大切。ただ、俺は──遥くんに自己を持つことばっか強要すんのは、きついと思う」
「そう?」
「うん。それはあとだよ。しなきゃいけないことだけど、今しなきゃいけないことじゃない。それより環境。確立できる環境に置いてやるのが先」
「環境──って、どんな」
 野暮ったく答えにくい質問をしてしまうと、「溶けこんでるって思える居場所だよ」と回転式の椅子で軆を揺らす希摘は、さらりと答えをくれる。
「はっきり言って、今、遥くんって悠芽の家に連れてこられただけじゃん。そこにいるだけで、なじんでない。そうやってひとりぼっちのままなら、自分なんて見つからないよ。孤独だったら、相対する人間がいなくて、自己が明確である必要もない。人間の中にいて、たくさんのそれと紛れないように、自己ってのはできるんだ。俺も孤独にこもってお絵描きしてるけど、人間の中にはいる。悠芽とか家族とか、好きな人たちの中にね。すべてからかけはなれた孤独と、興味ない奴には染まらない孤独は違う。遥くんは、今のままじゃ自分なんて絶対できあがらない。何考えてるかつかめないみんなの中で、かえって人形みたくなっていくと思う。で、その息苦しさがパンクするたび、今回みたいになる」
 希摘の瞳に、生噛りの揺らぎはない。その意見をきちんと消化して、言ってくれているのが窺える。
「だから、俺は悠芽の言う通りだと思うよ。冷たい完璧より、あったかい触れあい。それで、こっちの世界を早いとこ教えて、触れあうとか関わるとかを教えるのが先だよ。多少、傷つけてもね」
「早いとこって、急がなきゃいけないの?」
「孤独に長くいると、たぶん、相対しないんじゃなくて、相対できなくなる。できなくなったらおしまい。ゆいいつそいつに近づく道は、同じように自分もどこか死ぬことになる。片道切符だね。そうしたらそいつのそばにいられても、ほかのもんは全部失くす」
「心中だね」と僕がひと息かけると、「うん」と希摘は表情をほどいて少し微笑む。
「恋人とかなら、その手段もありなのかな。ただし、こっちには非常にいかれたカップルに見えます」
「遥がおしまいに達してるってのはないかな」
「どうだろ。大丈夫かな。ほら、悠芽にどうこう言うんだろ」
「嫌がるんだよ」
「嫌がるでも、関わってるんだ。攻撃ってかたちで、遥くんはこっちとつながってる。嫌悪だとしても、遥くんの中に他者として悠芽は存在してるんだ。悠芽にも無関心になったら末期じゃない?」
 なるほど、と納得できる情理に、僕は遥の活路を認める。やはり遥が僕に突っかかるのには、瓦石に混じって原石もあるのか。
「悠芽と遥くんがデットヒートするのも手かな」と希摘は悪戯な瞳でにやっとした。
「当たって砕けるか、砕けた先に何か始まるか。賭けだね。それも手段だと思うよ」
「………、何で、僕なのかな」
「そりゃあ、君はどうこう言いつつ、遥くん気にしてんじゃないですか。それが遥くんのお気に召したんじゃない?」
「えー」
「『えー』って。ま、ぶつかるにしろ、触れあうにしろ、自分以外の人間の温度を知って、そのあと医者の仰せの通りにしたらいいんじゃない? ていうか、温度知ったら勝手に自分はできてく気もする」
 そこまで言った希摘は、「俺もえらそうだねえ」とふと照れ咲いした。僕がそれについ咲い返すと、「でも、意外だな」と希摘は前髪の隙間で上目をする。
「定期的に医者にかかってなかったんだ」
「遥が嫌がったんだって。遥はあんま医者に頼りたくないみたい」
「そっか。けど、また何かあれば、医者呼ぶんだよな」
「かあさんたちはそのつもりみたい。医者も自分呼べって言ってたし」
「悠芽は違うなって感じるんだっけ」
「まあ、ね。そういう完璧って、血が通ってないというか。医者に頼るのがいけないんじゃなくて、何か──うまく言えないんだけど」
