露わな狂暴
弁当箱を片づけ、洗ったコーヒーカップを水切りに並べた。実摘は帰ってこない。出ていったかと思いかけたとき、がちゃがちゃと音がした。ドアノブが騒々しく動いている。
慌てて鍵を開けにいくと、実摘が立っていた。眉がゆがんだ、泣きそうな顔をしている。
「実摘」
「鍵……」
「ごめん。その、開けっぱなしだと物騒だし」
「僕、帰ってきたらダメなの?」
「違うよ。君が帰ってくるか分からなくて」
「おうちだよ」
おうちにされるのは困っても、飛季は彼女に謝った。実摘は飛季から目を背け、すっかり落ちこんでしまう。
鍵をかけ直した飛季は、実摘をベッドサイドに腰かけさせた。実摘は手に林檎ジュースを握りしめている。隣に腰かけた飛季の忍耐強い謝罪に、何とか彼女はこわばらせていた肩をほどいた。
額をさすってやると、実摘は飛季に空目をする。見つめ返すと、彼女はうつむいた。何となく手を引っこめてしまうと、実摘は缶を開けた。甘ったるい林檎の匂いを実摘は飛季にさしだした。遠慮すると、彼女は缶に口をつける。
飛季は部屋を見やって、ふと、捨てるに捨てられない一万円のクズの山を見つける。
「あのさ」
実摘は顔を仰がせる。彼女の頭は、飛季の肩の高さにある。
「あれ入れたのって、君?」
福沢諭吉の切れ端をしめすと、彼女は一考してうなずいた。
「すごい、大金じゃなかった?」
「もらったの」
「もらった」
「あそこにね、おじさんのを入れさせてあげるの。もらうの。僕、お金持ってるの」
飛季は口をつぐんだ。「淫売なの」と実摘はぽつりとこぼし、ジュースを喉に流しこむ。
淫売。飛季は膝に目を落とす。言葉にしにくい、どこにも属さない感情が芽生えた。
「抱いてもらうの。誰でもいいの。気持ちよくなるの。軆、熱くなってね。血管がどくどくっていうんだよ。僕、いるの」
「いる、って」
「いつも、僕、いないの。やるとね、出てくる。でも、ほんとはないんだよ。ない、僕──」
言葉が消え入る。実摘は軆を硬直させ、背筋を直立させ、大きな瞳をさらに大きく見開く。
「実摘、」
「いない、よ。僕──」
突然悲鳴に耳をつんざかれ、飛季はびくっとする。実摘は缶を取り落とし、不透明な液体がフローリングに勢いよく広がる。実摘はベッドをすべり落ち、ジュースの上にうずくまった。
肩ががくがくと震えている。飛季は身動きできない。実摘は唸り声を上げて、呼吸を荒げた。何かを突き破らせるように、全身をうねらせている。
飛季は声をかけようとした。途端、彼女は喉を天井に剥き、声帯を破裂させるように叫んだ。
「いやっ、いや、やだっ──」
飛季は立ち上がって、彼女の軆を抑えこもうとした。実摘は絶叫し、飛季の聴覚を痺れさせた。
「実摘──」
「触るんじゃねえ、このクズ!」
「え」
「汚ねえんだよ、汚れるだろっ。離せよ、黴菌だらけの手で人に触ってんじゃねえっ」
飛季は、手を引くことしかできなかった。実摘はこちらに、かっと目を開いた。異常な憎悪がたぎっていた。凝視して、瞳に飛季の顔をねじこむ。床に座りこむ彼女は、首を軟化させて伸ばし、飛季の顔を覗きこむ。
「だいたい、てめえはムカつくんだ」
柔らかな桃色の唇が、似つかわしくない口調を発する。
「こっちまで気分悪くて、吐きそうになる。お前は人間のクズなんだ。できることなんて、その腐った目でこっちにゲロ吐かせることぐらいだ。死ねばいいんだ。目障りなんだよ」
傷つくより、茫然とした。何なのだ。あまりにも口汚くて露悪だ。本当にあの実摘なのか。
「お前は人間のクズだ。そこにいるだけで犯罪なんだ。吐きそうだ。ちきしょう、ムカつくだろ。失せろよ。死んじまえ。お前はなあっ、死ぬぐらいでしか役に立てねえんだよ。その蛆の涌いた目、どうにかしろよ。とっとと死んじまえっ。殺してやろうか。なあ!」
実摘は、渦巻く笑い声を連射した。飛季は確信した。狂っている。この子は頭がイカれている──。
突如として、実摘は上体を床に折った。笑いも暴言も止まり、嗚咽が取り残された。飛季は立ち尽くし、介抱できなかった。
実摘はおののきはじめる。肩が小刻みに揺れる。飛季は、彼女の暴言が本心なのか妄言なのか測れず、どうにもできなかった。
「たすけて」と聞こえた。実摘を見おろす。
「助けて……」
動けない。実摘の声はかぼそく、はじけば割れてしまいそうだ。
「怖いよ。助けて。やめてよお……」
動けない。演技かもしれない。
