男の娘でした。-19

パートナーとして

 もちろん、僕と伊鞠は定食屋以外のデートもする。伊鞠の仕事が休みである週末、見知らぬ街をのんびり歩いたり、気になった映画を観たり、水族館で青い空間に癒されたり。
 その日は、伊鞠の好きな作家さんのサイン会があるということで、市街地の大きな本屋さんにやってきた。整理券はすでに入手しているとのことで、時間が来るとスタッフさんの誘導で番号順に並ぶ。サインはもらえないけど、付き添いが隣にいるのはOKだった。『紫村しむら桜子ようこ先生サイン会』の文字を眺め、僕は小説読まないからなあと思っていると、伊鞠の番が来て、伊鞠はお菓子とお花をその作家さんにさし入れていた。
 熟年の作家さんは「ありがとう」と笑顔で受け取り、新刊にサインを入れて伊鞠に返す。作家さんは僕にもにこりとしてくれて、僕もにこりと返すと、「素敵なパートナーさんね」と伊鞠に言い、伊鞠はわずかに照れながらも「ありがとうございます」とうなずいていた。
「ふふ、“パートナー”っていいね。男とか女とかなくて」
 八月が過ぎて夏は終わったけれど、まだまだ残暑が厳しい。エレベーターホールに出て、ひんやり冷房のきく中で僕たちは並んでベンチに座った。
 僕がそう言うと、「LGBTの話も書く人だから、気遣ってくれたんだと思う」と伊鞠はサインを見返してから大事そうに本をバッグにしまう。「よかったね、サイン」と言うと、伊鞠はこくりとして「つきあってくれてありがとう」と笑んでくれた。
 サイン会が確か十三時に始まって、「今何時かなー」とスマホで時刻を確認すると、まだ十五時にもなっていない。
「このあとどうする?」
「待ってるあいだ、一緒に立たせちゃったし、座ってお茶でも飲む?」
「このへん、何かあるかな」
「私の会社のそばだから、よく行く洋食屋さんがあるけれど」
「オムライスかあ」
「オムライスもあるし、グラタンとかコロッケもおいしい。もちろんデザートもあるから、お茶もできるし」
「じゃ、そこ行こっか」
 そう言って僕たちがベンチを立ち上がったときだ。
「あ、やっぱり先輩も来てたんですね」という声が突然かかり、伊鞠が振り返ってまばたきをした。
「え……と、何してるの」
「紫村桜子先生のサイン会じゃないですか」
 僕も振り向くと、そこにはカジュアルスーツをさらっと着こなした見憶えのない男がいた。顔立ちもきりっとして、まあかっこいい。歳は僕と変わらないか、少し上か。
 というか、今の「先輩」という伊鞠の呼び方、どこかで聞いたような……
「君嶋も紫村先生の作品読むの?」
 瞬間、僕の面持ちが死んだ。
 君嶋。君嶋!!
 死んだ顔から一転、思わず歯軋りがこぼれる。それは、あの、伊鞠に気があるんだかないんだか、スマホを鳴らしたり何したり、僕としてはめちゃくちゃに邪魔な伊鞠の部下の──
「先輩がよく読んでるから」
「私が読むからって、君嶋が読まなくても」
「そこは察してください」
 伊鞠は面倒そうに息をついて、僕は飼い主に危険を及ぼすと見た犬みたいにぎりぎりと君嶋を威嚇する。君嶋もやっと僕に目を向け、冗談でもなさそうに言った。
「妹さんですか?」
 いもうとおおおおおお!?!?!? 僕のことか!? それは僕のことか!? 一番言われたくない奴だ、くっそお!!
「私がつきあっている男性だけれど」
「男性」
「男性よ」
 君嶋は僕をしげしげと眺め、「そういや、中戸次長にちらっと聞いたことある」とつぶやいた。
「昔、先輩が男の娘のホステスに言い寄られてたって」
「その人」
「え、先輩はそんな奴、拒絶ですよね?」
「拒絶してたら今つきあってない」
「男の娘とつきあってるんですか!?」
「男の娘というか──」
「男の娘は辞めましたっ! 今は伊鞠の彼氏で、れっきとしたただの男です!」
 僕が咬みつくように言うと、君嶋はきょとんと僕たちを見たのち、何やら噴き出して「えー」と声をもらす。
「先輩が選ぶタイプじゃないでしょう、明らかに」
 こいつ、僕に「俺を殺せ」って言ってるのかな? 僕はこいつの喉を締め上げていいのかな?
