昼休みの出来事
この中学校は、給食でなく弁当が実施されている。昔は給食室に当たった場所で、購買も行なわれている。
どこで食べるかも自由だ。昼休みは解放される屋上、本棟と第二棟のあいだの中庭、教室で椅子を動かしたってかまわないし、ほかのクラスの教室で食べても問題ない。僕は友人数人と外に出て、校庭の南に建つ木造二階建てのクラブハウスの日陰で弁当を開く。
ここは意外と穴場だ。アパートのようなクラブハウスが日陰を作ってくれて涼しいし、土台のコンクリートの段差にゆっくり腰もかけられる。
ゆいいつの難点は、クラブハウスの裏手へのじめついた路地に、ときどきいかがわしい痕跡があることだ。イジメとか、喫煙とか、白い粉が少量残った小袋が飛ばされてきたときは、生唾を飲んでみんなで目を交わしてしまった。まあ、それはいくら動揺しようがスルーして、僕たちは懲りずにここで昼食を取っている。
「体育祭の本番って、いつだっけ」
からあげをかじる日暮に、「今度の日曜だろ」と桐越が答える。「二週間で実行ってのが無理あるよね」と約束通り僕にミートボールをくれる成海が眉を寄せ、みんな首肯する。
ちなみに、五、六時間目は体育祭の飾りつけなので、みんな体操服は着替えて制服だ。
「そのあと、一週間は中間のために猛勉強か。バランス悪いよなあ。せめて、体育祭を四月に済ますだろ」
息をつく日暮に、「それか秋だよね」と成海がソースがついた箸を舐める。
「文化祭もっとあとにずらしてさ」
「雨で延期になったら、どうなるんだっけ」
ミートボールを食べて、僕が誰に特定せず訊くと、「六月にあとまわしだろ」と日暮がしっかりチェックした答えをくれて、首を横に振る。
「あー、やだやだ。中止にしちまえよなあ」
「六月っていうと、天ケ瀬、なめくじ出るな」
桐越がにやにやと脱線したことを言い、「……ほっといてよ」と僕はむくれる。
「俺はプールがやだなあ」
成海の言葉に、「お前、泳げるだろ」と日暮が突っ込むと、「あのね」と成海はまじめくさって背筋を伸ばした。
「日暮みたいに体格がっちりあるならいいんだよ。俺はこの体質、すっげえコンプレックスなの。何でそんな軆をさらさなきゃいけないの?」
「軆隠すのは女っぽいよな」
「うるさいなあ、桐越まで。点数悪いと、後片づけさせられるしさ」
「あれは理不尽だよね」と僕がうなずくと、「でしょ」と成海は水筒からお茶を飲む。
「おまけに、夏休みに補修させられるかもしんない。夏休みは学生として補修するんじゃなくて、男として女の子はべらすためにあるんだよ」
「みんな夏休みどうする?」と日暮が問うと、「寝てるか、どっか行ってる」と桐越、「僕はゲームしてるかな」と僕、「俺はひたすら遊ぶよ。誰か宿題写させてねー」と成海は答えた。
「俺はねえさんの店で、コネで年齢伏せてバイトするんですね」
「うわ、チクってやろ」
「あのなあ、俺はマジで金いるんだよ。中坊でバンドやってるって厳しいんだぞ」
黒髪のくせ毛に親しみやすい顔立ちをして、性格は剽軽ながら体質はしっかりした日暮は、十三から学校の外でバンドを組んでベーシストをやっている。歳の離れたおねえさんは、カフェバーを経営していて、バンド仲間とはよくそこで落ち合うそうだ。そういう友達は、ちょっと不思議な、違う匂いがする。
とりとめのない雑談に混じりつつ、雲もない南中の青空を仰いだ。まばゆさは真夏よりまだ柔らかいのに、こないだ春にのほほんとしていたせいで、強く感じられる。
何気なく校庭を見やった僕は、ふと、草地に立つサッカーゴールにもたれる人影に気づいた。
男だ。遠目にもすらりとした体質に、この暑さで校内で死滅しつつある黒い学ランを着ている。足元にはかばんを置いていて、まさかあんなところでひとりで昼食か。いや、サッカーゴールにもたれて、突っ立っているだけだ。
冬服? 午後の授業もあるのにかばん?
