近づきたいから
午後は目星をつけていた会社に送る履歴書を書いたり、まず電話をというところには電話をかけて募集が続いているか確認したりした。
履歴書を書き損じているうちに、おとうさんのPCで作ってしまったほうが、とも思ったものの、意地で手書きを仕上げた。僕はあまり、PCスキルアピールしていいほうではないと思う。でも、いまどき仕事するならPC使えないとなあというのは分かっているので、そこは会社勤めのおとうさんかおかあさんに習おう。ちなみに、証明写真は昨日帰りに駅で撮ってきた。
スマホで履歴書の郵送マナーも調べながら、あとはポストに入れるだけになると、僕はそのまま玄関から家を出て、熱気がただよう坂道の途中にある郵便局前のポストにおもむいた。
「あれ、姫だー」「姫がおでかけしてる」と声をかけてくる子供たちがちらほらしている通り、とうに放課後になっている時刻だ。「姫ではありません」と定番の突っ込みは入れつつ、ポストの前に到着して封筒を預け、手を合わせる。
そのとき、「おにいちゃん」と声をかけられ、一瞬ついに僕が「おにいちゃん」と呼ばれる時代が、と思って振り向いたけど、ただの姫亜だった。
「何、その顔」
僕の露骨に残念そうな顔に、制服すがたの姫亜も怪訝そうに眉を寄せたものの、「何か出してたの?」とポストに目を向ける。
「うん。履歴書」
「え、バイトするの?」
「十月の中途採用に乗れなかったら、とりあえずバイトだよね」
「中途採用って、正社員?」
「そろそろねー」
「何の仕事に応募したの?」
「受かったら言う」
「何それ。まあいいけど」
姫亜は何やら物憂げに息をつき、僕が首をかしげていると、「あのね、おにいちゃん」とふと改まった顔をあげてくる。
「うん。てか、帰らない? 暑いし」
「私、飛紀さんに告白したの」
ゆらっとした足取りで家に引き返そうとした僕は、「はっ?」と声を出して姫亜をかえりみる。
「マジで」
「うん」
「ついに」
「うん」
「……返事は」
「もらってない」
「何だと」
「……何か、やっぱ、やばかったかなあって思うの」
「やばいって……え、いつ告ったの」
「夏休み終わる直前」
「一週間くらい前か。じゃあ、まだ悩んでる線あるじゃん」
「悩ませる時点で、やばかったかなあって」
「どうせ、年齢気にしてるだけだから大丈夫だよ」
「年齢もだけど。夏に、みんなで海に行ったでしょ」
「行ったね」
「あれからメッセの回数が増えたの。たまに通話もしてくれてたの」
「マジでか。よかったじゃん」
「うん……でも、告白した途端、全部止まっちゃった」
姫亜は思いつめた様子でうつむき、飛紀め、と僕は妹優先で親友を苦々しく思う。
「会って告ったの?」
「……メッセで」
「告白は面と向かってするもんですよ」
「しょっちゅう会えてる相手ならそうするよっ。会えないんだから、メッセか通話しかないじゃない」
「じゃあ、せめて通話でさ」
「声聞いてたら、怖くて言えないよ」
「告白で会話止まってんの? 既読もなし?」
「『ちょっと考えるからごめんね』って来た」
「やっぱ考えてるんじゃん」
「迷惑じゃなかったかな?」
「あいつ、迷惑なら迷惑って言うしなあ」
「おにいちゃんに相談とかいってない?」
「僕は何も聞いてないよ」
「……せっかく仲良くなれたのに。告白しないほうがよかったのかもしれない」
「我慢できなかったんでしょ。いや、我慢しまくってきたんだから、距離縮んだ感あれば行動しちゃうよ」
僕がそう励ましても、「きっと飛紀さんには私なんか対象じゃないんだよ、子供だもん」と姫亜は泣きそうな声で言った。僕は姫亜に近づき、「大丈夫だよ」とその頭をぽんぽんとして、肩も抱いてあげる。
「すぐに答えが欲しいって焦っちゃダメ。姫亜はずっと飛紀が好きだったでしょ。だから飛紀の答えだって待てるよ。すごく時間かかっても、待てるよ。飛紀は、はぐらかして答え出さないまま、平気でまた仲良くする奴じゃないし。何か言ってくれる」