 そんな殺気をゆらゆら立てる僕に、「癒、相手にしなくていい」と伊鞠は言って、「君嶋」と冷静な表情と口調で言った。あ、これ、伊鞠も怒ってる。
「私が誰を選ぶかは、私の自由」
「でも、」
「この人は私の大切な人なの。あまり悪く言うなら、九月から仕事はひとり立ちしたし、君嶋の連絡先はブロックする」
 君嶋は伊鞠に目を開き、刹那拗ねたような顔をしたものの、「冗談ですよ」とぱっと笑顔を作った。何か、胡散くさい。僕のほうは見ないし、無論謝らないから、とりあえずマジで性格は悪い。
「で、これから、おふたりでどこか行くんですか?」
「君嶋には関係ない。癒、行こう」
「えー、彼氏なら後輩に紹介してくださいよ」
「悪いけど、君嶋にプライベートを見せる気はない」
 そう言って伊鞠はつかつかと歩き出し、僕は伊鞠の手を握ってちらりと振り返った。
 君嶋も僕の視線に気づく。嫉妬にまみれたどす黒い眼でも来るかと思ったら、君嶋は軽い嗤笑をこぼして、完全に僕を「男」として見ていなかった。その軽視に、どす黒く燃える眼をしたのは僕のほうだった。
 何だ。何だ。何だあいつ!!
 本屋さんの入ったビルを出て、伊鞠は歩調を緩めて「ごめんね」と言った。目をぱっくりさせて歯噛みしていた僕は、はたとして伊鞠を見る。「伊鞠が謝らなくても」と言うと、「初めはあんなにずうずうしい奴でもなかったんだけど」と伊鞠は肩をすくめる。
「仕事の飲みこみも早くなって、周りから褒められることが多いから」
「……伊鞠も褒めるの?」
「ちゃんとした仕事に、難癖つけても仕方ない」
「そう、だよね」
「オフの日に連絡入れてくるとか、プライベートに干渉することはなるべく拒否してるんだけど。まさか読書の趣味を見られてたなんて……ごめん、こんなことなら来ないほうが」
「ううんっ。伊鞠が作家さんのサイン会に行きたいのは聞いてたし。それはいいんだよ」
 伊鞠はやや愁えたように睫毛を伏せ、それから僕をじっと見つめてくる。
「私、癒のこと自慢の彼氏だと思ってる」
「伊鞠……」
「君嶋に言われたことでは、落ちこまないで」
「……ん。ありがと」
「洋食屋さんは、君嶋も知ってるから心配になってきた。癒の地元まで帰って、いつもの定食屋さんでゆっくりしようか」
「いいの?」
「うん。邪魔されたくないし」
 伊鞠もあいつのこと邪魔なんだ、と知ると、僕の気持ちはだいぶ回復した。
「じゃあ、帰ろ」と僕は伊鞠の手を引っ張る。「うん」と伊鞠は僕の隣に並び、見上げきれない高層ビルが立ち並ぶ街並みから駅に向かった。
 翌日は月曜日で、夏休みもかき氷フェアも終わり、僕は店番をしながらスマホをいじる日々に戻っていた。
 お昼が近づき、おじいちゃんが仕入れから帰ってきて棚を補充しはじめている。家の中からはおばあちゃんが用意する昼食の匂いがして、お客さんもいないし、僕はブルーライトに目が疲れてぼーっとしていた。
 蒸し暑い中で、そばの扇風機が必死に風を起こしている。
 まばたきをしてから、さっき置いたスマホをまた手にしたとき、ちょうどメッセ着信がついた。
『さとさんからメッセージが届いています。』
 聖生か、とトークルームを開くと、いきなり、鮭と半熟たまごをまぶしたおいしそうなそぼろ丼の写真があって、『飯テロ』というひと言が続いていた。
 僕はむうっと頬をふくらませ、ぱっとその場を立ち上がると台所に向かう。ひょこっと覗いたそこでは、おばあちゃんが焜炉でフライパンを使っている。
「おばあちゃん、今日のお昼ごはん何?」
「塩焼きそばだよ」
「塩か。具だくさん?」
「残り物だけどねえ」
 僕はおばあちゃんの隣に歩み寄って、フライパンを覗きこむ。キャベツ、ウインナー、もやし、にんじんやきくらげ──
 まあいいか、とおばあちゃんに断ってそれを撮ると、『うちの昼ごはん』と聖生に送信した。すぐに既読がつき、通話着信が来たので僕は応答をタップする。
『瑛瑠、料理してんの?』
「おばあちゃんだよ」
『だよね。俺のはなっちゃんが作ってくれたの』
「また旅館行ってんの?」
『なっちゃんが連休取ってこっち来てくれた。俺の部屋で、昨日の夜からずーっといちゃついてる』
 のろける笑いがこぼれているけれど、なっちゃんさんには仕事のことをもう憂慮しなくていいのが嬉しいんだろうなあ、と察して嫌味はやめておく。
「うまくいってんだね」
『まあね。あのときはご心配おかけしました』