実摘は顔を上げる。涙とジュースで、頬がびしゃびしゃになっていた。
「だめ、だよ」
「え」
「僕、僕ね、ダメなの」
実摘のなみなみの瞳が、苦しげに空中を彷徨う。
「僕は、僕を、支配できない」
「実摘──」
「僕なのに、僕の中にいないとこがあるの。たまにそれが帰ってきたら、何が何だか分からなくなる。そいつ、僕を引っかきまわしたら、またどっか行っちゃうんだ」
飛季はひざまずき、実摘の頭を撫でた。実摘はぽろぽろと頬に涙をすべらせていく。
「ほんとなの」
「……うん」
「どんなの言ったかは、憶えてるよ。僕は、僕の裏側に押しこめられてるだけなんだ。ごめんね」
何とも言えなかった。凄まじい中傷だった。陰惨な飛季には思いもよらない、顔面に蹴りこむ罵倒だった。
「怒っても、いいよ」
実摘の声に媚はなく、あきらめていた。
「殴って」
一瞬、考えた。首を横に振った。実摘は弱くうめいた。
飛季は腰をかがめ、やっと彼女を介抱した。彼女の服は、涙と林檎ジュースでべとべとになっている。ベッドサイドに背中を預けさせると、飛季は自分の服を持ってきて、彼女を着替えさせた。
実摘は無言で、首の骨を抜いてしまっている。顔を持ち上げ、頬や口もティッシュでぬぐってやった。
そして、ベッドに横たわらせる。ブランケットをかけると、彼女は寝返ってまくらに顔を埋めた。飛季の大きな服で、肩の傷があらわになる。その傷は、多少マシな状態になりつつあった。
床の掃除をしようとした飛季を、実摘は呼び止める。「リュック」と彼女はつぶやく。飛季は床に転がるリュックを渡してやった。実摘は、それから緑色の毛布を出した。綺麗にたたまれていたそれを実摘は強く抱きしめ、顔を寄せ、話しかけている。指がぎこちなく毛布を愛撫する。その手つきがなめらかになるごとに、実摘の震えも落ち着いていった。
床に飛び散った林檎ジュースを片づけた。べたつくフローリングを雑巾で拭く。実摘の服はバスルームで手洗いする。放置していたら、虫がたかってくるだろう。
洗った服は、ベランダに干した。乾いたら返せばいい。外は真っ暗で、夜も更けていた。何時だろうと腕時計を確かめ、無意識に袖をめくったことで、服を着替えていないことに気づく。時刻は二十一時をまわっていた。
部屋に入って、ガラス戸の鍵を確かめて、カーテンを閉める。そのあと、Tシャツとジーンズに着替え、脱いだ服は洗濯かごにやった。
実摘は眠りこんでいた。飛季は息をつき、ブランケットをかけ直してやる。緑の毛布は抱きしめたままだ。そうとう大切なものらしい。
零時頃まで仕事をしていた。就寝することにした飛季は、ベッドは実摘に占領されているので、床に横になった。フローリングは軆に痛くても、座って眠っても疲れは取れない。ブランケットにはタオルを、まくらにはクッションを代用した。実摘を起こさないように取った目覚まし時計は、まくらもとに置いた。
暗闇に埋もれて実摘の寝息を聴きながら、飛季は彼女の罵倒を思い返していた。腐った蛆の涌いた目。そこまで的確に、飛季の瞳を把握した人がいただろうか。
正直、傷ついた。人間のクズなど、自覚はしていても、人に言われるとショックだ。けれど、彼女の言葉を全部引っくり返して、はっとする。
あんなに正確に、飛季の深層をえぐりだした人はいなかった。
怒りは欠落していた。安直に激怒には走れない。残酷さに秘匿していても、彼女は飛季をすくいとっていた。
飛季は、誰にも自分の奥深くに触れてほしくなかった。なのに、実摘に神聖な果実をもがれて顔面にぶつけられ、不思議と安堵のようなものを味わっている。それに狼狽えた。
僕は僕を支配できない。あの意味深な言葉は真実だろう。彼女の態度は、病的にころころ変わる。実摘は飛季が思うよりずっと、精神を病み、心に亀裂を持っているのかもしれない。
ため息をつき、クッションに頭を食いこませる。
まあ、自分には関係ないことだ──そう思えていたはずが、思えなくなってきている。放っておくと、彼女は砕けてしまいそうだ。
でも、何もできない。他人事の視点ではなく、単に自分に癒す力があるなどとは思い上がれない。守るのも、まして救うのもむずかしい。飛季は穏やかなときの彼女すらつかめない。
実摘が自分自身に耐えるしかないのだ。どうしようもない結論にたどりつき、飛季はまぶたをおろした。
薄れる意識に、実摘の安穏とした寝息がこだましている。
【第十三章へ】