「そう、かな」
「うん。その答えがどんな答えかは分からなくても、姫亜と距離を置く方向には考えないと思う。僕の妹でもあるんだしね。今は姫亜との最善の向き合い方を考えてるの。男はそういうの考えるの」
「おにいちゃんも、伊鞠さんのとき考えた?」
「僕は、伊鞠と向かい合うためなら何でもできると思ったから、男の娘も辞めたんだ」
「男らしくなってみせたくて?」
「それもあるけど──そうだなー、もし僕の一番大切なものが、大切なぬいぐるみだったとするじゃん。それを捨てて見せたようなもんだよ。僕の一番は伊鞠だって証明してみせたら、向き合ってもらえると思った」
姫亜はしばらく僕の肩に額をあてて鼻をすすっていたけど、ため息をついて軆を離すと、「おにいちゃん、私よりいい匂いするから、何か逆にムカつく」と言った。
「それはね、家出る前にミストしてきたからだよ」
「……飛紀さんに嫌われてないといいなあ」
「嫌いにはならないと思うよ」
「飛紀さんに彼女とか紹介されたら、もう息ができないと思ったの」
「うん」
「好きなんだもん……飛紀さんと、いつでも他人になれちゃう距離があるのは、もう嫌だよ」
緩やかに空の色がかたむいてきて、ほのかにひやりとする夕風が流れ、姫亜のくせ毛のセミロングが揺れる。「まあ、帰ろ」と僕が言うと、今度は姫亜はこくんとした。
僕は腕をぶらつかせてのんびり歩き、そっかあ、と勝手に黄昏れた。ついに姫亜が飛紀に告った。十七年好きだった人に、想いを伝えるって、どんなに勇気が必要だっただろう。それが報われなかったらと、どれだけ怖かっただろう。「頑張ったんだよねえ」と僕が何心なくつぶやくと、隣を歩く姫亜は僕を見て、「うん」と睫毛を伏せた。
帰宅すると、姫亜は夕食の支度を始めて、店番はおばあちゃんに任せたまま、僕は部屋でスマホのメモ帳アプリを開いた。そこで長文を練るつもりだったのだけど、思ったよりできあがった文章は短かった。飛紀のトークルームを開いて貼りつけると、えいっと送信ボタンをタップした。
『姫亜に僕が口出したの言わないでほしいんだけど、告られたんでしょ?
一週間スルーって女の子にしたら生殺しだよ?
振ってるも同然だよ?
それでいいなら、せめて断る返事するとかさ……てか振るの?
姫亜の何がダメなの?』
送信したあとに読み返すと、若干病みを感じたけど、まあいい。飛紀の既読はつかない。仕事中なのだろう。
僕はスマホをワイヤレス充電器に置くと、床に仰向けになって深呼吸した。
今日は、伊鞠からも夕食のお誘いはないみたいだ。
そういえば、会社に面接に行くならリクルートスーツがいる。さすがに明日買いに行くか、とか思ってうとうとしていると、夕食ができたと姫亜が呼びにきた。おとうさんとおかあさんも帰宅していたので、就職活動を始めるのを伝えておいた。
夕食を食べたあと、シャワーを浴びたり歯磨きしたりして部屋に戻った僕は、スマホを確認して飛紀のメッセが届いていることに気づいた。
『質問が多すぎて怖い。』
と最初の一文が置かれたあと、文面は続いた。
『姫亜ちゃんのこと、そういうふうに見たことなかったし。
だからって、もちろん迷惑ではないんだけど……いい子だしな。
でも、女子高生だぞ。』
僕は仏頂面でそれを読んだあと、磨いたばかりの歯で爪を噛んで、『だから、つまり振る方向で考えてるの?』と送った。今度はスムーズに既読がつく。
『振るというか、つきあったら犯罪じゃないか。』
『じゃあ、姫亜が同年代だったらよかったの?』
『それなら、こんなに悩まなかったとは思うけど。』
『悩まずに振ってたの?』
『素直に嬉しくてつきあってたんじゃね。』
『じゃあつきあえばいいじゃん』
『だから年齢が』
『そんなに淫行条例が怖いなら、姫亜が十八になるまでセックスしなきゃいいでしょ?
