こんなに恋しいのに
ああ、何だかあのカクテルを飲み干したいな。そしたらきっと、美晴とキスしたみたいな味がする。美晴とキスしたい。ぎゅっとしてほしい。頭を撫でてほしい。美晴じゃないとダメだ。よく分かんないけど、美晴以外の男なんていまさら考えられない。
確かに俺はゲイじゃないかもしれない。ありふれたストレートかもしれない。それでも、美晴のことが本気で好きなのだ。
何で、そう言えなかったのだろう。ストレートだけど、俺は美晴だけは許せるんだよって、そう言えばよかった。
つんとした鼻から視界がぼやけ、溺れるようにネオンがゆらゆら揺れる。話し声や笑い声の喧騒が鼓膜をすりぬけていく。汗をかいているのに、寒いな、とちぐはぐなことを思う。
寒い。美晴の体温にしがみつけなくて、すごく寒い。
無意識のうちに駅前に出て、帰るか、とやっと気づいて、俺は終電が近い電車で帰宅した。明日はまた朝九時から予備校だ。
大学生になりたかった。美晴に追いつきたいのが目標になっていた。でも、美晴には捨てられた。美晴に出逢う前から漠然と大学生になろうとは思っていたのに、目標にしたものを得てから失うと、大学受験がバカバカしく感じられた。
それでも俺は、普通だから、脇道にそれるなんてできないから、大学生になるのだろうけど。
虚しいな。追いかけるものがないって、こんなに虚しいのか。美晴ともっともっと一緒にいて、手をつないで隣にいて、いろんな幸せを分け合いたかった。女の子とだって、そんなことまで強く想ったことはない。美晴が初めて、俺を本気にさせた。
ゲイだったらよかった。人とはちょっと違っていたい、そんな不純な動機じゃなくて。ゲイなら美晴と愛しあえるなら、ゲイに生まれたかった。
ストレートじゃ、同性を好きになっても信じてもらえない。美晴がこんなに好きだって、ゲイであれば証明できる。それなら、俺はゲイだったらよかった。
結局、夏休みは全部勉強に費やして終わった。気が遠くなるように長く、だが、気を失っていたように短かった。九月の新学期の教室は、同じ予備校に通った奴や一緒に課題をやった奴ばかりで、たいして懐かしさはなかった。
一学期よりさらに受験に色濃く追われて、それでも美晴への恋しさは遠ざからず、九月中頃の週末、一ヵ月半ぶりくらいにあのバーにおもむいてしまった。バーカウンターでオレンジジュースをもらって、美晴には会いたいけどあのときの男に会ったら怖いな、と周りを警戒しながら店内を歩く。
「お、梨斗じゃね?」
ふと名前を呼ばれて、どきんとそちらを向いた。けれど、そこにいたのは美晴ではなく、美晴の友達である紗良さんだった。
「あ、……こんばんは」
「んー。久しぶりだな?」
「受験勉強がいそがしくて」
「は? 美晴と別れたからじゃないの?」
思わず口ごもったものの、「それもあります」とうつむいた。相変わらず、発言に物怖じがない。
ミニスカートから伸びるなめらかな脚を組む紗良さんは、ビールのジョッキをあおってから俺を眺め、「まあ座んなよ」と言った。紗良さんといたら、美晴が来てもそんなに気まずくないかもしれない、そう思った俺は、テーブルにグラスを置いて、おとなしく席に腰を下ろすことにする。
「美晴と会う約束したの?」
「いえ。勝手に来ただけです」
「男漁り?」
「……では、ないですけど」
「ま、ストレートだもんね」
「………、美晴に、何か聞いてますか」
「梨斗はストレートだったから、つきあえなくなったって」
「そう、ですか」
「あいつは吹っ切れた感じ。やっと、男は遊びだとかファッションだとか言わなくなった」
「今、恋人とか」
「さあ。行きずりは、梨斗と出逢う前みたいにやってるみたいだけどね」
「俺、は──無理でした」
「無理?」
「美晴以外の男は、ダメだったというか」
「やったの?」
「できなかったんで。美晴と較べるし。美晴は……俺のこと、すごく大事に抱いてくれてたんですね」
「惚れてたからねえ」
紗良さんを見た。紗良さんはジョッキを空にすると、つまみのからあげをひとつ口に投げこむ。
「美晴は、俺のこと本気になる前に別れるって」
「本気だったかどうかは知らないけど、美晴は梨斗に惚れてたでしょ。行きずりばっかしてるの見てきたから分かる」
「俺は、本気になってくれて、よかったのに」
「男同士で本気になったら、人と違ってかっこいい?」
「っ……、そんなん、じゃなくて。最初はそう思ってたけど。凛那さんと琴生さんとか、そんな感じでいいなあって思ったけど。でも、美晴のことは誰かに見せるために好きになったんじゃなかった。俺が俺のために、美晴とつきあいたいって」
「マイノリティが個性的なアイデンティティ、みたいな考え方はやめたわけね」
「……はい」
「ふむ」と紗良さんはうなずき、ネイルアートの指先についた油を舐める。
「それ、美晴に伝えたら? たぶん、まだ誰ともつきあってないから。あいつも梨斗を忘れてないでしょ」
「ほんとですか」
「分かんないけどね。見てる感じだし。ただ、梨斗の話はぜんぜんしない」
「……忘れたんじゃ」
