聖夜が明けた朝
優空が亡くなったのは、クリスマスの朝だった。
その一週間前にも危篤になったのだけれど、何とか持ち直し、病室でだけど僕や彼女の家族とイヴを祝ったところだった。本当は僕は、イヴからクリスマスになる聖夜くらい、優空と一緒に過ごしたかった。でも病院の決まりで、二十四日の二十時には「また明日ね」と別れなくてはならなかった。
何となくだけど、クリスマスさえ乗り切れば、年だって優空と越せると思っていた。入院するまで優空も暮らしていた部屋で、さっきまで咲って、ケーキやチキンだって食べていた彼女を想う。きっと大丈夫だ。何の根拠もなくそう信じて、僕は眠りについた。
だから、二十五日の夜明け前に亡くなった優空を、僕は看取ることができなかった。僕だけじゃない、優空の家族も間に合わなかった。看護師が見まわりでベッドを覗いたときには、優空はたったひとりで息を引き取っていた。
優空の姉である聖空さんから連絡をもらったのは、出勤の支度をしていた朝だった。こんなあわただしい時間帯、しかも電話着信に、嫌な予感はした。僕はスマホを手に取り、「もしもし」と心臓をこわばらせて電話に出た。時間を確認するためにつけているテレビを一瞥すると、きらきらしたクリスマスツリーが映っていた。
『真永くん』という僕の名を呼ぶ聖空さんの声は震えていた。それで分かってしまった。なのに、白々しく「何かあったんですか?」なんて僕は言う。だって、言えないじゃないか。ああ優空が亡くなったんですねとか。聖空さんは何も言葉を返さず、ただ、痛々しい嗚咽をもらした。
そうか。優空が死んだのか。そう思ってみても、現実味がなくて頭はぼんやりした。普通に優空も今頃病院で目を覚まし、朝食でも取っている気がする。朝ごはんのデザートはいつも通りバナナで。仕事を終えて病院に向かった僕にそれを愚痴って。僕はどこかで見たバナナの栄養の高さを語ったりして──
『まだ病院だから……』
聖空さんが息を引き攣らせながらやっとそう言い、僕ははっとした。
『来て、くれる……? 会ってあげてほしいの……』
その場に突っ立っていた僕は、「分かりました」とやけに冷静に答えると、聖空さんとの電話を切った。
優空が死んだ。優空が死んだ。優空が死んだ。
一方的に殴られるように頭でそう繰り返した。でも、やっぱり何だか、涙どころか感情さえ湧いてこない。哀しくないわけがないのに、空っぽなだけで心は乾いている。
何だよ。優空が死んだんだぞ。十年近くつきあってきた恋人を亡くしたんだぞ。なぜ僕は泣いていないのだろう。もっと、こう、壊れたみたいに混乱するものなんじゃないのか? 反射神経が働かないみたいに、僕の目は優空の死を受けてもからからだ。
スーツを着たまま、テレビや電気をたどるように消していって、靴を履いて部屋を出た。鍵をかける。こつこつ、という靴音がやけにこめかみに響く。優空と選んだアパートの前に出ると、凛と冷たい青空が広がっていた。
郵便受けが並ぶアパートの玄関をかえりみて、まばたきをしてみる。五年前の秋、優空とこのアパートに暮らしはじめた。実家を離れるのは、僕も優空も初めてだった。特に僕は、やっとあの家を出ることができた上、大好きな優空との同棲との始まりで、すごく嬉しかった。
荷物を運びこむ作業が終わり、ふたりで運送屋のトラックを見送った。そのあと顔を合わせて、「今日からよろしくお願いします」と頭を下げた優空に、「こちらこそ」なんて僕も頭を下げて、変に改まった挨拶にふたりで笑ってしまった。あの日の元気な優空の笑顔を想った途端、急に喉が絞めつけられた。
唇を噛み、歩き出した。ひりひりするほど喉が圧迫され、寒風に打たれる今になって涙があふれてきた。駅に近づくほど、通学通勤の人たちが周りに増えて、ぼろぼろと涙を流しながら歩く僕をぎょっとしたように見る。それでも、僕は涙を止められなかった。
