XENONのこと
昼食には、炒めるだけのパスタを作った。悠紗はミート、僕はナポリタンだ。実際に調理させてもらうと、その消費に本当に世話になっていいのか不安になってきた。とはいえ、聖樹さんのあの台詞がずきりと痛む。どっちにしろひとりぶん浮いている──。でも居候では申し訳ないし、家事ぐらいやりたい。
昼食に使った食器を洗うついでに、変な臭いがする水筒も洗った。隣では、悠紗が水切りに並ぶ朝食の食器を拭いている。僕は空になったそこに食器を並べ、朝食に使ったものは悠紗と食器棚にしまった。
午後には、悠紗がプレイするゲームを見た。「やらない?」と悠紗にコントローラーをさしだされても、失敗ばかりで恥ずかしくなるのがオチなので、遠慮した。悠紗がやるRPGを眺めているのが、僕の心の体力にはちょうどいい。
カーテンを閉めて明かりをつけた十九時頃、聖樹さんがスーパーのふくろを提げて帰宅した。「おかえりなさい」とゲームの前の悠紗と僕がそれぞれに言うと、「ただいま」と聖樹さんは微笑んで返す。そして眼鏡を外して私服に着替え、夕食を作りはじめた。僕は手伝うか否か思案し、聖樹さんがいるときには出しゃばらないほうがいいかと動かずに悠紗の隣にいた。
「今日、聖樹さん早いね」
道具屋で買い物する悠紗は、「んー」と眉間に皺を寄せる。
「いつもと変わんないよ」
「あ、そうなんだ」
では、あの出逢った日が特別に遅かったのか。そういえば、聖樹さんがあんなに遅くなった日、悠紗はどうしていたのだろう。まさか、ここにひとりでいたのか──まさか。
夕食の献立は、野菜の肉巻きと煮物、ご飯、えのきと豆腐の味噌汁だった。悠紗はゲームを片づけ、僕は食事を並べるのを手伝う。揃って食べる食事の輪に、僕も溶けこみはじめた。
夕食が終わると、悠紗はバスルームに行き、聖樹さんはそれを追いかける。悠紗の着替えを取りにきた聖樹さんに、僕は食器を洗うのを申し出てみた。聖樹さんは最初は断ったものの、僕が義理ばかりではないのを悟ると、「じゃあお願い」と言ってくれた。そうして僕は、ふたりがバスネームにいるあいだ、食器を洗う。
こうして家事をしたいのを聖樹さんに言い出したくても、立ち入っていいのか迷いもあった。僕はよくても、聖樹さんたちが生活に他人の手が入るのを嫌がるかもしれない。もっと打ち解けてからのほうがいいかな、と考えつつ食器の泡を滑り落としていった。
悠紗と入れ違いに僕もシャワーを浴びた。部屋に戻ると、髪を乾かした悠紗はゲームを、ノートPCを開いた聖樹さんは仕事をしていた。僕が髪を乾かしていると、悠紗は眠たそうにあくびをしだす。キリがついたのかPCを閉じた聖樹さんは、悠紗を寝室に追い立てた。
引き抜いたドライヤーのコードをまとめていると、聖樹さんが物音を殺して戻ってきた。聖樹さんはテーブルのそばに腰をおろし、ドライヤーをクローゼットに片づけた僕も、何となくそこに行く。
聖樹さんは僕に表情をやわらげた。
「食器、ありがとうね」
「いえ。慣れてますし」
「そう。昼ごはん、パスタ作ってくれたんだって? 手抜きしてよかったのに」
「平気です。僕こそ、勝手に使っちゃって」
「それは気にしないで」
聖樹さんは、すらりとした指で書類をクリップに束ねる。
「今日、悠はどうだった?」
「あのあとは落ち着いてましたよ」
「そう。わがまましたりとかは」
「ぜんぜん。どうしてですか」
「保育園では、一匹狼で先生たちをわずらわせてるしね。家で萌梨くんといたら、突っ張らずにいるか」
聖樹さんは苦笑いし、書類やPCをかばんにしまっていく。
「保育園のこと、悠紗に聞きました。すごいですね。あんなに考えてるって」
「うん。僕もびっくりする。また、それを実行するのもね」
