陽炎の柩-10

地下室

 暗くなる室内に、紙の文字も読み取りにくくなってきたときだ。紙にかかる影が、急に濃くなった。
「飛季は暗いね」
 はっと顔を上げると、いつのまにか真正面に実摘が立っていた。
「すごく綺麗なのに、暗いから、ぜんぜんダメだよ」
 実摘はこちらを直視している。何とも返せず、飛季は手元の紙をベッドに置いた。それを素早く取り上げた彼女は、紙を広げて眺める。
「それって、俺のこと?」
 取りとめなく訊いた飛季に、実摘は首を横に振った。
「僕だよ」
「君」
「忘れないでほしかったの。また来るから。でも絶対忘れるから、書いたの」
 絶対忘れる。彼女は飛季にかなりの印象を与えているのだが。
「僕ね、いないの。冷たいといないんだ。熱いといるよ。でね、暗いの。分かってるの。僕は、真っ暗だよ。光は全部持っていかれた」
 実摘は飛季の右側に座った。提げていたリュックは膝に乗せる。
 光は全部持っていかれた。真っ暗だ。
 ──何だか、分かる。飛季も暗闇にいる。幼い頃から自分を抑え、ひたすら日向を避けてきた。人を殺してマシになり、心を血まみれにしている。死ぬまでそうだ。抑圧の反動と哀れな慰安に、飛季の心はどす黒い血に溺れ続ける。
「飛季も、暗いね」
 実摘の儚い声に、飛季は耳を貸した。こんなにしゃべる彼女は初めてだ。
「でも、僕は太陽のないとこにいるの。飛季は自分の地下室にいるの」
「地下室──」
「出ればまぶしいの。あったかくもなれるよ。僕には太陽がないよ。冷たくて暗い」
「俺にもないよ、太陽」
「あるよ。飛季は太陽を拒否してるの」
 実摘は紙を折りたたみ、リュックにしまう。中には緑色の毛布が入っている。
「この部屋には、飛季の目の匂いがいっぱいしてるよ。飛季の地下室の匂いがするの。僕、分かるよ」
「目の匂いって」
「目ってね、心の鏡なの。僕、それが分かるの。生まれつきなの。飛季は目が剥き出しだよ」
「………、」
「あんまり強烈だから、ほとんどの人は麻痺して、普通に感じてるの。僕はね、壊れてて分かるの。飛季の目は、鏡が折り重なってめちゃめちゃだよ」
 飛季は、無造作に膝の上の指を絡ませた。
「代わりに、匂いはしてるよ。飛季の目の匂い。地下室の心の匂いがする。その匂い、この部屋いっぱいにしてるの」
 実摘は脚を抱えて、膝に顔を埋めた。何だ、と思っていると、彼女は肩を寄せて丸くなる。なぜか口もつぐんでしまう。
 また「変化」したのか。飛季は実摘の性格が変わる前に訊いた。
「どんな匂いがしてる?」
 実摘はごそっと顔をあげた。息を詰めた。その目は笑っていた。
「血の匂い」
 心臓が硬くなった。実摘はベッドに倒れこんだ。「飛季の匂いがするよ」と空洞の空いた無邪気な笑い声がした。
 飛季は動けなかった。喉が冷えこみ、痛くなっていた。実摘の手が尾骨を這う。ついで頬が当てられ、彼女は静止した。細い息遣いが服を通して肌を温める。
 飛季は急にベッドを立った。飛季の腰がなくなり、実摘は顔面をシーツに落とす。
「飛季──」
 部屋は暗くなっていた。飛季は玄関にあるスイッチで明かりをつけた。ベッドスタンドにリモコンがあったが、そこを立ちたかった。
 ついた明かりに室内の情景が照らし出される。実摘は頭をベッドから垂らして、ベッドを這って降りていた。床におりると、四つんばいで部屋の隅に移動していく。
「実摘」
「ごめん、なさい」
「は?」
「僕、うるさかったの」
 思わず面食らった。慮外の反応だ。
「静かにしてるの」
 飛季は部屋の中に戻った。
「話していいよ」
「うるさいもん」
「うるさくないよ」
