プール
もちろん、あちらにいるときよりマシだ。肉体的な攻撃はなくなった。それはそれで、大きな救いだ。しかし、相変わらず精神的には地獄を見ていた。
心や脳が組織を内攻して、傷が傷をえぐる。ふとした隙に内攻は表出する。真っ暗なめまいにくらつきそうになったり、内臓を戻すような吐き気に蒼ざめたり、激しい頭痛にあの光景がまたたいたり。
あの家やあの学校にいた頃よりは、いい。けれど、それはなおも加わるものが片づいただけであり、心は何ひとつ変わっていなかった。裂傷の急増は抑えられても、その深化は断たれず、進化の過程で傷が生まれたりもする。
肩を一瞥すれば、その瞳でも窺えそうに、あの無感覚の鬱が背後に潜在していた。
プールのシャワールームで犯されたことがある。夏休み、プールの授業の補習を課せられていた。座っていればいい勉強はできても、動きまわる体育の成績は僕は最悪だった。個人練習の補習を終え、ひとりでシャワールームに行くと、別のクラスの男子が自慰をしていた。
冷たいカルキの臭いに、雫の水音と息遣いが響いていた。後退ろうとした。ぴちゃん、と床の水が音を立てた。その人は顔を覗かせ、僕だと認めると焦りもせずに笑った。「何?」と言われて首を振り、逃げ出そうとした。追いかけられて、捕まえられた。「離して」と言ったと思う。聞き入れてもらえず、力も敵わなかった。一番奥の個室で勃起した性器を口に入れられ、水着をおろされると強引に犯された。
シャワーがめいっぱい降りそそいでいた。溺れそうな水の中で、えぐるように突き動かれた。泣いても涙は水が洗い落とし、目も開けられず、鼓膜はざーっという音に圧迫されている。水に打たれる頭はずきずきして、濁流がすべる背中は次第に麻痺していった。内腿にどろりと熱いものが垂れては、それも水がむしりとる。
場所が場所なので、長時間ではなかったけど、水音を聞くのみの僕にはひどく長かった。嗚咽をかきけす轟音の合間に聞こえる、入り乱れた息と忍び笑いが、死ぬほど怖かった。
シャワーの水音を聞くと、そのときのことを思い出す。そして、感覚に蘇生したあの頭痛や麻痺に、シャワーを頭にかぶれなくなる。髪を洗っても、ざっと流せずに水圧を緩めてのろのろと泡を落とす。バカみたいでも、こうするしかなかった。忘れてシャワーを浴びていて、体感に一変するときもあり、その不意打ちのショックは悪い引き金になりやすかった。
昨日、悠紗と聖樹さんがバスルームにいるあいだ、リビングにひとりになった。トイレに行った帰り、引き戸の隙間に気づいた。
閉めておこうと歩み寄ると、そこにあの水音が聞こえて目を剥いた。逆流のような吐き気がせりあげ、流れを残すトイレに戻ると、夕食を嘔吐した。荒くなった息が個室に反響し、それがまたあのこだましていた乱れた息遣いに似ていて、ふくれた恐怖は食いこむように弾けた。
汚物を流して部屋に帰ると、へたりこんだ床に涙がこぼれた。なぜこうなのだろう。こんな瑣末なことで、どん底までつまずき、錯覚に流されては現実を失う。狂った五感がほとほと情けなく、心底自分が嫌になった。
聖樹さんたちが来る前に、涙や鬱は繕っておいた。だがふたりは敏感に察し、悠紗は僕の隣に座り、聖樹さんは悠紗の就寝後、せめて僕が咲うまで相手をしてくれた。
心は何も変わっていない。けれど、このふたりを得た幸運が大きいのは確かだ。僕はずっと、いつも、いくら落ちこんでも放っておくしかなかった。
とはいっても、無論ふたりは僕の所有物ではない。常にそばにいて、落ちこむとやってきてくれるわけではない。そういうときは、やはりひとりで耐え抜くしかなかった。
僕の心には、冷たくしんとした死への欲望が横たわっている。ただでさえ削れている神経で、僕はその覚醒を抑えこむ。浪費する精神力は計り知れず、ぐったりと総身の血の気を引かせる。頭が暗く空っぽになるあの状態なら、麻酔なしにばらばらにされても何も感じないかもしれない。僕の感性には、それぐらいすべて虚しくなるときがあった。
眠れない夜もしょっちゅうで、それはこの部屋でもやってきた。家での悪夢に眠りを害された僕は、かすかに震えながら暗い部屋でぽつんと座る。足に触れるふとんは、寝汗に湿っていた。明日干さなきゃな、とベランダのカーテンを向いた僕は、外の空気を吸うのを思いついた。そうしよう、と砂嵐の眼界にふらつきながら立ち上がると、音もなく外に出た。
ひんやりした夜の匂いが、かいた汗をすっと浮き彫りにした。二時か三時か、そのぐらいだ。虫の声が澄み渡り、あたりは真っ暗ながら、向かいのマンションには明かりがついている部屋もある。道路にたたずむ自販機が白い電燈でぼんやり浮かび上がっていた。
額に貼りついた前髪をかきあげると、流れる風が髪をひかえめに揺らす。ため息が色づく時期ではなかった。脚に体重をかけているのがだるく、手すりにもたれる。
暗闇に瞳孔が慣れると、道路や植木が漠然と望めた。それに視覚を、虫の声に聴覚をそそいだ。そうしていると、多少は生々しい心象が現実にやわらいでいった。
気持ちがマシになるまでそうしていた。それが僕にはつらかった。マシにならなきゃいけない気持ちにつきまとわれているのが、すごく苦しかった。
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