急ぐ朝
翌朝、目を覚ますと、実摘はいなくなっていた。ベッドは乱れっぱなしで、毛布もリュックもなくなっている。
頭を直撃した目覚まし時計をベッドスタンドに置き直し、あくびを噛んだ。ぼんやりした頭を揺さぶり、実摘がいなくなったのを認識していく。
いつのまに出ていったのだろう。気づかなかった。ベッドに手をついて立ち上がり、おぼつかない足取りで玄関に行く。なぜか鍵は締まっていて、飛季は首をかしげた。
とりあえず、トイレに行った。ぼさぼさの髪を撫でつけ、シャワーを浴びようとクローゼットで服を選ぶ。バスルームに行こうとしたとき、背後でからからと心当たりのない音がした。
振り返って、目をみはった。カーテンがめくれ、緑色の毛布をかぶった実摘がガラス戸をくぐってきた。ぽかんと突っ立ち、何秒かかけて、彼女は出ていったのではなく、ベランダにいたのだと理解する。
実摘は飛季のそばに来て、幼稚な仕草で着替えに手を乗せた。
「シャワー、浴びようかって」
無言の問いにそう答えると、実摘はうなずき、手を引いた。ベッドサイドに小股に歩いていき、背負っていたリュックをあさりはじめる。飛季は彼女を懸念しながらも、シャワーを浴びにいく。
余裕のない朝の時間と、実摘が何をやらかすか分からないので、手早く寝汗を流した。シャツを羽織ってスラックスを穿くと、部屋に戻る。
実摘は毛布をかぶって、ベッドに横たわっていた。飛季は朝食を作るために、キッチンに立つ。実摘はついてきて、背中にぴったりとくっついてきた。
彼女の幼い胸が、背中に当たって生唾を飲みこむ。実摘は飛季の背中に頬を当てて、深い呼吸をする。何だか、性的な色合いを持った息遣いだ。
だが、誘惑には乗らない。一時間もせずに出勤して、当たり障りない講師を演じなくてはならない。彼女に構って、混乱するまま生徒に接し、仮面が剥がれたら恥辱だ。
朝食ができると、絡まる実摘をほどき、皿をミニテーブルに並べた。実摘は素早く皿の前に座り、フォークで目玉焼きの黄身をつぶす。
「じゅくじゅく」とつぶやいた実摘に、固いほうがよかったかと訊く。実摘は首を横に振り、代わりにマヨネーズを欲しがった。臆面したものの、一応賞味期限が切れていないそれを渡した。
実摘は目玉焼きにマヨネーズをかける。気を遣ったのか、飛季のぶんにもかけようとして慌てて引いた。
「俺は、いいよ」
実摘は飛季を眺め、こっくりとする。飛季はテーブルに置かれたマヨネーズのふたを締め、冷蔵庫にしまった。そして、やっと朝食につく。
半熟の目玉焼きを食べながら、実摘を盗み見た。彼女は目玉焼きの脇のウインナーをつついている。
もう出勤だが、この子のことは、どうしよう。部屋に置いて出かけるのは、正直困る。おとなしくしている保証もなければ、鍵もかけずに出ていくという恐ろしいこともする。被害を被るのは飛季だ。厳しく追い出すしかないか。
しかし、実摘に愛着があるわけではなくも、負い目はある。飛季はこの部屋で彼女を抱いた。二十五にもなる男が、ほんの十四、五歳の少女を押し倒した。それを彼女に出されたら、一瞬にして形勢は飛季が不利になる。
思えば、飛季は金もはらっていない。彼女がいらないと言ったのは、もしかすると、飛季の部屋を宿にする切り札だったのではないか。無論、仮に金をはらったとして、情事がチャラになるわけでもないが。
何なのだ。自分は、この子供にハメられまくっている。どう動いても、飛季が罠に落ちるようになっている。計算しているのだろうか。
ごちゃごちゃ思索し、食べた気もせずに朝食が終わった。「スープ」とぼそっと言った彼女に、ポタージュスープを作ってやる。ベッドサイドにもたれて、それを舐める実摘を横目に、飛季は支度を進める。
