結婚をしないかもしれない。
子供の頃から、それをうすうす感じていた。自分のウェディングドレスや親や友人が集まる結婚式、そのとき隣にいる人──いや、隣に人がいること自体、イメージが湧かない。
三十歳を過ぎた頃、一度も落ち着いたパートナーを持ったことがない自分は、誰かを伴侶にすることはないのだなと確信になった。
結婚をしないんじゃない。結婚したいほどの人がいれば、きちんと考えた。私はただ、結婚ができないのだ。
それを悟って、人と新たに知り合う機会を持っても、線を引くようになった。精神的にも。肉体的にも。人を自分のプライベートな領域には入れないようになった。もちろん、自分が誰かのプライベートに踏みこむこともしなかった。
本来なら、むしろ必死に出逢いにがっつくんだろうけどなあ、とひとり暮らしの部屋のベッド兼座椅子にもたれ、コンビニで買ったダブルシュークリームを食べる。カスタードクリームがこぼれかけて慌てて舌ですくい、バニラビーンズが香るそれを飲みこむ。
二十代の後半は、ちょっと出逢いに積極的だったけど、そういうのは面倒臭くなった。ひとりならひとりでいいし、他人と同じ屋根の下で共同生活していくなんて、どうせ自分には合わないと思う。
この部屋があって、適度な仕事もあって、きっと何とか生きていけるから、私はそれでいいや。
帰宅しても、バッグに入れたままのスマホが鳴った。私は億劫に手を伸ばし、着信相手を確認する。
今日出席した友達の結婚式で、連絡はよく取り合っていても、会えたのは久しぶりだった同級生だ。
『ヒナ、二次会来なかったの?』
私はシュークリームを口に詰めこんで、もぐもぐとしてからごくんと飲みこむ。
『家に仕事残してたから。』
はい、もちろん嘘。
『そうなのか、大変だね。
ヒナにはそういう人っていないの?』
『そういう人とは』
『結婚考えるような人じゃん。』
『ああ。
どうなんだろうね。』
『行き遅れるよ?
ってか、こないだまで仲良くしてるって言ってた男の子いなかった?』
『つきあってたわけじゃないし。』
告白はされたけど。
いつつ年下の男の子で、三十三歳の私とつきあうということは、そういう覚悟は持ってくれていたのだろう。別に彼とセックスするだけなら構わなかったのだけど、責任感でマジな顔をされると、ヒイてしまった。
『最近あの子とは連絡取ってないし、彼女できてるかも。』
『バカなの? チャンスをみすみすと……』
ああ、この子、確か結婚してたっけ。
何かと現実も体験しているだろうに、それでも私が独身であることは責める。結婚しないなんてありえない、こういう人たちの固定観念はいったい何なのだか。
思えば、私は昔からこうなのだ。人と必要以上に親しくなることができない。
若い頃は好きな人ができて、近づこうとしたり、ときには告白したりもした。でも、たいていうまくいかなかったり、うまくいったと思わされて騙されているだけだったり。
そういうのを繰り返して、やがて自分から、どんなに人と親しくなっても、友人止まりであるように心がけるようになった。
そして、友人たちは結婚していく。結婚はできない子も、パートナーを作る。みんな、誰かと寄り添い合っていく。でも、私はそういう自分を想像できない。
例の年下の男の子もそうだけど、好きだと言われたとき、気持ちそのものはありがたいと思った。でも、私はそれを受け取れない。結婚したくないから、恋愛関係も始めない。
『ごめん、仕事しなきゃだから。』
友達のお説教が始まる前に、そう送信して、私はスマホをバッグの上に投げた。背伸びすると、シャワーを浴びて楽なルームウェアに着替えようと座椅子を立ち上がる。スマホがまだ鳴っていたけど、もう無視でいい。
ここ数年は、リアルで知り合った人より、ネットで知り合った人のほうがまともにつきあう感覚がある。
ネットで知り合う人は、まあSNSからなので、プロフなりログなりを見て、私をある程度認識してから話しかけてくる。そして、それ以降もTLで私の様子もつかんでいる。だから、何だかんだで会話が続く。
リアルで知り合う人は、最初こそうわべの話題が続くけど、個人的な話になると、微妙な違和感を覚えることが多い。そして気まずくなって、どちらからともなく、連絡がフェードアウトする。それからまた顔を合わせることがある場合もあるけれど、「あ、また連絡するわ」と言っておきつつ、お互い絶対に連絡しない。
そんなわけで、今では私の友人はネット上か、あるいはオフ会で特に息が合った人たちが多い。