今すぐセックスできない女だから悩んでるとかなら、むしろとっとと振ってあげてくれない?』
既読はつく。でも、返事は来ない。僕は連投する。
『姫亜、ずっと飛紀に片想いしてたんだからさ、無理なら、ほかの男っていう可能性をさっさと教えてあげるべきだよ』
また既読だけ。僕は天井を向いて焦れったく唸る。数分後、ようやく着信音がしてぱっと画面を見る。
『明日、夜にお前んち行くよ。』
僕の家に──。もちろん、僕でなく姫亜に会いにくるのだろう。僕は自分の連投を見返し、もしや振る覚悟なんかを決めさせてしまったのかと不安になる。とんでもない逆効果だ。
しかし、これ以上言葉を継ぎ足しても遅い。僕はどう返すべきか迷ったのち、『姫亜を傷つけないであげて』と何とか打った。『分かってる』と返事が来て、僕も続ける言葉がなくなって、なぜか「ごめん」のスタンプを送った。それに既読だけついて、飛紀とのラリーは終わってしまった。
翌日、僕は姫亜と飛紀のことを気がかりに思いながらも、隣町のモールに入った紳士服の店で、リクルートスーツを用意した。何で僕は、かっこいい服装をするほど、男装女子にも見えないほどかわいいのだろう。せめて、背でも高ければよかった。
それでも、笑わずに丁寧に寸法など測ってくれたおねえさんにコーデされるまま、スーツ一式を購入した。就活に必要だということも話したので、見送りのときに「頑張ってくださいね」とまで言ってもらった。
接客がきちんとしてるお店はやっぱいいなあとカフェでひと息ついたあと、電車に乗って地元に帰る。
家にたどりついたのが十七時過ぎだったので、スマホをチェックすると伊鞠からメッセが来ていた。
『仕事終わりました。
明日は桜音と仕事帰りに会うので、癒も来れるなら来てください。』
僕はにまっと笑ってしまい、『行くよ!』と玄関で靴も脱がずに返信した。続いたメッセによると、明日の十八時、いつもの喫茶店だそうだ。「わーい」とか浮かれて言いながら、僕は重い紙ぶくろを抱え直して二階の部屋に向かった。
その直後、何やらばたばた物音がして、姫亜が帰宅したようだった。何かあったのかなあ、とすっとぼけたことを思って、急いで夕食の準備を始めた姫亜に「何かあんの?」とか訊いたら、「飛紀さんから、二十時くらいに来るってメッセ来た!」と姫亜はそわそわと答えた。
そこで僕も、そういやそうだったと思い出した。僕が飛紀をせっついたことは、姫亜には伝わっていないようだ。「やっぱ何か言われるんだよね」と姫亜は落ち着かない様子で、「何かは言うだろうね」と飛紀の答えが分からないままの僕は、若干気まずく答えた。
夏野菜で作ったソースがかかる焼いた鰈をメインに、白いごはんと豆腐とお揚げのお味噌汁、ひじき煮もある夕食を家族みんな揃って食べ、食後の麦茶をおかあさんが出していた頃にチャイムが鳴った。
洗い物をしていた姫亜がどきっとしたように振り返り、「どうせ飛紀だし、僕出とくー」と僕が立ち上がって玄関に向かった。インターホンもスルーして玄関に顔を出すと、案の定、仕事帰りのスーツすがたの飛紀だった。
「……怒ってる?」
僕がジト目でまず確認すると、「何で怒るんだよ」と飛紀は僕の横っ面を軽めにはたく。
「でも、何か、昨日……」
「……ほかの男ってさ」
「ん?」
「いるの?」
「は?」
「姫亜ちゃんに迫ってる男とか、いるのかよ」
「知らないよ」
「知らないのかよ。……まあ、これまで、いなかったわけないか」
僕は飛紀をじっと見上げ、「正直、兄貴とか父親とか、そういう感覚なのかもしれないとも思うけど」と飛紀は静かに言う。
「姫亜ちゃんに男ができるのは、嫌だな」
僕が何か言おうとしたとき、足音が近づいてきて姫亜がエプロンをつけたまま顔を出した。「飛紀さん」と言って、何だか泣き出しそうな顔になった姫亜に、飛紀は僕を退かしてから玄関に踏みこんだ。そして小さなふくろを差し出し、「指輪はいきなりだし、サイズも分かんないし」と姫亜に言った。
「えっ……と」
「ブレスレットにしてみました」
「え、え……あの、えっ?」
「『つきあってください』ってときに、言葉だけなのは、さすがに学生までだと思うんで」
姫亜が大きく目を開き、まばたいて、「うそ」と声を震わす。「嘘じゃないよ」と飛紀は優しく言い、その前に、突っ立っている僕を見た。それで僕も自分が邪魔なことに気づき、へらっと笑ってから退散した。
廊下を曲がる前に、ちらりとだけふたりを見ると、飛紀が姫亜の肩を抱いていた。僕はつい満面の笑みを浮かべて居間に入る。「何かあったのか?」と訊いてきたおとうさんには、「おとうさん寂しいねえ」と返して、ぽかんとされた。
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