バスルームの洗面台で歯を磨き、髪をセットする。前髪の守りがなくなった顔に、自分の顔が直視できなくなる。
実摘は膝を抱えて、朝陽にまみれている。七時四十分を過ぎていた。飛季はデイパックを取り、実摘の正面にしゃがんだ。
「俺、仕事に行くんだ」
実摘はうなずく。動き出す気配はない。飛季は躊躇ったのち、率直に伝えた。
「一緒に出ていってくれる?」
実摘は、びっくりした目に飛季を映した。
「何で」
「何で、って、君は他人なわけだし」
「おうちだもん」
「俺がいるときはそうしてもいいよ。いないときは──」
「いるの。おうちなの」
「十九時過ぎたら帰ってくるよ。そしたら、また来て」
「いや」
「実摘」
「いる。やだよ。ぬくぬくなの。やっと見つけたの」
腕をつかもうとすると、実摘は暴れた。カップが床を転がる。こぼれる、と飛季の注意がそれた隙に、実摘は這いつくばる。カップは空だった。
「実摘」
実摘はほこりだらけのベッドの下にもぐりこんでいく。肩の傷が覗く。追い出されまいと威嚇する実摘に、飛季は困惑した。
「頼むよ。夜には来ていいんだ」
実摘は床に密着して動かない。顔も床に押しつけてしまう。
飛季は舌打ちして、テレビの下の引き出しを開けた。奥にひそませる合鍵を取ると、実摘の頭のそばに置いた。
「もし出かけるなら、これで鍵をかけていって。いい?」
強い口ぶりの飛季に、実摘は重たく顔をあげた。鍵に指を触れさせ、彼女はうなずいた。
飛季が玄関に走ろうとすると、実摘がスラックスの裾をつかんだ。焦慮が芽吹く。
「何」
「いってらっしゃい」
「は?」
「いってらっしゃいって言うの。おでかけの約束なの」
気抜けしそうになった。急ぐ飛季は、「いってきます」とおとなしく返す。実摘は手を離した。まったく、と心であきれて、飛季は部屋を出ていった。
そして、夜に帰宅した飛季は、再び自分の甘さを痛感した。
鍵はかかっていた。いるのだろうかと中に入ると、実摘のすがたはなかった。ただし、ベッドが乱れっぱなしだ。床に灰色がかった白いものが溜まっている。ホコリだ。ベッドの下にもぐっていたから、服についたものを落としたのだろう。
静かで、隠れたりしている様子もない。床に置いてやった鍵もなくなっている。ちゃんと鍵をかけていった彼女を見直し、ドアポストを探った。
預かった鍵をここに入れるのは、暗黙の了解だ。そう思って開けたのだが、そこに鍵はなかった。背筋が冷たくなり、「嘘だろ」と思わずつぶやく。
冗談ではない。そんな、常識的に考えれば──。
そこで、飛季はうなだれる。常識。実摘がもっとも分かっていないものだ。そういうことを理解しない子なので、飛季は彼女を危険視したのではないか。
自分の間抜けさに、嫌気すら覚えた。バカだ。何を彼女を信用している。鍵を持っていかれた。どうされるか分からない。
彼女のことだ。飛季の留守中に部屋に来て、仮眠を取り、そのまま帰るなんてこともやるに決まっている。家財を盗まれたりもするかもしれない。
本気でしゃがみこんでしまった。どうしよう。最悪だ。今までとは勝手が違う。鍵を変えたほうがいいのかと危懼が働き、茫然とする。なぜここまで、あのガキに翻弄されなくてはならない?
ため息が出た。非常識な実摘を怨むのと同時に、自分が情けなかった。実摘は非常識だけれど、それを甘やかしているのは飛季だ。強引な暴力を使ってでも、彼女を追い出すべきだった。
舌打ちした飛季は、鍵をかけて部屋に入った。床のほこりを無意味に蹴って、ベッドにどさっと腰を落とす。そのまま上体を倒し、乱れたブランケットの上に脱力した。
【第十四章へ】