僕は眉間を寄せた。まさか。いや、でも──
「どうした?」
停止する僕を、桐越が覗きこんでくる。僕は我に返って、サッカーゴールの人影に目を細める。
「あれ、遥かな」
「え」
「あそこに誰かいない?」
サッカーゴールをしめすと、流れた風に短髪を揺らした桐越は、切れ長の目をこらした。「何?」と一段上に座る成海と日暮も、僕が指した方向を凝視する。
距離ではっきりとすがたは見取れなくても、あの異様な雰囲気は伝わってきた。僕たちは顔を合わせる。
「天ケ瀬のいとこだな」
「あんなとこにいたんだね」
「何やってんだ?」
「さあ──」
遥はこちらに気づいているのか、いないのか。何やら遥に眇目をしていた日暮が、「あいつ、煙草吸ってない?」とつぶやく。
「え、嘘」
「何か持ってる。煙も流れてる」
「よく見えるねえ」
「君らゲームとかしすぎ」
「日暮が勉強しないんじゃん」
「うわ、成海に言われたくねえ」
やりあう成海と日暮はさしおき、「あいつ、煙草なんて吸うんだな」とごはんにふりかけをかける桐越は遥を熟視する僕を向く。
「天ケ瀬、知ってた?」
「……知らなかった。やばいかな」
「別にいいんじゃない? 煙草ぐらい好奇心だろ」
僕は桐越を見て、再び遥に目をやった。言われて目を凝らせば、確かに遥は何かくわえた口元から、煙っぽいものを吐いている。
煙草。中学生の喫煙なんて、好奇心か非行化のどちらかだ。僕は遥に、好奇心なんて生き生きしたものがあるとは思えない。ならば、あれは──
喫煙など、いまどき何てことはない。とはいえ、堕ちていく軌道に当てはまる項目ではある。遥の心の欠陥は、そのへんのすねた中学生とは比にならない。彼の堕落は、ただの非行とわけが違うのだ。
背景を知らないみんなは、煙草ぐらいと気にしていない。かたまっている僕に、不思議そうなぐらいだ。僕は弁当に視線をさげ、遥らしき人影を見直した。
分からない。遥に似た人で、遥ではないかも──浅はかにそう思い、機会があれば遥を探る腹を固めた僕は、ひとまずこの場は笑顔でみんなとの会話に混じっておいた。
その機会はあんがい早く訪れた。木曜日の放課後、遥が教室にかばんを置きっぱなしにして消え、その荷物は僕に押しつけられたのだ。
二時間目のあと、遥は教室にいたところを、迎合した笑みで担任にすりよられていた。遠巻きにも「話がしたい」と聞こえたので、生徒指導室にでも連れこまれたのだろう。そこで癪に障ることでもあったのか、遥は教室にも戻らずどこか行ってしまい、かばんだけ残されたわけだ。
放置したっていいのに、担任が車で届けたっていいのに、なぜか僕がそのずっしりしたかばんを引き受けることになった。
担任は、遥の勝手な遅刻早退について咎められているみたいなので、説教は建前だったのだと思う。本当は僕の家庭に関わりたくないようで、かばんも「同じ家なんだし」と僕に押しつけて、そそくさと逃げていった。
僕は倍増しになった重量の荷物に、こめかみを引き攣らせたものの、遥を探ってみたかったのに免じ、引き受けることにした。
やや曇った帰り道、住宅地内の公園に寄り道して、僕はベンチに腰かけた。遥の新品の通学かばんを膝に引きずりあげる。使いこまれていなくて、くたくた感もなく、手触りは硬い。躊躇や罪悪感をため息と吐き出すと、おもむろにファスナーを開けた。
