野生の風色-20

初夏のある日

 ゴールデンウィークが明けると、すぐ体育祭の練習が始まった。五月の末には中間考査もあり、その前に終わらせようと、毎日どんどん授業がつぶれて、めまぐるしくなる。
 この学校の体育祭は、学校行事として外せないのでやるような、粗雑な代物だ。丹念にやるにはクラスもまとまっていないし、といって、秋にやれば文化祭と重なる。やらなきゃいいじゃん、というのが生徒の意見でも、今年もあえなく廃止されなかった。
 やけに生き生きとして見える体育教師たちと、夏へと威力を増す太陽の元、徒競走だのダンスだの、僕たちはだるそうな表情さえ禁止されてたたきこまれる。
「こういう体育祭だの文化祭だのって、自由参加にすればいいのにね」
 赤組は校庭、白組は体育館という何をもってかの差別で、僕は日射に犯される校庭にいた。桐越は白組でここにはいないけど、背が高い彼は、背の順で組まれる隊列に後方に位置して、そもそも近くにはなれなかっただろう。
 僕の友人は、何も桐越ひとりではない。僕は、僕より小さい成海なるみという奴と同じ赤組になれて、隣り合った彼と教師の目を盗んでぶつくさしていた。
 今も応援合戦の応援歌の配布の中、茶髪に中性的な顔立ちの成海は、乾いた土をいじってそう言う。
「ほんと。だいたい、こんなん何でやるんだろ。終われば跡形もなくなるのに」
「想い出作りとか先公は返しそうだね」
「こんな嫌な想い出、かえって中学時代が穢れるよ」
「はは。チビにはスポーツなんて大半が悪夢だよね。軆でかい奴にはかなわないし、おまけに結果で較べられるし。技術でカバーしろっつっても、技術磨くほど人生かけてないし──あ、来た」
 成海は右からまわってきた紙の束をほっそりした手で受け取り、一枚取ると僕に渡した。僕も一枚取ると、口もきいたことのない隣の眼鏡のクラスメイトに無言で渡す。成海と応援歌の歌詞が書かれた紙を覗きこみ、「何これ」と僕は眉を寄せる。
「あれの主題歌じゃん? ほら、何だっけ。夕方にやってるアニメ」
「アニメとか観ないよ」
「アニメおもしろいのに」
「変な歌詞だね。俺たち必勝、赤組必勝って……」
「替え歌っしょ。変というよりださい」
「誰が作詞したんだろ」
「応援団長じゃない? こりゃ、どんなに人生間違っても作詞家にはなれないね。歌いたくないなあ。いい曲が台無しだ。あ、また来た」
 さっきと同じく、隣のクラスメイトに渡して、手元に残った一枚を見る。応援合戦のプログラムだ。三三七拍子だの応援歌の合唱だの、競技に増してくだらない。
「あーあ。俺たちはこんなことしようと青春を過ごしてんじゃないのに。もっとさ、女の子と遊びまわるとか」
 成海は脱色した髪に巻く赤い鉢巻をいじり、強い陽射しに睫毛を透かす。僕も巻いているこの鉢巻は、各自、ゴールデンウィーク中にこしらえてくる宿題だった。
 成海はクラスで一番小さい男子だけど、何せ顔立ちがいいので、かわいいと評判でわりとモテる地位にいたりする。女の子と遊ぶというのもあながち空想ではない。
「天ケ瀬は好きな子いる?」
「え、いないよ」
「君って、おとなしそうなわりに俺たちみたいのとつるんで、ギャップありって評判よ」
「し、知らないよ、そんなの」
「照れちゃってかわいー。俺なんかさ、愛くるしいとか言われても複雑なんだよね。だって男だもん」
「モテないよりいいじゃん」
「そうだけど。俺は俺を愛らしいと言わない女子とつきあうよ。これは生涯変えない指針だ」
「はあ」
 隣の痩せ細った眼鏡の彼が、軽蔑の混じった横目をくれてくる。僕より成海がそれに気づいて、顰め面で舌を出した。
 応援団と教師たちは、まわりきっていない紙を確認しつつ、何か話しあっている。僕のクラスでも、紅白ひとりずつ、じゃんけんに負けた不運なふたりが応援団の餌食になっていた。
 鏡に当てたようにまばゆい光を刺す太陽を仰ぐ。直射日光の下に隙間なく座らされ、肌にまといつく空気はむっとしていた。浮いた汗に気持ち悪い体操服をいじっていると、「暑いねえ」と成海も天を見あげて大きな瞳を細める。
「いいなあ、白組は体育館で。今ならまだ蒸し暑くもないだろうし、しかも山沼が担当じゃないときた」
「何で赤が校庭なのかな」
「応援団長同士がじゃんけんして、赤が負けたらしいよ」
「……必勝じゃないじゃん」
 僕は応援歌に目を落とし、成海は噴き出した。
「五月だっつうのに、外は夏だね。あ、蝉の幻聴が」
「やばいよ」
「保健室でサボろっかなー。でも、保健の先公ってサボりにくる不良には愛想いいのに、普通の生徒には他人行儀だよな。一年のとき、怪我手当てしてもらいにいったら、金髪ピアスの先輩とにこにこ話してばっかで、俺のことは事務的だった」