優空との想い出が、すごい勢いでこみあげてくる。僕たちが一緒に作ってきた想い出。その記憶の持ち主のパートナーである優空が、いなくなってしまった。優空との出逢い。優空との時間。優空との触れあい。全部全部、喪われてしまった。積み上げてきた想い出が、がらがらと砕けて僕を下敷きにして、呼吸もまともにできないほどしゃくりあげて泣いてしまう。
何で。何で。何で。クリスマスに死ぬって、何だよ。そんな忌まわしい劇的なんかいらないよ。今日も穏やかに、何もなかったみたいに過ぎてほしかった。そして来年も、その先も一緒にいたかった。当たり前のように、ひとりで寝るのは寂しいあのセミダブルのベッドに帰ってきてほしかった。またあの華奢な軆を抱きしめて眠りたかった。
もうすべて叶わない。
優空は死んでしまった。
僕は二度と、彼女の体温に触れられない。
みぞおちをつらぬかれ、僕はついに車道沿いの道端でしゃがみこんでしまった。舌打ちしてよけていく人もいる中、「大丈夫ですか」と声をかけてくれる人もいる。僕は涙に咳きこみながらうなずいて、「すみません」とのろのろと立ち上がった。こんな状態では、電車なんか乗れそうにない。駅まで何とかたどりついた僕は、改札でなくタクシー乗り場に歩いて、開いたドアから倒れこむようにタクシーに乗りこんだ。
「だ、大丈夫ですか」
ドライバーもびっくりしたように振り返ってくる。僕は鼻をすすってうなずき、病院の名前を伝えた。ドライバーはまだ心配そうにしてきたが、僕がただ泣いているのを見取り、「了解です」とメーターのスイッチを入れて車を発進させた。
涙で滲む窓の景色を見た。空は相変わらず青く澄んでいる。あの空が優空を連れ去ってしまったのかと思うと、息苦しいほどその青が憎くなった。でも、神経が虚脱していて、憎しみは持続しなかった。
虚しい。ただ虚しい。僕は優空を喪ってしまった。
優空の入院していた病院に到着すると、僕は泣き顔を取り繕って、病室に向かった。しかし、すでにそこに優空のすがたはなかった。通りかかった看護師に優空の名前を言うと、その人はよく見舞いに来ていた僕を憶えていて、「優空さんのご家族もいらっしゃるので」と僕を霊安室に連れていった。
その廊下には優空のおとうさんとおかあさん、そして聖空さんもいて、崩れ落ちたように泣いていた。「大村さん」と看護師が声をかけると、聖空さんがこちらを見て「真永くん……」と僕の名前をつぶやいた。おとうさんとおかあさんも僕に気づく。「……悪いね、仕事もあったのに」とおとうさんに言われ、僕は自分がスーツのままやってきたことを思い出した。「優空は……」と僕がかすれた声で言うと、「こっちにいるよ」と聖空さんが霊安室のドアを開け、僕の肩をそっと押した。
ベッド以外何もない部屋で、優空は白い布をかけられ、仰向けに横たわっていた。顔にも布がかかっていて、僕は聖空さんを見た。こくんとされて、そっと顔の布だけ取ってみる。すると、予想以上に安らかで、綺麗な寝顔のような優空の顔があった。
いや、ここ数年、優空は癌の治療をしていたから、髪も少なくて頬もこけて、見る人が違えば明らかに死人の顔なのかもしれない。でも、僕はそのすがたで優空が昨日まで咲っていたのを知っている。
「何で……こんな、声かけたら起きてくれそうなのに」
聖空さんが声を涙で震わせながら言う。
「死んじゃってるなんて、信じられない……」
僕は優空の死に顔を見つめた。優空、とつぶやきそうになったものの、返事がないと耐えられないから、名前も呼べない。でも、本当に、呼んだら目を開いて答えてくれそうだ。それくらい、ただ眠っているだけみたいだ。
本当に死んでいるのか? 昨日、ちょっとイヴではしゃいだから疲れて寝入っているだけではないのか? 僕が思い切って名前を呼んだら、その途端、瞳を開けて悪戯っぽく咲うんじゃないのか?