「ほんとだよ」
『ごめんって。瑛瑠は森沢さんと順調?』
「そりゃあ──」
 もちろん、と言いかけ、すうっと霊気のように脳裏に君嶋がよぎり、「んんーっ」と唸ってしまう。
『何、今の声』
「あ、いや。何か、嫌な奴はいる……」
『嫌な奴』
「待って。今、なっちゃんさんと一緒なんでしょ。通話が長引くの悪いよ」
『今、なっちゃんお風呂だから、少しは話せるよ? てか、目の前になっちゃんいたら通話かけないし』
「あっそ。じゃあいっか」
 そんなわけで、僕は廊下に移動してから、昨日遭遇した君嶋のことを聖生に話した。かなり悪意に解釈して話したけど、実際君嶋には悪意があったと思うのでいいだろう。
『何だそいつ、ムカつくな』と聖生が舌打ちして、その反応に僕はちょっとすっきりする。
「でしょ、ムカつくよね?」
『しゃぶって勃起させて「男でこんなにしちゃうんだー?」とか嗤ってちんこ踏みたい』
「それはAVだと思うけど」
『森沢さんにもうざがられてるし、自信持つ要素ないのに、何でそんなにえらそうなの?』
「ほんとそれ。いや、僕がかわいいからかな……女は最終的には自分みたいな男らしい男に落ちるって思ってるのかも。伊鞠はそんな女の子じゃないって分かってるけど」
『うん。森沢さん信じてあげなね』
「つってもさー、そいつ、職場で僕より伊鞠に会ってるんだよね。それはやだー」
『男の娘のこともバカにしてる』
「してるよね! 男の娘だからって女の子に振られることなんて、わりとなかったりするし。僕は辞めたけどさ、自己判断だし。伊鞠に男らしくって言われたわけじゃないし」
『瑛瑠と森沢さんに割りこめるとか思ってそうなのが、頭悪くて失笑だわ。バカだから相手にしなくていいよ』
「あいつバカなのか」
『バカだよ。モテないんじゃない?』
 爽快感にころころ笑っていると、電話の向こうで『あ、なっちゃんおかえり』という声がした。
『まだ食べてないの?』という声がして、『なっちゃんと食べるの』と聖生の甘えた声が聞こえる。うん、極甘系作品でもここまでの声は聖生は確かに出してないな。
『あー、ごめん。なっちゃん戻ってきたわ』
「聞こえてた。ありがと、聞いてもらってすっきりした」
『気をつける必要もないだろうけど、気に病むこともないよ』
「ん。聖生はなっちゃんさんと仲良くね」
『サンキュ。仕事も頑張らないとな。また観てね』
「了解」と僕は答えて通話を切ると、「君嶋はモテない」とひとりつぶやき、噴き出してからお店に戻った。
 おじいちゃんは相変わらず黙々と棚補充しているけれど、「ねえ、おじいちゃん」と話しかけると「何だ」と答えてはくれる。
「このお店で僕の店番ってさ、ぶっちゃけ必要?」
「店番でもさせないと、ごろごろしてるか遊んでるだろう」
「う、まあ……そういう時期もあったけど。もし僕が就職とかしたら、店番できないなあって」
 おじいちゃんはこちらを振り向き、「そういう場合は仕方ないな」とあっさり言った。
「仕事を始めるときは、家の中のことは気にするな」
「駄菓子屋、僕が継がなきゃとかない?」
「時代遅れの店だ。儂の代でたたむことになるのは覚悟してたさ」
「……そっか。それも寂しいね」
 そうつぶやくとおじいちゃんはめずらしく声を出して笑い、「そこまで考えてくれただけでありがたいな」と言った。
「就職を考えるのか」
「スマホで求人見てるけど、十月は途中採用とか多いし。やるならバイトより正社員がいいよね」
「伊鞠さんのためか」
「うん。伊鞠のご両親、僕の仕事がどうとかは言わなかったけど、それって僕を信じてくれたからだよね。だから、年収どうとかあれこれ言われるより、逆にちゃんとしたいなーと思った」
「いいじゃないか。頑張ってこい」
「うんっ。じゃ、午後は面接入れる電話したり、履歴書書いたりしてもいい?」
「しっかりやれ」とおじいちゃんはうなずき、僕が「よーしっ」と気合を入れたところで「お昼できましたよ」とおばあちゃんが顔を出した。
「焼きそば!」と僕は両手を挙げ、「わかめのおにぎりもあるからね」とおばあちゃんはにっこりする。「どれ、儂もいただくか」とおじいちゃんも作業にキリをつけ、その日の昼食は三人で食べた。
 僕の話をおじいちゃんから聞いたおばあちゃんは、「お店番は、おばあちゃんが元気なうちは続けられるからね、安心していいよ」とうんうんとしながら言ってくれた。

第二十章へ

error: