風切り羽-10

穏やかな部屋

 悠紗は聖樹さんの手伝いを続け、バスルームを流しにいった僕は、窓を少し開けておいた。戻った頃には洗濯物も片づき、それから服を選び出した悠紗は、「僕もお風呂」とバスルームに行って聖樹さんに追いかけられる。親としては、まだひとりでシャワーを浴びさせるのは心配なのだろう。僕は広い部屋にひとりになった。時刻は二十時をまわっている。
 みんな向こうに着いただろうか。先生たちは、僕の家族──おとうさんに、僕が失踪したのを話しただろうか。
 僕が消えたと知れば、おとうさんはどうするだろう。警察に連絡するかもしれない。警察が完璧ではないのは知っていても、悠長にしていて安心なものでもない。警察は家出は相手にしないと聞いたことがあるけども、これは果たして家出なのか。修学旅行の最中に消えた、というのが悪く取られる恐れはある。おとうさんのことだし、警察に振られたら探偵に頼ったりもしそうだ。おとうさんは僕がいないと困る。おかあさんを失くしたおとうさんには、僕しかいないのだ。血眼で捜すだろう。そして──
 睫毛が下がって、悪いひずみに堕ちる。またたいた記憶の断片に、頭が冷たくなり、過ぎた混乱に何も感じなくなった。吐き気もなく、めまいが澄み渡る。内面が平面的な無になり、僕は空虚な鬱に沈んだ。灰色の眼界に、空白が反響する。
 おとうさんなんかいらない。嫌いだ。顔も見たくない。学校の人たちと同じだ。あっちの人みんなが大嫌いだ。家にも、学校にも、僕には安らげる居場所がなかった──。
 消え入りそうな呼吸に落ちこんでいると、聖樹さんと悠紗が帰ってきた。首を曲げると、「どうしたの」と悠紗は敏感に僕を察して、駆け寄ってくる。僕は微笑んでかぶりを振った。
 嘘ではなくも、平気なわけでもなかった。この無感覚のときには、すべてがどうでもよくなる。悠紗は僕の気持ちがつかめなかったのか、不安そうにした。「大丈夫だよ」と僕はドライヤーを渡し、じっとこちらを見た悠紗は、しぶしぶうなずいてドライヤーを聖樹さんに渡す。僕を見つめていた聖樹さんは、それを受け取ると、座らせた悠紗の髪を乾かした。ふたりの様子を眺めていると、空っぽになっていた僕の胸には、安堵と疼痛が同時に湧き起こる。
 家族だなあ、と思う。聖樹さんと悠紗は家族だ。親子という前に、家族だ。血が家庭を作るとは限らないのを、僕は身を持って知っている。僕の家庭は崩壊していた。おかあさんがいた頃も終わっていた。両親に愛されていたのは知っている。それが永続的なものではなかったのも知っている。憎悪には力がいる。僕には捻くれる気力がなかった。ただ哀しかった。聖樹さんと悠紗を見ていると、静かに息が切なくなる。
 僕の家はこんなじゃなかった。
 髪を乾かされた悠紗は、あくびや目をこするのを増やし、聖樹さんに寝る支度をうながされた。素直にそうした悠紗は、最後に僕に「おやすみ」と言う。「おやすみ」と僕が返すと悠紗は満足し、聖樹さんと寝室に入っていった。
 残された僕は、掛け時計の針の移動を観察していた。まもなく帰ってきた聖樹さんに、「何か飲む?」と訊かれてこくんとする。右膝をいたわって動く僕に、聖樹さんは傷の具合を問うた。「大丈夫です」と返すと聖樹さんは食い下がりはせず、キッチンで紅茶を作ってきてくれた。
「何か、ごめんなさい」
 湯気を昇らせるカップで、冷たい指を癒しながら僕がそう言うと、聖樹さんは首をかたむけた。
「僕、ずうずうしいですよね。分かってはいるんです」
 聖樹さんは恐縮する僕に咲い、「そうでもないよ」と紅茶を飲む。
「ずうずうしい人は、自覚しないしね」
「やってることは同じですよ」
「でも、こっちに選択させる。僕が勧めてるんだし、お節介はこっちだよ」
「そんな、聖樹さんのこと、そんなふうには思ってないです」
「僕もだよ。萌梨くんのこと、そんなふうには思ってない」
 聖樹さんを見た。微笑まれて決まり悪くなり、澄んだ香りの紅茶に口をつける。ほのかな甘味の中には、締まった渋味があった。
「聖樹さんと悠紗って、仲いいですよね」
「え、そうかな」
「最近だとめずらしくないですか」
 聖樹さんは一考し、「どうだろ」とつぶやく。
「あの子はまだ小さいしね。大きくなったら分からないよ」
「大丈夫な気がします」
「はは。親としてはそうだと嬉しいな。正直、不安ではあるんだ」
「そうなんですか」
「うち、片親だしね」
 僕は内心どきりとする。そこに触れられたのは初めてだ。
「萌梨くんは家──あ、そうか。ごめん」
 ばつの悪そうな聖樹さんに、今度は僕が咲う。
「僕の家も、片親なんですよ」
「あ、そうなんだ」
「でも、それが嫌なわけじゃないです。父親と暮らしてて、そのおとうさんが精神的に弱い人で、それが」
 聖樹さんは紅茶をすすり、睫毛をかすかに陰らせると、「僕も弱いよ」と言う。
「悠紗にやっと支えられてる」
 聖樹さんの瞳が、深い水底の色になった。見つめる僕を映し返すと、すっと凪に変わる。そのもろい様子に、聖樹さんが弱い面も持ち合わせているのは分かった。
 聖樹さんと僕は、しばらく話をして心を打ち解け合わせた。すっかり聖樹さんに警戒はない。家や学校のことは話せなくても、当たり障りない話ができるのだって、僕には進歩だ。帰るかどうかの話は、ついに出なかった。
 二十時頃に聖樹さんはシャワーを浴び、僕はテレビを観た。タレントの言動はよく分からないなと思っていると、帰ってきた聖樹さんは髪を乾かした。朝は乾かしてなかったのに、と首をかしげ、聖樹さんの柔らかそうな髪質に納得する。あれを湿らせて寝たら、寝ぐせがすごそうだ。二十三時過ぎに、「昨日は遅かったしね」と聖樹さんは就寝をほのめかした。部屋の隅に置きっぱなしだったふとんを、今日は自分で敷く。「おやすみ」と聖樹さんは明かりを消して寝室に行き、ひとりになった僕もふとんにもぐりこんだ。
 身を丸めると、僕の匂いが残っていた。そういえば今朝はひどい目覚めだった。よみがえった悪夢が喉元を絞めつけ、まくらに顔を伏せる。胸を冒す黒いものを、噛んだ唇で何とか塞ぎ抑える。眠くないし、目は冴えている。そう思っていたものの、暗闇にいると意識は揺蕩ってきた。あんな夢を見ないといい。願っていると、いつのまにか何も考えなくなっていた。

第十一章へ

error: