陽炎の柩-14

冷たい言葉

 しばらくのあいだ、気を揉む日々が続いた。帰宅しては、荒らされた痕跡がないか調べる。朝は何もないことを祈って出勤する。仕事中は、今頃あの部屋は実摘のホテルになっているのではないかと心配にさいなまれた。
 とはいえ、神経質は三日で終わった。金曜日、飛季が帰宅すると、鍵が開いていた。まさかと部屋に駆けこむと、ベッドの上でブランケットがこんもりとしていた。床にはカーキのリュックがあった。ミニテーブルには、鍵も置いてある。
「実摘」
 飛季の呼びかけに、ふくらみが揺れた。ごそごそと亀のごとく出た頭は、実摘だ。
 とっさに、鍵を持ち出したことを責め立てようとした。が、実摘の瞳はやたら曇って、まとう空気はひび割れている。沈滞した瞳に、飛季が口ごもると、実摘はブランケットの中に戻って静止する。飛季は息を吐いて肩を落とすと、玄関の鍵をかけにいった。
 テーブルの鍵を取る。実摘のいないとき、新しい場所に隠そう。
 デイパックや夕食を床に置くと、ガラス戸のカーテンを閉めた。そういえば、林檎ジュースが染みた実摘の服は洗濯済みだ。あとで返そうと思った。
 髪を崩して、服を着替える。上半身をさらしているとき、背中に視線を感じた。振り返ると、実摘が凝視してきていた。物欲しげな目だ。飛季は焦ってTシャツを着た。
 実摘は軆を起こした。膝で緑色の毛布がくしゃくしゃになっている。上半身を伏せて胸をシーツに当て、転がった弁当に指を届かせようとする。飛季は弁当を渡してやった。
 実摘は軆をまっすぐにすると、弁当は後まわしにし、先に毛布をたたんで寝かせた。寝かせた、というのも妙な形容だが、事実、実摘の毛布への手つきには愛情があった。置いたという感じはしない。
 実摘は弁当をむさぼりはじめる。今日の弁当は鮭弁当だ。こうなると、飛季の夕食がない。
 飛季はベッドを離れて、キッチンで自分の夕食の都合を合わせた。作れたのは、野菜炒めと味噌汁だった。ちょくちょく実摘が出入りするのだとしたら、冷蔵庫に食材を入れておかなくてはならない。
 野菜炒めに使ったウインナーを冷蔵庫に戻そうとして、扉に見知らぬ五百ミリリットルペットボトルが並んでいるのに気づく。手に取ると、オレンジジュースだった。「僕の」と実摘の声がする。飛季は肩をすくめ、入れておいた。
 あんまりおいしくなかった夕食を済ますと、飛季は食器を洗ったり弁当箱を片づけたりする。実摘はベッドを転げ落ち、床で動かなくなった。ベッドの下をまばたきもせずに見つめている。
 片づけを終えると、飛季はデイパックをベッドに上げた。今日も仕事があった。中をあさっていると、偶然、肘が緑色の毛布に触れた。
「あ」とつぶやいた瞬間、実摘が声を上げた。ぎょっと首を捻ると、実摘は慌てふためいてこちらに来る。
「にら、にらに触るなっ」
 実摘は飛季を押しのけて、毛布をつかむ。飛季の肘が触れたあたりに手のひらをかぶせ、全身を振動させる。
「今、今触ったの。今、にらに触ったでしょ」
 あの狂暴な人格が来たのかと思ったが、違うようだ。
「にらに触ったの。この子に触ったの」
 にらって何だ、と疑問符が浮かぶ。野菜の韮だろうか。
「ダメ、ダメなの。やだ。触らないで。汚れるの」
「は?」
「僕以外のが触ったらダメなの。僕のなの。僕、いや。汚れたよ。いや。いや」
 実摘は毛布を撫でている。その手は震えていて、まるで大切なペットが死んでしまったのを認められないような手つきだ。彼女の顔つきは、徐々に泣き出しそうにゆがんでいく。
「にら。いや。ごめん。僕、いや。腐るよ。にらが腐ってるよ。何で触ったの。ひどいよ。僕、にらが命なの。にらが僕なの。にらがいなくなったら、僕、死んじゃうよ。にら。いや、にら」
 毛布にぽたぽたと染みができてきて、飛季は驚いた。実摘は真剣に瞳をいっぱいに潤し、まばたくたびに雫をこぼしていた。
「実摘、」
「いや。にらに触らないで。腐るよ。汚いよ。僕以外のが触ったら、壊れるの。僕しかダメなの。にら。にらしか僕を分かってくれないのに。にらだけなの。にら。いや。バカ。にらが腐るよ。汚れてるよ。やだよ。にら。にら──」
 実摘はぼろぼろと泣いて、毛布を擁す。彼女の視覚だと、毛布は飛季が触れたあたりが腐ってきているらしい。
 いい気はしなかった。人を細菌みたいに。かすめた程度ではないか。
 実摘はぐずぐずと泣いて、飛季をなじって毛布をなだめている。物に過ぎない毛布相手に、病的だった。ひたすら謝っている。毛布相手に、まじめに哀願しているのだ。尋常ではない。実摘が毛布を崇めるのは勝手だ。が、飛季を悪者にするのは間違っているのではないか。
