もう一度
美晴にどのくらい会ってないかな、と振り返って、もう二ヵ月以上経っていることに驚いた。美晴は本当に俺を忘れていないのだろうか。行きずりを重ねて、俺のことなんて霞んでしまっているかも。
新しい恋人がいないと言い切れるわけでもない。紗良さんはああ言っていたけど、確認したわけではない。
もう二ヵ月も、美晴にぎゅっとされてない。頭をよしよしと撫でてもらっていない。舌を蕩かすキスもされていない。でも、いくら飢えても、それをほかの人にしてもらおうとは思えない。
美晴ではないとダメなのだ。美晴に会いたいなあ、と切実に心が絞られ、息が苦しくなる。
最悪、よりを戻せなくても。そう覚悟するときもある。そうなったとしても、せめて、美晴とつきあうことを奇抜なファッションのように言い続けたことを謝りたい。それだけは伝えないと、俺は忘れられるどころか美晴に嫌われてしまう──
頭を抱えこみ、重苦しい吐息をついたときだった。ふと背中をたたかれ、どきっと肩をこわばらせる。
え。何。美晴?
いや、まさか。ナンパか。うざいな。そういうつもりで来てるんじゃないのに──
そんなことを考えながら、俺はゆっくり顔を上げて振り返った。
「久しぶり。ええと、梨斗だっけ?」
俺はスツールの上で凍りついた。そこでにやにやしていたのは、美晴に振られたあとの俺をモーテルに誘いこんだ、あの男だった。とっさにフラバしたあのモーテルの一室の出来事に、俺はぱっと視線をそらしてしまう。指先がかすかに震える。
「彼氏待ってんの?」
「……あんたとは話したくない」
「しゃぶらせてやった仲じゃん」
「好きでしゃぶったんじゃねえよ」
「それにしては、下手くそなりに必死にくわえて──」
「待ってる人がいるんだ。構わないでくれよ」
「何だよ。マジでもう彼氏作ったんだ。あっさり忘れたもんだなあ、元彼のこと」
失せろ。頼むから消えてくれ。
あの日の吐き気がもやもやと喉にこみあげてくる。気持ち悪い。俺はこんな奴とキスをして、こんな奴のものをしゃぶってしまった。中を犯されなかっただけ、あの状況を思い返すとマシだけれど──
「なあっ、」と突然そいつが俺の肩をつかんで引っ張ってきて、俺はびくっと彼を見る。
「話聞けよ」
「うるさいな、俺は人待ってるから──」
「だからさー、嘘だろ。一時間くらい、ずっとここに座ってんじゃん。見てたからね」
「それ、は……」
「相手遅れてんの? でもケータイも見ないし」
「関係ないだろっ。ほっといてくれよ」
「俺、梨斗と最後までできなかったのすっげえ悔しくてさ。なあ、ホテル行こうよ」
「行かねえよ。そのへんの誘ってろ」
「一度梨斗ですっきりしたいだけだから。頼むよ」
「しつこいな、粘着すんじゃねえよっ。そんなだから彼氏に本気になってもらえね──」
最後まで言えなかった。突然がしっと髪を鷲掴みにされた。頭皮が剥がれそうな痛みに思わず言葉がすくみ、そいつのいらだった目に神経がこわばる。
やばい、と思ったのと同時に、ぐいっと髪を引っ張られてスツールを引きずり下ろされた。泣きそうになった、そのときだった。
「悪い、そいつ俺のこと待ってたんだと思うけど」
俺は目を開いた。嘘。この声──
「何だよ、お前──」
「いいからそいつ離せ。殴るぜ」
「……んだよっ、ほんとに待ってんのかよっ」
乱暴に床に投げつけられ、俺はよろめいて倒れこんでしまった。そいつは舌打ちして立ち去ろうとしたが、「おい」と声が呼び止める。ついで、うざったそうに振り返ったそいつを声の主はストレートでがつっと殴りつけた。
足元をふらつかせて頬を抑えたそいつは、「てめえっ、」と殴ってきた相手につかみかかろうとした。が、その前に「いい加減にしろっ」と周りが抑えつける。
俺は床にへたりこんでぽかんとしていて、すると、不意に「梨斗」と懐かしい声に名前を呼ばれて、手をさしだされた。
俺は顔を上げる。呼吸が引き攣る。
嘘。嘘だ。幻だ。
だって、……だって、
「美晴──」
「大丈夫か?」
美晴は変わらない優しい微笑を浮かべて、俺を見つめてきた。それだけで、俺は軆の端々が痺れるほど嬉しくて、両手で美晴の手をつかむと、肩を震わせて泣き出してしまった。
美晴は俺の正面に膝をつき、俺を抱き寄せて頭を撫でてくれる。美晴の匂い。体温。手の感触。俺は美晴の胸にしがみつくと、「会いたかった……っ」と壊れそうな声で伝えた。
「俺も会いたかったよ」
耳元に流れこむ美晴の声。それが心地よくて、俺は噛みしめるように目をつぶる。それでも、涙がぽろぽろと頬を濡らしてしまう。
「梨斗のこと、ずっと気になってた」
「……ほん、と?」
「そんな簡単に忘れられるか」
「俺……美晴に、いっぱいひどいこと、」
「紗良に少し聞いた」
「拒否……してた?」