「意識してるから話せないんでしょ。整理ついて過去になったら、人に話せるもんだよ、どんな恋愛だったとしてもね」
「はあ」
「ちゃんと、考えを改めたことを言うんだよ。人間として変わってるから同性を好きになるんじゃないの。それが自分のセクシュアリティだから相手を好きになるんだ」
「……俺、結局、何なんでしょうか。女の子にここまで本気になったことないし、美晴が初めてなんです。こんなに、どうしてもそばにいたいのは」
「その気持ちのかたちはね、いろいろあるよ。ほんとにいろいろあるから、ただ、正直に好きな相手を好きでいればいい」
好きな相手が、好き。そうだ。男が好きなんじゃなくて、美晴が好き。性別ではない。そんなものは越えて、美晴というひとりの人間が俺は好きなのだ。
「俺、普通で平凡な自分が嫌だったんです」
「みたいだね」
「親も普通だし、学校でも普通だし、このままなら、一生普通の人生だろうなって。それが嫌で、男とつきあえばつまんない毎日から抜け出せるかなって思った」
「で、美晴とつきあってどうだった?」
「美晴と、つきあってるだけで──俺はじゅうぶん、自分が特別になった気がしました。美晴が男だからじゃなくて、俺が好きになった奴が俺を好きでいてくれて、それがすごく特別だった」
「そっか」
紗良さんは柔らかく微笑み、「それちゃんと美晴に伝えな」と言ってくれた。俺はこくんとして、「拒否されてるかもしれないけど、メール送ってみます」と立ち上がった。
「ここで待たないの?」
「顔見たら、冷静な言葉にならなくて、間違えそうだから」
「一応言っとくよ、梨斗が話したいって言ってたって。拒否してるなら解除しろとも伝える」
「ありがとうございます。じゃあ、今日は帰りますね」
「おう」
俺はオレンジジュースを一気飲みすると、立ち上がって紗良さんに頭を下げ、グラスをカウンターに返してバーをあとにした。顔見たら、と言いつつ、どこかではすれちがわないかなあと期待したけれど、美晴には会えなかった。
でも、頑張ってみよう。どうしても美晴を忘れられない。美晴しか幸せじゃない。それを伝えて、女とつきあうのはつまらないから男とつきあう、それが自分の個性だ、なんて思考は二度と語らない。
恋はそんなこみいったものじゃない。きっと恋愛をしたことがなかったのだ、俺は。美晴を好きになって知った。人を好きになることは、周りにアピールするためにするものではない。もっと、めちゃくちゃ、個人的なものだ。美晴とつながっていたいのは、彼が俺の幸せそのものだからだ。
帰りの電車から、さっそく美晴に送信する文章を考えはじめた。全部メールで説明する必要はないと思う。会ってもらうために説明する部分と、会ってから説明したほうがいい部分がある。
美晴に会いたい。美晴以外の男は無理だったし、欲しいと思えない。美晴の優しさが今なら分かる。それを俺の自己顕示や承認欲求で踏み躙ったことも。
確かに俺はゲイじゃない。ストレートだと思う。でも、そのセクシュアリティも飛び越えて、俺は美晴のことだけは──
数日かけて推敲し、思い切ってメールを送信した。それから、そわそわと何度もケータイをチェックしたけど、なかなか返事はなかった。
拒否されているのだろうか。もし紗良さんから何か伝わっていたら解除してくれていると思ったけど。それでもなお、拒否しているのだろうか。
九月が終わりかけても、残暑で日射しは厳しい。俺はすっかり落ちこんでいて、勉強に集中できなくて成績が少し落ちた。友達に何かあったのかと訊かれても、首を横に振って無理やり咲った。親も何かあれば相談してくれと言ったが、俺は黙りこくったのち「ちょっと外の空気吸いたい」と席を立ち、ケータイと財布を持って家を出た。
秋の虫が、夜を澄んだ鳴き声で彩っていた。時刻は二十一時をまわって、この時間帯ならさすがに風も冷めている。美晴からの返信はなくて、深くため息をついたあと、怖いけどもう一回あのバーに行こうかな、とちらちら悩みはじめた。
九月が十月になる土曜日の夜、「友達の宿題手伝ってくる」と適当なことを言って、あのバーがある通りに出かけた。相変わらず同性のカップルがいちゃいちゃくっついて、ささやいたりキスしたりしている。
入場料とドリンク代を払って店内に踏みこむと、よく冷房が効いていた。寒いな、と思うのだが、基本的に酒を飲む場所なのでほてる体温に合わせているのだろう。暗めの照明の中、雑談が散らばる人混みの中を歩いていく。
例によってオレンジジュースを手に入れて、店内をきょろきょろするけど、美晴がそう簡単にぱっと見つかるわけもない。紗良さんもいないし、凛那さんと琴生さんもいない。それ以外の人にも美晴は俺を紹介していたけど、ちゃんと憶えていない人もいる。
美晴に、今この店にいることをメールしてみた。それから、カウンターのスツールに落ち着いて頬杖をつき、オレンジジュースのすっきりした酸味をすすりながらぼんやりした。
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