彼の人生なら【1】
僕が両親にあの暴力を話さないか、遥も警戒はしていたようだ。
あのときの流暢さを捨てて、無口に戻った遥は、トゲこそなくても、張りつめた眼で僕に警告していた。「言わないよ」と言ってやろうかと思っても、そんなのを言えば、むしろ怪しいかとわざとビビっておいた。
体育祭が終わった頃には、遥の警戒も緩和した。しかし、僕はあの日をひとり抱えこみ、喉の奥が引っかかるような感じを覚えていた。
体育祭の振替休日の月曜日の午前、両親の寝室にある電話の子機を部屋に連れこみ、希摘の家の電話番号を押した。
定期でなく希摘を訪問したいときは、だいたい前もって電話を入れる。こもっているので、家にいるかどうかの確認はいらなくても、こもっているので、部屋を出れるかどうかの確認はいる。いきなり押しかけるのは、そうとうさしせまったときだ。
電話に出たのはおばさんで、僕は希摘が部屋を出れるか問うてみる。さっき起きて、食事を取っていたそうだ。『ちょっと訊いてくるわね』と保留の音楽が流れ、希摘なら聞いてもらって問題ないよな、と隣の遥の部屋を気にする。
一応、壁越しに聞こえないように、腰かけているのはベッドサイドでなくつくえの椅子だ。不意に途切れた音楽の代わりに、『もしもーし』と聞こえてきたのは希摘の声だった。
「希摘?」
『えー、かあさんの声に聞こえる?』
「いや、部屋出てこれなかった場合もあるじゃん。大丈夫だった?」
『うん。起きてたし、ゲームしかけてただけだし。ていうか、今日月曜だよな。何してんの』
「昨日、体育祭だったんだよ」
『えっ、嘘。運動会って秋じゃないのか』
「運動会じゃなくて、体育祭だよ」
『どっちでもいいじゃん。俺、言語は小学校で止まってるからね。数学も算数だしさ。かけっこで一等賞取れましたか』
「真ん中だよ。三位」
『勝った? 何組?』
「赤組。負けた。応援団長がセンス悪かったせいだと思う」
『ふうん。よく分かんなくても、大変だったんだな。お疲れ様です』
僕は微笑む。たとえ吐き出さなくても、希摘と話すだけで、遥への動揺が紛れてやわらぐ。クラスの友人たちといても、これはない感覚で、やっぱり希摘は別格なんだなと思う。
『で、何? 電話で話すの? 来るの?』
「あ、昼過ぎに行きたいんだ。いいかな」
『もちろん。何かあったの?』
「ちょっとね。また遥のことです」
『引っきりなしですねえ』
「聞きたくないなら黙っておくけど」
『吐き出したいなら聞くけど』
「……うん。じゃ、聞いて。希摘にしか言えないんだ。このままじゃ、悩んで心とか閉ざしそう」
『やばいね。来なさい。今、十時か。何時頃来る?』
「十三時くらいかな。昼ごはん食べたら行くよ」
『分かった。待ってる。あ、風呂入っとかなきゃ。んと、では』
「うん。ばいばい」
耳にあてがった受話器を外すと、外線を切る。これでよし。希摘に会えるのなら、無条件に喉のつっかえは取れるはずだ。希摘は僕より客観的に事を見てくれると思う。
僕は電話を両親の寝室に戻すと、昼食までの時間はゲームで埋めた。
遥がいて気まずい席で昼食を取ると、僕はデニムのリュックを連れて、自転車で希摘の家に出向いた。
土曜日に小雨が降って、昨日の体育祭は、晴れていても空全体に雲がかかっていた。今日はそれも去って、青空が広がっている。陽射しは肌に暖かくても、自転車で切る風は頬に涼しい。
日曜日と違い、人通りは子供より主婦っぽいおばさんが多かった。昔はもっと綺麗だったという川にかかる橋を渡り、車に気をはらって角を曲がる。到着して押したインターホンにはおばさんが応えて、降りた自転車の鍵をかけていると希摘が玄関に顔を出した。