「悠紗が正しいと思いますよ」
「僕も。正しいことって、常識では変なんだよね。ちょっと狂ってるほうが、やりやすいんだ」
聖樹さんを見た。不思議な感じがした。実感がこもっているような、口任せで薄っぺらいような、曖昧な口振りだった。聖樹さんは何事もなく微笑する。考えすぎかな、とうやむやに判断し、僕はたわいない話題を紡ぐ。
「あの、聖樹さんが遅くなった日って、悠紗はどうしてたんですか。ひとりじゃ危ないですよね」
「うん。だからしょうがないんで、保育園にいてもらってた」
「バスで送られてきちゃうんじゃ」
「乗らなきゃいけないってわけでもないんだ。帰りはいつも僕が迎えにいってる。長時間保育やってるとこだけど、ほんとに遅くなれば、実家に置いてる合鍵で弟に来てもらうかな。料理はできないんで、出前取ってくれたり悠紗と遊んでくれたり」
「弟さん、いるんですか」
「うん。向こうの住宅街──って知らないか、そっちの一軒家の実家に住んでる」
「え、いくつなんですか」
「高校生。今年十八」
「離れてますね、歳」
「そうかな。七つ。そうだね。遊びたい盛りなのに、僕に気を遣ってくれるんで、こっちも甘えてる」
くすりとした聖樹さんに、その弟さんへの親愛が垣間見れる。
「その人にも、悠紗は」
「懐いてる。あっちは大学に行くか行かないかで揉めてるし、レールに乗るのが嫌な者同士」
けっこういるなあ、と思った。悠紗の心を開かせた人は数人だと推していた。わりといるようだ。昼間に悠紗に聞いた音楽の先生は、四人もいた。その音楽の先生は、聖樹さんの友達なのだっけ。それを思い出した僕は、聖樹さんに四人の先生について訊いてみた。「ああ」と聖樹さんはうなずく。
「そう、僕の友達。十三日の金曜日の先生だよ」
「何か、いっぱい名前が」
「梨羽と紫苑と要と葉月だね。四人でバンド組んでるんだ」
「あ、バンド、ですか」
なるほど、と複数の講師に納得がいく。
「メジャーではないし、知らないかな。XENONっていう」
「キセノン、ですか」
ぎこちなく反復しても、候補も浮かばない。もともと、僕は音楽どころか芸術自体に不案内だ。
「知らない、です。ごめんなさい」
「いや、インディーズだし、大衆に売れるタイプのバンドじゃないんだ。やってるのもロックだし。カルトに受けてる感じ」
聖樹さんの友達が、ロック。しかもカルト。うまくつながらなかった。どんな人たちだろう。髪を染めたり、長髪だったり、いろいろあるのだろうか。何だか怖い。
「来月帰ってきたときに会うといいよ」
「怖く、ないですか」
「大丈夫。個性的だけどね。梨羽と紫苑はむずかしくても、要と葉月は楽しいよ」
「そう、ですか。あの、見た感じとかでびっくりしたらすみません」
「はは、わりと普通だよ。やってる音楽がすごいだけ」
そんなものなのか。まあ、聖樹さんの友達で、悠紗が心を許した人たちだ。そう考えると、安心してもよさそうだ。
「じゃあ、悠紗って本物のミュージシャンに音楽教わってるんですね」
「うん。向こうも悠をかわいがって、個人的に手解きしてくれてるんだ」
「悠紗、将来、音楽したいって言ってましたね」
「あの四人の影響だね。いいんじゃない? あの子は会社勤めなんてできないだろうし。表現しておもしろそうな個性もあるし。って、僕が言ったら親バカかな」
「いえ、僕もそう思いますよ」
聖樹さんは咲うと、膝にあったかばんを向こうにやった。「果物でも食べようか」とゆっくり話すのをほのめかされ、うなずく。腰を上げた聖樹さんに、僕も無意識に立ち上がり、「手伝います」とそのあとを追いかけた。
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