午後の太陽の下
体育祭をあさってにひかえた金曜日の昼休み、体育祭で出るゴミの対処の話合いとかで、美化委員に呼集がかかった。
僕は昼食を早めに切り上げ、一応、遥が教室にいないのを確かめる。まあ、いるわけがない。僕はひとりで指定された理科室に向かった。
みんなが制服でなく体操服なのは、五、六時間目が全校での予行演習だからだ。
ゴミを減らしたりまとめたりするのが美化委員だが、策がなかなか出なくて長引いて、教室を出たところで予鈴が鳴った。みんな焦って駆け出し、僕も一階に急ごうとする。
が、鉢巻がないのに気づいた。どこだ。ポケット。いや、入っていない。落としたのか。教室に置いてきたのか。
そういえば──四時間目のあと、はずして手に持っていたのを、かばんの弁当を出すときにつくえに放った……ような。
「あーっ」とひとりいらついた声を発し、僕はみんなと逆方向に走り出した。
駆けこんだ教室には、誰もいなかった。静けさがいやに室内を広く見せる。僕の席には、やっぱりそのまま赤い紐が放られていた。どこかに落としたよりマシだった。僕はそれをつかむと、廊下に出て階段を駆け降りていった。
まわり道をしているあいだに、みんな、すっかり校庭に流れ出していた。雑音の引いた校内に、ばたばたと僕の足音が響く。あおられる焦慮や周章に泣きそうになって、一階にたどりついた。一瞬方向に迷い、まず渡り廊下を抜けて、靴箱のある本棟に移ろうとした。
そのときだ。
声がして、足をとめた。
何か、たぶん、笑い声だった。
僕は渡り廊下から、中庭を覗いた。陽射しに生き生きした芝生が一面に引かれ、見ただけなら何もない。が、声変わりしかけた数人の男の声と、何か草の上を引きずる音がした。もしかして、と予想を立てると、案の定、制服の男子生徒ふたりが、体操服の男子生徒を裏庭から引きずり出してきた。
何だよ、と舌打ちして廊下を走り出そうとしたとき、急に険悪な声が背中に届いた。
「何だよ、あんた」
どきっと、こわばった肩に足を止めた。心臓から肌が畏縮に冷たく染まる。
あんた──とは、僕だろうか。気づかれたのか。関わってるヒマないのに、と本音か虚勢か思って振り返ると──誰もいない。
あれ、と軆ごと返して首をかしげると、声は続く。
「何か文句あるのか」
僕は陰に身を隠し、もう一度、中庭を覗いた。手前で物好きをやるふたりのうちのひとりが、本棟に向かってしゃべっている。
見ると、本棟の陰に誰かいた。こまねいて、だるそうに壁に肩に預ける、冬服の男子生徒──
「何見てんだよ」
いつも通り無表情ながら、遥はどこか軽蔑の混じった目を三人に向けている。
犠牲者はここからは見えなくても、追い詰めるふたりは、ひとりはシャツがはみだし、ひとりは眼鏡をかけていた。名札の色で、ふたりが僕と同じ二年生なのは窺える。
「誰かに言うのか」とシャツのほうが開き直ったような声で脅し、遥は彼をちらりとすると、鼻で軽く嗤う。
「何だよ、お前っ──」
「あんたも混じりたいのか」
「は? おい、」
「いいじゃん。な、多いほうがいいだろ」
眼鏡のほうがへたりこむ犠牲者に微笑むと、遠くの笛の音に怯えた喘ぎが重なる。いったん手元の鉢巻を見おろした僕は、いまさら混じっていけないな、と覗き見を続行することにした。
「来いよ。予行演習なんか、どうせばっくれるんだろ」
「やめろよ。だいたい、あいつ誰だよ。見たことないぜ」
「二年ではあるだろ。名札青だし。何組? 名前は?」
「………、七組の、“天ケ瀬のいとこ”だよ」
しゃべった、と久しぶりに聞く遥の整った声に、僕は息も心臓も抑えつける。
天ケ瀬のいとこ、とは皮肉っぽい。誰に対しての皮肉だ。もしかして、遥は僕がここにいるのを──
「天ケ瀬って、え、深谷と仲がよかったあいつ」
「あいつの交流なんて、俺は知らないけど──」
初めて聞く、なめらかで落ち着いた“普通”の口調で、遥はふたりに歩み寄っていく。さくさく、と芝生が小さい音を立て、僕は遥に気づかれないように逃げ出したくなってくる。
“自然”ほど遥に不自然な印象を与えるものもない。だが、遥を知らないふたりには、違和感もないようだ。そばに立ち止まった遥を見上げ、どうやら仲間意識まで持ちつつある。
「こいつはさ、こないだ俺が授業中に漫画読んでたら、わざわざ先公に報告しやがったんだ」
理由になっていない眼鏡の説明に、「ふうん」と遥は犠牲者に眇目をする。
「お節介は重罪だよな」
「だろ」
「話分かるじゃん」
遥は、花壇にへばりついているらしい犠牲者に目を下ろした。