「優空、真永くん来てくれたよ」
聖空さんがそう言って、優空の細い髪を撫でた。でも優空は目覚めないし、まして「やめてよ、おねえちゃん」とか言って苦笑もしない。ぴくりともしない優空に、さっきの喉をつぶして絞めあげられるような感覚が戻ってくる。
優空は死んだ。死んでしまったんだ。もう僕は、優空との時間を過ごせないんだ。
涙が頬を伝っていく。目の前で優空は死んでいる。なのに、どうしても受け止められなくて、僕は声をもらして泣いてしまう。優空が死んだなんて嘘だ。僕を置いていくなんて嘘だ。これから、僕の隣に彼女がいないなんて──
「少し……ふたりになる?」
聖空さんが気遣ってくれて、僕はうなずいた。「分かった」と聖空さんは霊安室を出ていって、静まり返ったそこには僕の嗚咽ばかりが響き渡る。優空は応えてくれない。僕が泣いているのに、目も開けてくれない。いつも、僕が悪い夢でおののいているようなときは、目を覚まして温かく肩を抱いてくれたのに。
たとえ何も返ってこなくても、優空に何か言葉をかけたかった。でも、何を言えばいいのか分からない。ただ優空の顔を見つめ、涙をあふれさせてしまう。哀しいとか。苦しいとか。そういう名前もつかない、何とも言えない感情が僕を圧倒する。痛い。そう、ただ痛い。それがぎゅうっと首を絞めつけて、言葉どころか声も出ない。
結局、僕は優空にひと言もかけてあげられず、涙を止められないまま霊安室を出た。優空の家族は、僕の涙にいっそう涙を見せて、「あの子と出逢ってくれてありがとうね」とおかあさんは言ってくれた。僕は濡れた睫毛を伏せて、僕こそ優空と出逢わせてくれてありがとうございますと言おうとしたのに、どうしても声が痙攣してろれつがまわらない。それでも、僕の言いたいことは分かってくれたようで、おとうさんが僕の頭を撫でてくれた。
霊安室の前の長椅子に座って、僕は首を垂らしてずっと泣いていた。そのあいだに、優空の家族は早くも死亡した諸手続きに追われはじめた。それをぼうっと眺め、何で優空は今朝死んだばかりなのに、僕と同じぐらい心が傷ついている家族に、さっそくあれこれさせるんだろうと思った。
そんなことを思っていた僕も、そういえば無断欠勤をしていることに気づき、謝らなきゃ、とのろのろと立ち上がって、病院をいったん出ると上司に電話をかけた。
『あ、やっと出たかっ。お前、今やって──』
すでに僕のスマホに何度か着信をつけていた上司は、開口で怒鳴ってきたが、優空が今朝亡くなったことを伝えるととっさに口をつぐんだ。病気をする前は、優空は僕と同じ会社に勤めていたから、もちろん上司も優空のことを知っている。上司は自分を落ち着けるように息をついてから、『大村のそばにいてやれ』と言ってくれた。その理解にお礼の言葉が涙声になると、『俺に向かって泣かなくていいから、ちゃんと大村を見届けるんだぞ』と言われた。僕は何とか「はい」と答えると、電話を切って、優空の元に向かい、もう一度霊安室に入った。
「……今日、は」
白い布を顔にかけたままの優空に、僕は息遣いがたどたどしくも声をかける。
「クリスマス、……だから、天国に行ってるよな」
自分で言っておきながら、その言葉につらくなる。本当に、クリスマスなんて。こんな日が、クリスマスなんて。おかげで僕は、この日をはっきり、鮮明に覚えてしまった。
クリスマスだから天国に行けるかとか、それはよく分からなかったけど、聖なる日なのは確かだから、やっぱり優空は天国に行ける気がした。何年も病気に苦しめられ、三度目の手術を行ったばかりだった。せめて、天国に行ってほしかった。
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