僕は自転車を邪魔にならないよう垣根につけると、かごのリュックを取って門を抜け、待っていてくれた希摘に笑みを作った。
「ごめんね、いきなり」
「いいよ。どうせ一週間会ってなかったし」
「はは。あ、借りてたゲーム終わったんで持ってきたよ」
「マジ? 俺、悠芽に借りてるの終わってないよ」
「借しとくよ。長編だもんね」
「何か、ほかの貸そうか?」
「うん」
シャツに迷彩柄のハーフパンツの希摘は、サンダルを脱いで玄関マットに飛び乗る。水色の格子縞のシャツを羽織って、ジーンズを穿く僕は、すりぬけたドアの鍵を締めてスニーカーを脱いだ。
希摘の家の匂い以上に、希摘のシャンプーと石けんの匂いがする。「ほんとにお風呂入ったんだ」と訊くと、「というか、シャワーね」と希摘は答え、僕たちは二階に上がって希摘の部屋に入った。
いつもの希摘の部屋には、ゲームのついたテレビが音楽を流していた。聞き憶えのある旋律で、映る街には見憶えもあり、僕が貸しているRPGだと分かる。
希摘はテレビの前に、僕はベッドの上に座って、おろしたリュックのCDロムを希摘に返す。「好きなの持ってっていいよ」と希摘はテレビの脇のラックに並ぶソフトをしめし、僕は以前借りてクリアできずに返したRPGを借りた。長編を借りたほうが、希摘も僕のゲームを借りていることに気兼ねないだろう。
僕はそれをリュックにしまうとベッドに戻り、初めて到着したらしく街を探検に駆けまわる主人公を眺める。
「で?」
「ん?」
「俺にも心閉ざす?」
「あ、──いや、……遥ね」
「うん。そういや、その体育祭に遥くんは出たのか」
「お腹痛いって休んでた」
「わりとせこい休み方。俺も初期には、頭痛いって休んでたんで、人のこと言えないか」
「そうなの?」
「そうなの。胃が痛いとか、吐き気するとか、温度計に細工するとか──あとのほう偽装だけど、前のほうは精神的に実際あるときもあった」
ひとりうなずいた希摘は、道具屋に入って魔力回復のアイテムを大量に買いこむ。物語も中盤になると、薬草より魔法で体力を回復するほうが手っ取り早い。
リュックをまくらの脇にやった僕は、「昨日は親が学校に来るんで、黙ってサボれなかったのかな」と脚は床に下ろす。
「黙ってとは」
「先週来たとき、遥が授業サボりだしてるって言ったでしょ」
「あ、まだやってんの」
「悪化。体育祭の練習ってサボりやすいしね。二時間ぐらいで消えて、帰りとかも遅くなってきてる」
「どこ行ってんの?」
「分かんない。あと、こないだ煙草吸ってるとこ見ちゃって」
「そんなもん、肺癌になって死ぬだけさ」
「ん、まあそうなんだけど。遥がそういうのに手を出すのと、ただグレた奴が手を出すのは、違うと思うんだよね」
「そうか?」と希摘は今度は武器屋に入り、すごい出費で四人パーティの装備を強いものに一新している。
「遥がそういうの始めたら、意思が通用しないっていうか……良くないものに引きずりこまれてくんじゃないかな。ハマってるときの現実逃避が身についちゃって、したくなくなっても元に戻れないというか。心の傷って、そんなもんだと思わない?」
「依存するって感じ?」
「そう。あんな、切れたりするぐらいだし。遥は堕ちたときも、自分を失くさない精神力はないよ」
「ふむ。そうだね、堕ちて自分失くさないのは、レールに乗っとくより才能いるよな。アウトローには、壊れる弱さとつらぬく強さが必要。と、どこかに書いてあった。俺なんか、弱いだけでつらぬけないんで、引きこもってるわけです」
「そうなのかな」と僕はまばたき、「そうなのですよ」と希摘は外した装備を売りさばいている。
【第二十四章へ】