不思議な、危険な目だった。憫れむような、憎むような、蔑むような、哀しいような──そんなのが深く綯い混ぜになって動かない瞳が、少しひずみ、静かな光が裂けめに嗤う。
遥はこまねきをほどくと、その手を腰に当てた。
「なぜ、教師に言おうと思った?」
「え……っ」
「何で、いちいちそんなお節介を焼いた?」
「だ、だって、」
「先公に気に入られたいからだろ」と眼鏡が膝に力をこめた足蹴を食らわし、にぶい音と生々しいうめき声がもれる。
「こいつの言う通りなのか」
「そ、そんなんじゃない。ただ、悪いことだと思ったし──」
「悪いことお? だったら、お前が自分で俺に注意すりゃいいだろ」
シャツも笑い声をあげながら足蹴を飛ばし、向こうにどさっと崩れる音がする。
「先公なんか味方につけやがって。卑怯なんだよ」
「つまりお前は、自分がいいことをしたと思ってんだな」
陰る廊下に視線をはりつけ、こめた力に喉をすくめた。
違う。遥は、あの犠牲者に訊いているのではない。今、ここで、かたまっている僕に訊いているのだ。
なぜ言った。なぜあんなお節介を焼いた。自分がいいことをしたと思っているのか──
「そうなんだろ」と遥は強引に犠牲者の胸倉をつかんで立たせる。
「お前は、自分は正しいと思ってんだろ。こいつを悪の道から助けた聖者だと思ってんだよな? ふざけんなよ。お前はただの偽善者だ」
「そ、そうだよ。俺はお前に助けてくれなんて頼んでないしな」
「お前なんか、俺たちよりずっと嫌らしい──」
「お前に何の権限がある? お前にこいつに立ち入る権利があるのか。友達面しやがって、目障りなんだよ。お前なんか、ここにいなきゃよかったんだ」
一枚一枚、皮を剥ぐように遥は瞳を赤く狂暴にとがらせる。
両脇のふたりは、刹那とまどった目を交わした。ようやく、遥が自分たちより危険なタイプだと感知したようだ。
遥はそれを見落とさず、「お前らだって同じだ」と喉で嗤う。
「お前らは暴力を分かってない。才能がない。いいか、暴力っていうのは殺す気でやるんだ。じゃなきゃ腰抜けだ。へらへら笑うな。もっと殺意をたたきつけろ。こういうふうにっ──」
言い終わらないうちに、ばきっと段違いの音が響いた。荷物を下ろすような、重みをまともにこめた倒れこむ音がして、犠牲者はこちらにも上半身を覗かせる。うつぶせたその肩に、眼球をたぎらせる遥は、すかさずかかとを落とし、砕けたそこを蹴りやって仰向けにすると、真っ赤に腫れあがった顔に大量の唾を吐いた。
ふたりは茫然と突っ立って、虐げられる本人すら怯える余裕もなく驚いている。彼は遥に胸倉をつかまれ、腹をこぶしでつんざかれ、激しく咳きこんで口元に血を垂らした。
「おい」とひとりに肩に手を置かれると、遥をそれを刃物じみた手つきではねつけ、もう一度、犠牲者の頬を渾身で殴りつけて芝生に仰向けに倒した。
「いいか、俺を憎むのは筋違いだ。これは俺の罪じゃない。お前の罰だ。お前はこうされて当然の驕った行為をした。見過ごされると思うなよ。この偽善野郎!」
明らかだ。遥は彼を見ていない。僕を見ている。僕を投影して、憎しみを吐き出している。遥は僕を殴りつけ、僕を罵っているつもりなのだ。
生贄の彼は恐怖に犯され、本気で殺される絶望に頬を引き攣らせている。
できれば、知らないふりをしたかった。イジメを見過ごす、いつもの冷めた無視ではない。本気で関与したくない。でも、これは僕と遥の問題だ。イジメでもない。割りこんでも変じゃないし、だいたい、あれは僕のせいだ。
僕が思い上がったことをして、遥は過去を反転させた行動に駆り立てられている。僕の責任だ。僕が割りこまなければ、誰が責任を取る? あの生贄の彼への罪悪感もふくれあがり、僕は破裂した衝動に陰を飛びだした。
「遥っ」
呼ばれた本人より、ふたりのほうがはっとこちらを向いた。もう、加害者としてえらそうにできないようだった。遥の仲間と思われたくない一心で、「俺たちは関係ないぜ」と吐き捨てて、遥が登場した本棟の影に急いで逃げてしまう。
暖かくまばゆい日光の元で、遥も僕も見た。赤黒く煮え立った瞳に、僕は気力を張りつめた目を返し、「謝れ」と強い語調を使う。
「……は?」
「そいつに謝るんだ。関係ないんだろ」
「………、」
「殴りたいのは僕なんだろ。そいつは何にも悪くないんだ。謝れ」
何秒か僕を見て、瞳を拍子抜けさせた遥は、急に吐き出すように笑った。そして、呼吸を痙攣させる彼を、乱れた前髪の隙間から見さげた。
「ほんとに偽善者だな」
「悪かったよ。僕がほっとけばよかったんだろ」