「うるさいよ。黙ってるの」
「構わないよ」
 実摘はかぶりを振って、飛季を背中で拒んだ。隅にうずくまる彼女にため息をつく。そっとしておいた。飛季も自分に閉じこもりたかった。
 ベッドに腰かけ、実摘の話を冷静に反芻する。地下室の心。目という鏡。その匂い。血の匂い。気味が悪いほど、的確な指摘だ。太陽を拒絶するという形容も、折り重なり麻痺させるという換言も、飛季の仮面を表している。
 たった十五歳の少女に畏怖を感じる。彼女には、全部透視されているのか。思えば、彼女には仮面をかぶって接していない。この部屋で過ごしているからか。彼女が無意識にそうさせる人間なのか。それとも──。
 実摘の背中は、音もなく震えている。怯えきっている。隠れて人目につかないように、殻の中で傷ついている。白いうなじの痣が痛い。
 彼女といると、飛季は仮面をかぶらない。それはもしかすると、彼女があまりに存在感が薄いせいなのだろうか。
 美しい顔立ちや奇異な言行は、飛季には強烈だ。しかし、彼女が触れられる軆を持っているという感覚は極めて希薄だ。彼女の体内を犯したのも、夢中になりすぎて記憶は白光で砂になっている。
 共に過ごしていていいのか、不安になる。この子が安全な子だとは思えない。
 彼女は、家に帰らず、飛季の部屋に住みつこうとしている。こういう場合は、どうしたらいいのか。
 彼女は未成年だ。たぶん家族はいる。「いらない」と言っていたし、存在はしているのだ。家族は、この子を探していないのだろうか。捜索願いぐらい出しているだろう。
 そう、警察だ。こういうときは、警察に通報して保護してもらうのが一般的だ。とはいえ、すんなり実摘を警察に連れていくのは、気が引けた。
 飛季は実摘を抱いた。口づけの痕も残した。万が一、彼女が警察にそのことを話したら。明日には仕事に行かなくてはならないのに、彼女を追い出す勇気が持てるか分からない。
 後悔が渦巻く。なぜ彼女を部屋に入れてしまったのか。リュックに頭を突っ込んでいる実摘を眺めた。別にあの子が嫌いなのではない。しかし、好悪と許容は別物だ。飛季は彼女の分散した心を信じられなかったし、いろいろ見透かされて、かえって彼女に心を開きたくなかった。
 実摘と関わりたくない。この子は正しい。飛季は太陽を拒否し、地下室にいる。逆に、実摘は太陽を求めている。実摘といて、彼女が太陽をつかみとったら、飛季は目をつぶされる。血に濡れた瞳を炙られる。
 夜が深まっても、実摘は片隅を動かなかった。ただ、リュックの緑の毛布を取り出し、頭にかぶりだした。まるで、不要の家具に装飾の布をかけたようだ。何かぼそぼそ言っているのが聞こえ、不気味だった。
 冷蔵庫のもので、夕食を作った。昨日の買い物で食材はあった。一瞬考え、実摘のぶんも作っておくことにする。
 料理といっても、普段は弁当に頼っているとおり、大した腕前ではない。食べられればいいという感じだ。今日作ったのも、レトルトのホワイトシチューだった。
 煮込んでいるあいだに、開けっぱなしのカーテンを閉めにいった。空は晴れていて、星をまとう月も映えている。
 実摘にシチューは食べれるかを訊いた。突っ張っている頭はかすかに上下した。実摘のぶんも作っていることと、空腹になったら食べていいことを伝えると、再び頭は上下した。
 実摘のかぶる毛布は、柔らかそうなパイル生地だ。緑色はけっこう色あせていて、染みもあるし、裾はほつれている。かなり年季が入っている。この子は、どのぐらいこの毛布と一緒にいるのだろう。