「問題のたび医者に頼るなら、わざわざ“家庭”に連れてきた意味はないよな。医者のほうが有効なら、まだ病院にいさせたほうがよかったって感じ」
 僕は希摘を見て、大きくうなずいた。本当に、この親友は胸の澱みを透かせるのがうまい。そうなのだ。そして、そうだとすると、遥が僕の家にやってきた意義自体が揺らぐ。
 なぜ遥は、僕の家に来たのか。病院より家庭のほうが、傷ついた心にはいいからだ。両親はそれで僕を説得すらしたのに、肝心なところで、家族の自力でなく医者の他力に頼った。
「医者なんてねえ。頼りにしたって期待外れが多いもんよ。当たればいいんだろうけど、良さそうなのいないなら、少なくとも悠芽の家は医者排除でいいと思う」
「そう……だよね」
「うん。医者って他人だし。他人に自分の家庭をどう築きましょうかって訊いてもしょうがないよ。いや、考えて分かんなくてプロに訊くのはいいかもだけどさ、思考停止して答えだけ求めるのは良くない」
 思考停止という表現は何だか納得できた。遥が暴れたとき、かあさんは自分で遥と向き合わず、医者のほうに投げた。
「他人には分かんないから、家族なんだ。絶体絶命にぐちゃぐちゃで、もはやそこが家庭とは呼べない感じなら、どう建て直しましょうかって医者頼っていいと思うけど。まだ、そうじゃないよな」
 うなずいた僕は、二日前の遥を想う。遥は医者が来るまで暴れていたのではない。医者が来たときには、すでに痙攣だけに収まっていた。もしかしたら、医者が来なければ、弱くなった気持ちで僕たちに何か話をしていたかもしれない。絶対に話ができていた、とは言えなくても、遥自身が嫌がる医者を呼んだのは、拒絶とも取れそうな早合点だったかもしれない。
「家族で話して問題解決するほうが、やっぱ絆になるよな。どうしても解決しないなら、知恵をもらいに医者にかかる。それでも、医者は知恵をやるだけで、答えは言い切るべきじゃない。これが正解の家族だって、定義できるもんじゃないからね」
「うん」
「ま、現実にはそう簡単でもないか。知恵授けたって、それ自体が噛み砕けないとか、すぐ忘れるとかあるだろうし。医者にかかって、それで答えが見つかるなら、その問題はまだマシなんだろうな」
「……うん」
「兄貴がさ、昔言ってたよ。医者は見つけることもつきあうことも、ときには取り除くこともできるけど、心の傷に一番必要な、与えて満たすことはできないって」
 睫毛を床に下げたあと、希摘は身を起こして「悠芽が思うやり方ならできるよ」と穏やかに笑む。
「あったかく触れあうって」
「そうは思っても、どんなのが触れあいになるかは分かんないんだよね。あったかいって、どういうことだろ」
「自然にやることなんで、考えてやろうとするとむずかしいよな。いつも言うけど、こうして遥くんのことを考えてやってるだけいいほうだよ。並みの奴なら、何も考えずにほっときますよ」
「口先では僕はそうなんだよね。ほっといてやるって。何でこんな気にしてるんだろ」
「いい意味で、言ってることとやってることが違いますね。悠芽は遥くんの突破口なのかもな」
「突破口」
「大人はさ、悠芽の両親みたく考えるんだよ。取り返しのつかない失敗はしないようにとか。保身かな。みんな、遥くんをこれ以上傷つけたくないのではない。遥くんを傷つけて、その失敗に自分が傷つくのが嫌なんだ」
 僕は神妙にうなずく。それはとても真理に思えた。
「被害者あつかいは、被害者に一番やっちゃいけない。傷を意識させる。被害者って自分の傷を醜く見てるから。そんなことないのにね。何も変なとこはないよって、特別あつかいしないほうがいいんだ。悠芽は、遥くんを被害者あつかいしたくないと思うんだよな」
「うん」
「大人の安全策に違和感も感じてる。悠芽は遥くんに精神的なんだよ。みんなが自分に対して理性的で、完璧な態度だったら、守られてるけど壁高すぎて何にも見えないよね」