「……そうだな。それはそうだよ。でも、こいつのことにお前は関係ないさ。俺はこいつを殴りたいんだ。それだけだよ」
「遥──」
「こいつがムカつくんだ。泣いてぼろぼろになりやがって、何で仕返ししないんだ。ガキみたいに。いらいらするんだよ」
僕は眉を寄せた。僕を投影して、彼を殴っていたのではないのか? もしかして、無力だった自分の幼少期を再現している彼に腹が立ったとか──。
遥は長い脚で彼の頭のかたわらにまわると、バッタが跳ぶ芝生にしゃがみこんで、つぶれた顔を見下す。
「このことを誰かに言ったら、殺してやる」
涙に瞳を爛れさせる彼は何も言わず、呼吸と流れる涙だけ残してあとは芝生に硬直している。
「あんたがあいつらにいろいろされてんの、前に見たことあるよ。死にたいんだろ。だから周りに言えよ。俺はちゃんとお前を殺してやるさ」
遥はすらりと立ちあがって、僕を見た。僕は遥の言葉の真意が読めなかった。冷めた本気か、狡猾な威しか。僕の硬化した威嚇の目に、遥はいつもの無表情の影もなく嗤笑する。
「こいつを殴るのに加わらなかったら、俺が殴られてたと思うぜ」
「………、」
「やられたくなかったらやるしかないんだ。俺は両親にそう教わったんだよ」
はっと遥を見つめた。流れた緑の風に沿って身をひるがえした遥は、中庭を横切って渡り廊下に消えていく。
両親にそう教わった。軽率にあつかえない、きつく重い言葉に、僕は目に痛いほど鮮やかな芝生にうなだれる。
のしかかられたように、胸が暗く、動かなかった。結局、遥は何だったのか。子供の頃のせいだったのか、やはり僕のせいだったのか。遥は解釈をあやふやにさせて、行ってしまった。
遥をどう思えばいいかも定められずにいると、傷ついた彼のうめき声がして顔をあげる。
「大丈夫?」
駆け寄って隣にかがむと、体操服をどろどろにする彼は、びくんと身を硬くした。僕は彼と顔を合わせられなかった。直視できる顔ではない以上に、僕のせいかもしれないのがやましかった。
「保健室行こう」と足跡のついた肩に触れると、彼は泥のついた手で、僕の手をはらって首を振った。
「何で。傷ひどいよ」
「先生に何て言うんだよ」
彼の声は、涙にしゃがれていた。僕は一瞬黙り、「言っちゃえば」とつい無責任な助言をする。
「嫌だ。言えばもっとされるし」
「親は?」
「イジメられてるなんて知られたくないよ」
「でも、もう顔とか──」
「あんたには関係ないじゃないかっ。言いたくないんだ。保健室も行かない」
泥を服になすった手で、顔の涙や血、唾を雑にぬぐった彼は、芝生に手をついて起き上がり、芝生で切った傷があちこちにある脚をよろめかせて立ちあがった。見上げると、髪や背中も土に汚れている。
彼は腫れたまぶたに隠れる目で僕を一瞥し、「ありがとう」とぞんざいに残すと、足を引きずりながら、第二棟の中に行ってしまった。
彼を見送った僕は、立ち上がれず、ぺたりと芝生に座りこんだ。蜂が唸って飛びまわり、バッタが跳ねているのすら瑣末に思える疲れが、ずんと襲ってくる。
背中にぼんやり、笛の音が響いた。どうせ、いまさら校庭には行けない。彼が言いたくないのなら、イジメを助けてましたなんて、言い訳も立たない。もういいや、と無意識に鉢巻を握りしめていた手を緩め、ついで軆全体を緩ませた僕は、だるく地にめりこんだ。
ぐにゃりと首を天を仰がせ、太陽の光に睫毛を痛ませる。風に乗る芝生の青い香りに、花壇の土の匂いが生温かく立ちのぼっている。虚脱にへたりこんでいるせいか、柔らかい水色はいつもより高く、遠く突き抜けていた。薄雲が緩やかにちぎれるのを見つめ、僕は胸と喉を痛めそうに肺に溜めた息を空へ吐き出す。
どうしよう、と急に首をがくんと垂らす。瞳が陰りに閉ざされたのが、鏡を覗かなくても分かる。
黙っておいて、いいのだろうか。遥も、彼も、あのふたりも、事が表面化しないのを望んでいる。なのに、僕が教師なり親なりに密告して引っかきまわせば、僕はまた“お節介”を焼いたことになって遥の堕落を深める。
口をつぐんでおくのが得策だ。道徳や倫理が、そんなのはもってのほかだと言っても、これは単なるイジメでもない。おそらく、遥の過去や、僕と遥の仲が関わっている。表にさしだせば、厄介が起こるのは必至で、そうすれば、遥の毛羽立った神経はさらにとげとげしくなるだろう。
僕は弁別より臨機を選び、心苦しさを押し殺すように喉元も押し殺すと、しばし、午後の太陽と緑の風の下で茫漠としていた。
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