 飛季はキッチンに戻り、シチューがいい具合になると火を止めた。味見をすると、人に食べさせられない味ではなかった。シチューを皿によそうと、ミニテーブルに持っていった。これを食べれば、やることをして、なるべく早く眠りにつくつもりだ。
 明日の仕事に備え、さっさと一日を済ます。夕食を平らげ、コーヒーでひと息つくと、飛季は実摘に断ってシャワーを浴びにいった。汗を流して軆を洗うと、ゆっくりせずに上がる。部屋に帰ると、実摘はまったく身動きしていなかった。
 水に浸していた食器を洗い、水切りに並べる。やることを済ますと、飛季はベッドにもぐるだけになり──その前に、実摘のかたわらに行った。
「俺、寝るよ」
 実摘の軆が動き、前髪のかかった目が向けられた。澱んでいる。
「いい?」
 実摘はこくんとした。頭を毛布から出すと手招きする。何となく従い、飛季は腰をかがめた。すると、実摘は首を伸ばして口づけてきた。驚いて固まってしまうと、実摘は唇をかすめただけで顔を離した。
「実摘──」
 狼狽える飛季を無表情に観察すると、実摘は毛布をかぶって空気に還っていった。飛季はぎこちなく腰を伸ばす。舌先が唇を舐めた。不思議な感じがした。
 明かりを消してベッドに行くと、飛季は目覚まし時計をかけた。二十五年間の原則で、飛季の平日の起床は七時だ。
 ブランケットにもぐると、自分のものではなく、慣れない匂いがした。実摘の匂いだ。そう認めると、心臓がざわめいて飛季は焦った。知覚しないように努めて、まぶたを下ろす。
 頭が微睡み、ふやけきった意識に物音がした。部屋をうろつきまわる足音だ。確かめるのも面倒なぐらい、軆は重くなっていた。頭上のキッチンでがちゃがちゃと何か聞こえ、ずるずると行儀の悪い音がした。そのあと、また足音が部屋をまわる。落ち着いたかと思うと、今度はテレビのほうで音がした。
 かすみがかって、意識をもうつかめない。英語か何語か知れない悲鳴が鼓膜をはじいた直後、何にも分からなくなった。
 やがて目覚まし時計が頭に響き渡った。腕を掲げて憎たらしい音を止める。のっそりとうごめいた飛季は、眼球をさらした。ゆっくり寝返りを打ってうつぶせになると、まくらに顔を伏せる。
 七時か、と思った。だるい。仕事だ。嫌だ。
 仕方なく起き上がると、ベッドの上でぼうっとする。頭を弱々しく左右に揺する。トイレ行こう、とベッドを降り、ふと気がついた。
 そういえば昨夜、実摘を部屋に泊めた。あの子はどこだろう。部屋を見まわして眉が寄る。
 彼女のすがたはなくなっていた。部屋の隅にはいない。キッチンに置いていたシチューの鍋のふたが開いている。覗きにいくと、空っぽだった。昨日、寝る直前にキッチンでごそごそいっていた気がする。
 室内に向き直ると、リュックもない。玄関に行くと、靴もない。何気なくドアを開けてみると、鍵がかかっていなかった。思わず舌打ちして、いまさら鍵をかける。
 出ていったらしい。まあ、よかったか。実摘を置いて出勤するのは躊躇われる。
 今回は部屋を荒らしていない。彼女がいた空気も残っていない。実摘がうずくまっていた部屋の隅は、いつも通りだ。
 飛季は、ひとまずトイレに行った。
 次に逢ったら、どうすべきか。できれば関わりたくない。飛季は自分の地下でひっそりと眠っていたい。かきみだされたくない。恐怖と欲望が入り混じった、よこしまな心の波動は気に障る。
 飛季は実摘を何にも知らない。実摘は飛季を捕らえている。その差が怖かった。
 用を足してトイレを出ると、息をついた。でも、やはり、実摘は再びこの部屋に現れそうな気がした。

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