「にこにこしとかなきゃ怖いんじゃない?」
「あー。はあ、何か飲みたいな。水筒に氷入れてこればよかった。登校拒否とかやってたら、こんなので苦しまずにすむんだよな。いいなあ、月城とかいう人」
 僕は咲い、「登校拒否は登校拒否で、簡単じゃないけどね」と言って希摘を想う。まあ、希摘は成海の言う通りだろうか。今も寝ているとか、絵を描いているとかだろう。
 学校にいるとき、希摘の日常を想うと変な感じだ。彼が学校と決裂した過程も知る僕は、羨望や嫉妬はないけれど。
 応援歌に文句をつけたり、地面に落書きをしたりしていると、はりきった笛の音が響いた。みんなだるく顔をあげ、「このくらいでだらけてどうする!」と山沼が無気力盛りの中学生に無駄な一喝を贈る。
「あんなんに限って、家では奥さんの言いなりだったりしてね」
 成海が耳打ちしてきて、僕は声を抑えて咲った。
 三時間目から四時間目まで、二時間通して心身共にめまいのする練習は続いた。そして、昼過ぎにようやく鳴ったチャイムで、僕たちは釈放される。
「おい、天ケ瀬」
「弁当どこで食べる?」とか成海と話しながら、校庭を出たときだった。野太い声に呼ばれて振り向いた僕は、外して無造作に振りまわしていた鉢巻を慌てて背後に下ろした。
 そこで浅黒い顔を険しくさせていたのは、山沼だった。
「な、何ですか」
 引き攣った愛想咲いをして、成海も目をそらした。髪の色を抜く彼は、なるべくこういう教師とは接触しないようにしている。
「今日は天ケ瀬──遥のほうは休みか」
「えっ。いや、さあ……」
「一緒に暮らしてるんだろう」
「いなかったですか」
「いなかったから訊いてるんだ」
 えらそうに、と思ったのを出さない顔を、僕は成海と見合わせた。遥は確か──
「二時間目には、いましたけど」
「けど」
「着替えとかしてたら、いつのまにかいなくなってました」
 山沼は不快そうに眉をゆがめ、「お前も、いとこなら少しは見張っておけよ」と去っていった。ぴくりと眉を寄せた僕は、山沼が見えなくなってから、「何だよ」とアスファルトを蹴る。
「何でそうなるんだよ。僕は遥の子守りじゃないし」
「怒っております」
「何あいつ。ムカつく。何で僕があんなん言われんの? いとことベビーシッターは違うじゃん」
「ベビーシッター」
「僕のせいみたいに。んなもん、お前が遥に言えよ」
「怖いんじゃないのー? 広田のことだってあるし」
「だからって、僕にやつあたりしなくていいじゃん。あんな教師、中学生には悪影響だよ」
「まあまあ、どうせ家で嫁に風呂掃除とかさせられて、ストレス溜まってんだよ」
 たとえそうでもむすっとしている僕に、「あとでミートボール一個あげるから」と成海は僕の肩に手を置いた。僕は成海と顔を合わせ、肩を下ろすと靴箱に到着する。
 そこで桐越や日暮ひぐらしと合流しながら、遥の靴箱を覗いた。探すまでもなく、遥の靴箱は僕のひとつ上だ。あの無骨なスニーカーはなく、上履きが残されていた。どっか行ったのか、と息をついていると、みんなに名前を呼ばれて、僕は小走りにその中に混じった。
 ゴールデンウィークが過ぎて一週間が経ち、遥の連休前の変調は、いよいよ著しくなっていた。気づくと消えたり現れたり、一日じゅう教室に来ないときもある。
 例の数学の広田の一件は、教師たちの遥を見る目を変えさせた。特に広田当人は、担任を通して遥が家で切れた話を聞いて、大きな顔ができなくなっている。
 広田が遥に突っかからないどころか、恐縮するのを見て、みんなうすうす遥が訳有りだと察しはじめていた。それで好奇の目を向けられるのが増えたり、学校に溶けこめない被膜が厚くなったり、混乱に逃亡しやすい体育祭の練習が開始されたり──いろんなものが絡みあって、遥の授業をサボるくせは頻繁になっていた。
 それを僕に聞かされた両親は、学校に行きたくないのなら行かなくていいと遥に提案した。何も言わない遥に、沈黙は永遠ぐらい続き、翌朝、彼は冬の制服を着て一階に降りてきた。とうさんとかあさんも、遥のちぐはぐな行動にとまどっているようだ。
 登校中、「学校も家も嫌なの?」と並行しながら問うてみると、遥は僕を一瞥し、不機嫌そうに先に行ってしまった。またサボるのかな、と思ったら席替えで離れた席に遥はいて、だが、やはりいつのまにかいなくなった。
 どこに行っているのか、それは依然として謎だ。僕は遥の不透明な生活に、怖いような不安をもやつかせていた。

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