新しく人と出逢うことは面倒だけど、ネット上で気が合っている人たちと集まるオフ会は、私もわりと参加する。月に一度くらいのペースで、近隣地域から集まるオフ会があって、それは行けば必ず知っている顔がいるくらいには私は常連だ。
その七月の日も市内の居酒屋でオフ会が行なわれているのは知っていて、仕事が終わって顔を出してみた。「お、ヒナちゃん来たー!」とすぐ気づいてくれた人がいて、「お邪魔しますー」と私は笑みを浮かべて、十人くらいの輪に混じらせてもらう。
「日中」という本名の名字から、かなり昔からヒナとかヒナちゃんとか呼ばれている。ネットではもちろんそんなのは伏せて、ただ「陽香」というハンネで、やっぱりヒナ呼びしてもらっている。
「仕事帰り?」
「そー。後輩がミスったから連帯で残業」
「やだねえ、そういうの」
「だよねー。だから飲むわ」
「どうせカシオレだろー」とこのオフ会の主催者の竜史くんが笑って、「カシオレも実は酒なんです」と私はウェイターにカシスオレンジを注文する。
「たまには強いの飲めばいいのに」
「ヒナちゃん酒弱いの?」
「弱くないけど、そもそもあんまりおいしいと思わないんだよね」
「すっげえ人生を損してるわ。夏に飲むビールも、冬に飲む熱燗も知らないって」
「竜史くんは逆にいつも飲みすぎだから」
そう言った、姉御肌で私と同じく常連の水帆さんが、遠慮なく隣の竜史くんの背中をたたく。
私はそれに笑いながら、今日は知ってる顔が多いな、とテーブルを見まわして思った。それでも、初めて見る顔も混じっている。そんな私に、「あ、ヒナちゃんさ」と気がついたように竜史くんが声をかけてくる。
「あの子来てるよ。里音ちゃん」
「え、里音さん? マジで?」
「マジマジ。TLでよく絡んでるよな?」
「うん、仲良し」
「外で待ち合わせてたとき、里音ちゃんにもヒナちゃん来てないか訊かれたわ。──あの子」
竜史くんがしめしたほうを見ると、焦げ茶のセミロングにちょっと垂れ目で、白い肌の淑やかそうな女の人がいた。
里音さんとは、バンドサウンドが好きな私と音楽の趣味が近くて、SNSでよく盛り上がっている。外見意外だな、と感じつつ、「声かけてくる。サンキュ」と竜史くんに挨拶して、私は誰ともしゃべっていない様子の里音さんが座る席に近づいた。
「里音さん」
背後から私に声をかけられ、里音さんはちょっとびくっとしたように肩を揺らした。それから、ゆっくり振り返ってくる。
「あ、えーと──……」
「陽香です。初めましてですよね」
私がにっこりすると、「ヒナさん?」と里音さんはまばたきをして、やっと笑顔になる。
「今日は来てないみたいって聞いたんですけど」
「さっき仕事あがってから来ました」
「そうなんですね。あー、ヒナさん来なかったんならって、ちょっと帰りたくなってました」
里音さんは小さく苦笑して、「おもしろい人多いですよ」と私はくすりとする。
「私、そのおもしろい会話を聞いてるだけでいっぱいで、自分から発言できなくて」
「最初はそうですよね。あ、最初かな?」
「初めて来ました」
「そっか。住んでるの、このへんなんだろうなーとは思ってたんですけど」
「えっ、言ってましたっけ」
「CDショップの面展の写真、けっこう同じの見てるんで」
「あ、なるほど。そっか、そういうとこで分かるのかー」
「チェックするバンドが同じだからですけどね。こないだ、サイコミミック新譜出しましたねー」
「初回盤買いました! “氷の花”のアコースティックバージョンすごいよかったです」
「あれ私も泣きました。それと──」
そこまで言いかけたとき、「カシスオレンジのお客様ー!」とさっきのウェイターが私のドリンクを持ってきた。私は里音さんに断ってそれを受け取りにいき、すぐに戻る。
「隣、いいですか?」
「あ、もちろん。詰めますね」
その会話が聞こえたのか、里音さんの隣にいた人も私が座れる余裕を作ってくれて、「お邪魔しますー」と私はそこに座らせてもらう。そうすると、里音さんの優しいシトラスの香りに気づく。
「それと?」
里音さんが首をかたむけてきて、「え」とグラスに口をつけていた私はまばたく。
「あ、『それと』って言いかけてたので」
「そうだ。Bazillusの海外遠征のときのライヴDVD、出たじゃないですか。デビュー十五周年で」
「出ましたよねー」と里音さんはため息をつく。
「まだ買えてないんです」
「あれは買いですよ。Bazillusのデビューって、私が高校のときだったんで、ほんともう……今では海外進出って」
「Bazillusデビュー、私は二十歳のときだったなー」
しみじみ言った里音さんに、「ってことは、里音さん年上ですか?」と私は初めて気がつく。
「そうなりますね」
「タメのノリですみません……」