「……そっか。そうだね」
「完璧につきあうって、俺がされたことみたいなもんなんだよ。殴られたら、殴り返すこともできる。無視はどうしようもない。完璧な態度は、無視と同じ。気持ちがない。無視が反撃させないみたいに、完璧な態度って処理されてるように感じさせる。それでも、大人にはそれしかしない」
「……完璧なものって、完璧なほど造りものみたいだよね」
「そう。悠芽はそういうやり方につきあう必要はないと思う。大人でもないんだしさ。大人のやり方は、大人にやらせときゃいいよ。ガキの特権で、青臭くやってみてもいいんじゃない? 傷つけなきゃいいってもんでもないし」
「遥を傷つけるかもしれないのは、ちょっと勇気いるね」
 僕が正直に述べると、希摘は少しくすりとして、「はい、問題です」とかしこまる。
「遥くんの心の傷が、軆の病気だとします。果たしてその病気は、食後にお薬飲むだけで、痛みもなく治るでしょうか」
「……治りません」
「うむ。きっと大手術だよ。手術自体は、麻酔の中でやれるかもしれない。けど、やっぱり、麻酔の注射は痛い。手術のあと、麻酔切れても痛い」
「うん」
「傷つけなきゃいいと思ってる限り、始まらないよ。もちろん、包丁で腹えぐるような痛みは与えちゃいけない。何だろ、赤ん坊が生まれるときみたいな痛みなら、与えてもいいんじゃないかな。俺たち男だから、生みの苦しみを喩えにしていいか分かんないけど」
「はは」
「尊重してやりなよ。触れあうってのは、怖がらないことだよ。俺も学校とか同世代が怖いんだ。何考えてんのか、ぜんぜん分かんない。家とか悠芽は怖くない。分かるから。で、許せるって判断がつく。『お前のこと怖くないよ』って表示が、医者を呼ぶことか、話を聞くことなのか、分かるだろ」
 僕はこくんとして、「遥に伝わるかな」と膝を抱える。「分からせるのは急がなくていいよ」と希摘は回転椅子で揺らぎながら答えた。僕は考えて、もう一度うなずいた。
「ごめんね。最近、話こればっかで」
「いや、俺もずけずけ言ってごめん。えらそうなわりに、本とかの受け売りも多いし」
「ううん、こんなん聞いてくれるの、希摘だけだからありがたい。そうだ、明日駅前行こうと思ってるけど、何か買ってきてほしいものとかある?」
「あー、鉛筆削り。切れ味悪くなってきた」
「百円のでいい?」
「うん。いや待って。金あったかな」
「いいよ、買ってくる。お詫びです」
「いらん」
「お礼です」
「どうも」
「何か違うかな」と僕は咲って、「何かは違う」と希摘も咲う。
 それから、僕たちは話題をゲームのことに切り替えた。希摘は椅子を降り、テレビの前に座る。僕もベッドを這って、電源が入ったテレビを覗いた。
 そうして空が茜色に陰ってきた頃、僕はのろのろと腰を上げた。「しゃんとしなさい」と先に階段を降りる希摘に言われ、「だってさ」と僕は家にいる遥にいざとなると憂鬱になってしまう。
「来週も来るのか?」
「うん。あ、何か描いてるなら邪魔かな」
「いや、ぜんぜん。悠芽が面倒じゃない?」
「まさか。希摘といると、友達といるなあって感じ」
「はは。遥くんのごたごたは気にせず愚痴りなさい。俺が悠芽にしてやれるのって、そのぐらいだし。教室で会えず、外出で遊べず」
「そんなことしなくても友達でいられる奴が友達って、けっこう支えだよ。来週は、鉛筆削りも持ってくるね」
「よろしく」と笑んだ希摘に僕は微笑み返し、カーキのスニーカーに足を突っこんだ。「じゃあね」と言って希摘がうなずくと、長くなった日に夕暮れがたなびく外に出た。
 開錠した自転車にまたがった僕は、子供たちをよけてペダルを漕ぎ、えんじ色に中和された橙色と桃色が、紫から紺に犯されていく瞬間を眺めた。

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