 実摘はただの毛布の機嫌を取っている。聞いているうちに、飛季は投げやりになってきた。
「実摘」
「にら、ごめんね。怒らないで。嫌いにならないで。僕、にらだけなの。腐らないで。いや。にら──」
「そんなに他人に触ってほしくなかったら、出ていけば」
 実摘は、はたと顔を上げる。飛季は冷ややかな視線を作った。実摘は目を開いた。
「来なきゃいいよ。そうしたら、その毛布も──」
 拍子、鼓膜が割れるかと思った。実摘が甲高く笑い出したのだ。
「何、」
 笑い声は壁を跳ね返ってこめかみをくらつかせた。実摘は、狂った高笑いの中で飛季に目を剥いた。
「本物だ」
「え」
「本物だよ。それが本物なんだ。最初からそう言えばよかったのに。僕になんか来てほしくないって。分かってるよ。僕はいないよ。いない……の。僕なんかより、あ、あいつのがいいんだ」
 あいつ──
 そのとき、実摘の声調が急変した。
「あ、いや、違います。言わないで。黙ってて。お願い。あいつなんて言ってないよ。言ってないです。ほんとです」
「実摘、」
 落ち着いて、とその肩に手を置こうとした。実摘は振りはらう。怯えが飛び去って、猛烈な笑い声が戻ってくる。
「知ってるよ。いいよ、来ないもん。来ないよ。こんなとこ、どうだっていいもん。僕が嫌いなんだ。僕はいない。僕は暗くて見えない。いないよ。僕、おばけだもん。おもちゃなの。生まれてないよ」
 実摘の笑い声は、浮遊感覚を催させた。彼女が遊離している世界と、こちらの世界の狭間でゆがみ、脳を突き刺してくる。狂って聞こえた。
 鼓膜をひねって破る。耳鳴りが聞こえない。頭をずきずきさせる疼痛は、うなじを突き抜けて吐き気がした。
 ばたん、という音がした。頭蓋骨のぐらつきが切断された。飛季は部屋を凝視する。実摘のすがたはなくなっていた。出ていったのか。いつのまに。頭がぐらぐらしていて、分からなかった。ベッドに顔をうつぶせた。
 しばらく、何も考えたくなかった。すべてが麻痺して、だるかった。
 実摘。あの子はいったい、何なのだろう。来ない。本当だろうか。二度と来なければいい。飛季には、彼女と関わる精神力がもうなかった。
 その日を境に、実摘は完全に飛季の視界を失せた。部屋に来なければ、コンビニやマンションの前で待ち伏せてもいない。道端ですれちがうことすらなくなり、実摘の存在は飛季の生活から払拭された。
 実摘はもともと、存在感が薄かった。鮮烈なのは、彼女の言動だ。実摘は、自分はいないと口走っていた。その通りだった。実摘は言動が強烈なのであって、何もしなければひどく地味だ。
 部屋の中で、他人がいたら飛季は物事に集中できないのに、実摘ならいても集中できた。彼女は壁や床と一体化することに長けていた。
 しかし、実摘は飛季の記憶に引っかかって取れなくもあった。あの奇抜さへの衝撃は、やはり彼女を印象深くさせる。光に紛れそうなすがたに胸が痛んだこと。めちゃくちゃに罵る裏側にあった的確な観点。そういうものが飛季の心を捕まえている。
 実摘は、今まで飛季の周りにいなかったタイプだ。誰とも親しくしてこなかったけれど、それでもいなかった。飛季の心を疼かせたり、深奥を摘み取る人間は、今までひとりもいなかった。
 彼女の存在感は薄っぺらい。衝撃による印象も、やがてそんな存在感に食い殺されるだろう。飛季の記憶から実摘はいなくなる。
 実摘が現れなくなった直後は、それでよかった。彼女は消えていき、生活が安息に還ると思った。しかし、日づけが重なるにつれ、飛季は不安になっていった。
 よかったのだろうか。実摘は飛季にとって稀有な人だった。飛季が誰もを謝絶していたのは、陰惨な自分には誰も近づきたくないだろうと現実をわきまえていただけだ。
 実摘はその現実を破った。あまりこころよいやり方ではなかったとしても、飛季にはそれが合っていた。優しくされても、飛季はそれを懐疑する。実摘はあれで、うまく飛季の精神に蹴りこんできていたのだ。
 霞んでいく実摘に、飛季は焦った。平静を望みながらも、絡みついてくる実摘の肢体が懐かしかった。そんな心の矛盾に狼狽していた。
 ざわめいて波立つ心に、落ち着かない。神経がさざめき、やたら過敏になる。無感覚がうまくいかない。演技はできても、そのために骨折らなければならない。
 さまざまな事柄が飛季の脳に触れ、記憶を犯そうとする。
 飛季は、部屋を血まみれにした。毎日、誰かを殺した。
 心を落ち着けなければならなかった。実摘を想う。せめて彼女にあの冷たい言葉を詫びたかった。

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