新しい、慣れないにおいがした。一番上にあったのは、国語の教科書だった。ちょっと躊躇い、かばんに手をさしこんで、教科書の下を探っていく。ノート、漢字ノート、文法帳、社会の教科書──勉強関連のほかに、一応、体操服や鉢巻、弁当も入っている。筆箱、下敷き、ポケットにあるものもハンカチにティッシュで、内ポケットや、かばんの底のプラスチックの台紙もめくった。
何もなかった。体操服やハンカチも何も包んでいないし、弁当の中身は食事、筆箱の中身は筆記用具だ。何もない。
ということは、あれは遥ではなかったのか。まあ、まだ冬服を着たサボり男子生徒というのが、そこまで希少なわけでもない。意識過剰になってしまったようだ。何だ、と僕はほっと大息して──その途端に、喉を止めた。
息が跳ね返って嗅げた臭いに、かすかに煙たさがした。僕は慌てて、再度かばんを探った。何も出てこない。それでも、あのかすかな臭いは、職員室でコーヒーの臭いに混じってただよう臭いだった。
僕は、公園にいる子供やその母親がこちらを見たりしていないのを確かめ、身をかがめ、直接かばんの中を軽く嗅いでみる。
ほとんど、新品のにおいだ。しかし、わずかながら煙草の臭いがした。もしかすると、このかばんに入れてはいなくても、そばで吸ってにおいがうつったのか。
僕は肌寒く灰色がかった天を向き、肩やまぶたの力を抜いて、ベンチにもたれこんだ。
やはり、あれは遥だったのか。遥が煙草を吸っている。いや、煙草なんて非行にも入らない。誰だってやる。僕はしたことはないけど、不良としては瑣末なうちだ。動揺するほどでもない行為に、僕の胸は世間知らずの優等生みたいにどよめいている。
だって、遥だ。彼の心には、転落できる崖ほどの深い傷がある。たぶん、その崖には馥郁と死が発生して、強烈な引力を放っている。
抵抗できるものだろうか。心の傷なんてない僕には言い切れなくても、容易な闘いとは思えない。
考えすぎだろうか。だったらよくても、学校をサボるのが喫煙に進化したと考えると、遥が死の匂いに惑わされているとは取れる。
そんな推察をさしひいても、煙草は普通に止めるべきだ。ただし、僕が言ったところで遥が悪化するのは明らかだ。僕が止めるほど、天邪鬼みたいに、こんなものでは片づかないものに踏みこんでいくかもしれない。
両親に話そうか。密告なんてすれば、僕と遥の仲はいっそう剣呑になり、家庭にヒビがはいるのも杞憂ではない。
放っておくか。それで遥がまだ煙草に留まるのなら、それが僕にできる最善だ。
授業をサボるのが、こんなものに手を出したのも、先日、僕が両親にでしゃばった提案をするのを聞いて、いらついたせいかもしれない。そのいらいらが傷を増長させたのだとしたら、僕が無視すれば、傷口に飲まれず、遥は真っ当に踏んばれるのだろうか。
かばんの中身を記憶の限り再現して帰宅すると、遥はまだ帰っていなかった。こういう日も増えている。昨日は、とうさんの帰宅直前に帰ってきていた。どこにいたのかには口をつぐみ、家にいれば、大半は部屋にこもっている。
リビングに遥の荷物をおろすと、ダイニングにいたかあさんは、怪訝そうに歩み寄ってきた。「遅かったのね」と言われ、それには体育祭の準備があったと返し、僕はかばんの事情も語る。
煙草の臭いは伏せておいた。
それでも、かあさんは愁えた瞳をかばんにそそぎ、「遥くんは何してるのかしら」と十七時になりそうな時計を見あげた。
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