「いえっ、ぜんぜん。私こそ、あんまり年上らしくなくて」
「見た感じの印象、ちゃんと落ち着いてますよ。もっと派手かなと思ってました」
「ヒナさんは──二十代に見えますね」
「何のお世辞ですか。あ、子供っぽいってことですか?」
「そうかもしれない……」
「そこはあんまり否定しないです」
「あはは。若く見えるのはうらやましいなー」
そんな会話をしながら、やっぱりネットからの人は楽だなあなんて思う。
音楽の話題にしても、サイコミミックやBazillusは超有名どころで通じる人は多い。でも、里音さんとは人気があってもややマニアなバンド、RAG BABYやフェティージュの話もできる。私が布教したインディーズのバンドも、里音さんは動画サイトでチェックしてはまってくれることが多かった。
結局、その日はほとんど里音さんと話して過ごし、連絡先も交換した。
スマホを持つ里音さんの手を見て、左薬指に指輪をしていることに気づく。「結婚してるんですね」と何となく言うと、「そうなんです」と里音さんはうなずいた。だったら、私が気をつけなくても、里音さんのほうが私に近づきすぎることはないだろう。
安心だ、と思いつつ、割り勘で会計を済ました本日のオフ会メンバーは、そばの駅までぞろぞろ歩いて、中央改札の前で解散した。
酒気帯びしている電車に揺られ、夜道は早足で抜け、部屋に帰宅する。スマホには、今日のメンバーからいくつかメッセ着信がついていた。
里音さんからも『今日はありがとうございました。すごく楽しかったです。』というメッセとスタンプが届いている。私はそれに『こちらこそありがとうございます。またお会いできるといいですね。』と返した。
ほかのメッセにもさくっと返事すると、冷房をつけておき、シャワーを浴びてボーダーの緩いワンピースを着る。そのあいだに蒸し暑さは冷房でやわらいでいて、白いパイル生地の広い座椅子をフローリングに倒すと、その上に寝転がった。
『来月も参加できたらしようと思います。
じゃあ、おやすみなさい。』
SNS上のリプのときからそうだけど、里音さんのだらだら続かない会話も楽なんだよなあと思いつつ、私はおやすみのスタンプだけ置いて、スマホは充電につないだ。
そして音楽を聴きながらタブレットで電子書籍を読み、うとうとしてくると、明日も仕事なので電気を消して毛布をかぶった。
仕事に追われつつ、疲れない程度にSNSでつぶやいたり交流したりする毎日を送っていると、カレンダーは八月に切り替わった。
毎日気が狂いそうな猛暑日で、実際調子が狂ったのか、もう途切れたと思った祥汰くんからメッセが入っていたこともあった。六月に参加した結婚式のあと、告られて疎遠になったのを「バカなの?」とも友達に言われた、例の年下の男の子だ。
平静を装う文章だったものの、そもそも連絡してくること自体で面倒臭さを感じたので、もちろん何も返さなかった。むしろ、私も私で暑さで日々くたくただったので、彼のことは非表示リストに入れてしまった。
職場近くのコンビニで買ってきたエビカツサンドイッチを頬張る昼休み、SNSのTLを眺めていると、今月のオフ会は十三日の木曜日に行なう予定という竜史くんのおしらせが流れていた。
すぐにいいねをつけた私は、そのツイのリプ欄も読む。『絶対行く!』とか『都合合うかなー?』とか返信が並んでいたけど、里音さんのリプはない。
『次のオフ会、十三日みたいですね。
里音さんは来れそうですか?』
TL上からそう送ろうとして、やめて、メッセを送ってみた。すぐには反応はないだろうと、スマホを置いて、パックのカフェオレをストローで飲む。
昼休みの終了時間が近づいてきて、ランチに出ていた同僚もオフィスに戻ってくる。十三時に昼休憩が終わると、眠たい、なんて感じつつもスマホは引き出しにしまって、PCでの作業と向かい合った。
十七時に終業すると、オフィスの空気がふっと緩んで、ため息やあくびが聞こえてくる。私も今日の仕事は課長のPCに送信してチェックしてもらっている最中で、不備がなければもう帰れる。
引き出しのスマホを取り出してみると、LEDが点滅していたのですぐ着信を確認する。通知の中に、里音さんから返事がある。
『そうなんですね!
夜遊びしていいか、旦那に相談してみます。』
あー……そっか、なんて、少しそわそわしていたのが醒める。
結婚していると、夜に出かけるだけでも大変なのだ。私はできれば、身軽に出かけたり自由に休んだりしたい。やっぱり、結婚なんか向いていない。
というか、旦那さん次第で里音さんは来ないかもしれないのか。それはつまんないなあと思った。
【第二話へ】