「いや、読まずに消してた。ごめん。読んだら揺れそうだったから」
「……ううん。ここにいるっていうのは読んだの?」
「それ見て急いできた。会って話したかったし」
俺は顔を上げ、まばたきで水気をはらうと美晴の瞳を見つめた。相変わらず艶のある瞳。髪に手を伸ばすと、くせが指先で遊ぶ。
間違いない。美晴だ。俺がずっと会いたかった人だ。
じたばた暴れていた野郎は、普段カウンターから出てこないマスターに外に引きずっていかれた。「あいつ……」と美晴はそれをちらりとして、「一度、一緒にホテル行ったけど」と俺は小さくつぶやく。
「できなかった。美晴以外、無理だって分かった」
美晴は俺を見つめて、「そっか」と言うと、俺の手を引いて立ち上がらせてくれた。俺はもう一度、美晴の手を強くつかんだ。美晴はあの野郎に引っ張られた俺の髪を撫でて整え、「とりあえずホテルで話すか」と言った。俺はこくんとして、美晴の腕にしがみつく。美晴の肌が懐かしい。
美晴は、戻ってきたマスターやあの野郎を取り押さえてくれた人に感謝と謝罪を述べた。俺も頭を下げる。そしたら、俺たちはみんなに「仲直りしてこい」とはやし立てられて、照れ笑いしながら一緒にバーを出た。
夜は肌寒くなったから、夏より美晴の体温がこころよい。美晴と一緒なら、周りの闇の中でいちゃつく奴らの窃笑も気にならない。美晴を見上げると、涼しい夜風がすうっと抜けていく。
「美晴」と俺が服を引っ張ると、「ん?」と美晴は見た。美晴の瞳の中に自分が見つかるのが、くすぐったくても嬉しい。
「もう、恋人いたりはしないよな?」
不安がこもった俺の声に美晴は噴き出し、「そんなに切り替え早くないし」と俺の額を小突く。
「……そっか」
「梨斗は、女の子と試した?」
「ううん」
「それでいいのか?」
「うん。俺、男とか女じゃなくて、美晴が好きなんだって分かったから」
美晴がまばたきをして、言わなきゃ、と俺は言葉をつなげる。
「俺、確かにゲイじゃないよな。美晴に会わなきゃ女とつきあってたと思う。でも、美晴は特別なんだ。性別とかじゃなくて、俺は美晴が──」
言葉の途中なのに、突然美晴が俺にキスしてきた。ふわりと軆が陶酔する。すぐ唇をちぎった美晴は頬を染めていて、「嬉しすぎて我慢できなくなるから、ホテルでゆっくり聞く」と言った。そう言われると俺も恥ずかしくなってしまって、「うん」と美晴にただ寄り添った。
いつも使っていたモーテルの一室に着くと、ベッドサイドに並んで腰かけた。「何か飲む?」と訊かれて、「今はいいや」と答える。
しばらく沈黙していたけど、俺たちはどちらからともなく視線を重ねた。美晴はそっと俺の頬に触れ、その指先の温もりにまた瞳が潤む。「あのときはごめん」と美晴が言い、俺は大きく首を横に振った。
「俺が、自分のことしか考えてなかったのが悪いんだ。美晴は悪くない」
「梨斗の気持ちを信じてあげられなかった」
「信じられないよ、あんな……実際、俺は承認欲求の塊だったし。誰に認めてほしかったのかはよく分かんないけど、自分は普通じゃない、人と違う、変わってるんだって、そういうことばっかり考えてた」
「普通っていうのが、そんなにつらかったのか」
「………、昔から、特に何かに飛び抜けてるタイプではなかったし。家も普通だし、学校でも普通だし、俺には俺らしいところがひとつもないなあって……。コンプレックスだったのかな」
「そっか」
「でも、だからって男とつきあえば普通じゃなくなるとか、すごく失礼だったよね。ごめんね」
「いや。俺は逆に、自分は普通だって思いたかったから。ゲイなのにな。いつか女とつきあうとかバカだよな」
「ゲイってことに悩んで、自分で受け止めきれなかったらそう思うんじゃないかな」
「うん……。でも、梨斗のこと好きになって、どうしてもゲイなんだなってやっと認められた」
俺は美晴の横顔を見つめる。美晴ははにかんで咲ってくる。
「梨斗が本気で好きだから、梨斗には俺はそうじゃないのかも、見せかけのファッションなのかもって、つらかったんだ」
俺は美晴の手をつかみ、「『好き』って言ってくれたね」と微笑んだ。その指摘に美晴はわずかに頬を染め、それでも「梨斗が好きだよ」と繰り返してくれる。胸の奥がじわりと蕩けて、飢えていた心が満たされていく。
「俺も美晴が好き。人に見てもらうためじゃない。美晴のことしか好きになれないし、美晴といると幸せだから、美晴が好きだよ」
「梨斗……」
「男とか女とかじゃなくて、美晴がいいんだ」
美晴は腕を伸ばして俺を抱きしめた。俺も美晴にしがみつく。美晴の少し駆け足の鼓動が聴こえる。温もりと匂いが、柔らかに肌に染みこんでいく。
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