ミメシスの夜-3

「ゲイの方ですか」
「らしいわね。柳さんっていうお名前よ」
「つか、ここネットで評判になってるんだ」
「このあたりで、ミックスバーがうちだけなんだと思うわ。ゲイバー、ビアンバーはあったはずよ」
「ゲイバーに行かないんですかね」
「あんたもビアンバー行ってないじゃない」
「……ここ、落ち着くからなー」
 カンナさんは微笑むと、あたしにファジーネーブルをさしだし、七音のスクリュードライバーを作りはじめた。七音はあれこれと柳さんに質問を飛ばし、柳さんはつっかえながら答えている。
 父親に接する感覚なんだろうなあ、とジュースのように甘い香りを飲みこみ、しばらく店内にはその四人だった。透羽来ないなあ、とケータイを開いていると、ふと扉がひらいて「こんばんは」と穏やかな声が聞こえた。
「伊緒」
 あたしに呼ばれて、伊緒は風にやられたらしく乱れたメッシュに指をさしこみながら、こちらを見た。
「未桜。来てたんだ」
「ん。ひとり酒」
「透羽は?」
「仕事かなー、メル返来ない」
 むくれるあたしにくすりとしたあと、「伊緒、伊緒」と七音に手を振られて伊緒はそちらを振り向く。
「七音。メールしたんだけど」
「え、マジ? 盛り上がってたー」
「マサルから電話来て」
「サルから? 何?」
「七音が今つきあってる人が──」
「別れた」
「って言われて謝りたいって探してるらしいけど」
「無理。もう無理。あいつ無理」
 むすっとした眉間で連射した七音に、伊緒はあたしの隣に腰をおろしながら息をつく。
「……何かあったの?」
 七音は柳さんの腕を引っ張り、「柳さんもそう思うよねっ」と強引に同意を求める。
「あんなんとやり直すとか論外だよね」
「え、あ……いや、僕が意見していいのかな」
「していいよっ。ありえないでしょ」
「う、ん。まあ、確かに……そう、かもね」
「ほらあっ」
「えーと、その人は」
「柳さん」
 あたしはカクテルを飲みながら、「紹介になってないし」とつぶやく。「お客さんよ」とカンナさんに言われた伊緒は、初対面でも誰にでも馴れ馴れしい七音をよく知っているから、それ以上は突っ込まなかった。
 ボアのついたジージャンを脱ぐ伊緒に、「急に寒くなったよね」とあたしはアーモンドをつまむ。
「バイト先ですでに風邪が流行ってるよ」
「今年もインフル来るのかな。はあ、マスクが店からなくなる前に買わなきゃ」
「ああ、去年の売り切れすごかったよね」
「みんな完全防備してんのに、やっぱりかかる人はかかるんだよね。まあ、ラッシュでうつらないわけないもんなー」
 伊緒はちょっと咲って、「紫衣さんはマスクしてた?」と首をかたむける。あたしは肩をすくめ、「してた」と頬杖をついた。
「顔が半分見えないからへこんでた」
「今日は逢えた?」
「逢えたっつーか、まあ、見た」
「声かければいいのに」
「………、紫衣さんって、マジでいくつなのかな」
「さあ」
「学生なのは確かなんだよね。参考書読んでるし。二年前から見かけて、二十歳くらいで。短大だったら、春からいなくなるのかな」
「それでも、声かけないんだ?」
 あたしはテーブルに伏せって睫毛を伏せ、紫衣さんの綺麗な横顔を思い返した。
 整った眉、大きな瞳、ちょっと厚い唇。いつも本を読んでいるから、睫毛は伏せがちになって長く見える。
 できることなら、その顎をつかんで瞳に微笑を注入して、心地よい麻酔をかけて唇を交わしたい。
「……嫌でしょ、そんなの」
「え」
「その気がある同性なんて」
 あたしの重い口調に、伊緒は軽々しいなぐさめは言わず、「むずかしいね」とカンナさんに渡されたカクテルをかたむけた。背後では七音が柳さん相手に楽しそうに笑っている。あいつくらいアホになりたい、と思っていた頃、やっと透羽がやってきてメンツが揃う。
 夜が更けてくると、さらに数人お客さんが来て、カンナさんがうまくつないで他人のまま談笑した。零時が近づいて、防寒を整えたあたしは、〈トワイライト〉を出て、今夜は透羽と伊緒で駅へと歩く。息がうっすら白い。
 ちなみに、七音は柳さんと出るらしい。あいつファザコンだっけとか何とか話しながら暗い道を抜け、明るい駅前に出ると、あたしたちはばらばらの路線で帰路についた。
 それから、七音と柳さんは急速に距離を縮めて、思わずあたしたちは顔を見合わせてとまどってしまった。
「あれはどうなんだよ」
「分かんないよ」
「馴れ馴れしいの域を越えてるぜ」
「いや、対象かはまだ」
「対象としてありなのか?」
「知らない」
「めずらしい友達の感覚か」
「そのほうが自然かな」
 カウンターでこそこそ話しながら、あたしと透羽は背後のボックス席を盗み見た。そこでは、やはり七音と柳さんがすっかり打ち解けて話しこんでいる。
 ここ最近、毎日かもしれない。柳さんはまだぎこちなさがあるとはいえ、七音は完全に柳さん相手にはしゃぐのを楽しんでいる。
 まさか、恋なのだろうか。でも、七音があんな年上を相手にするなんて、見たことも聞いたこともない。これまでの上限は、せめて二十代後半だ。
 聞こえてくる会話によると、柳さんは四十にもなるらしい。いや、別に中年に恋をするなとは言わないけど。あんたは本当に伊緒を何だと思ってるの、と感じてしまうではないか。
「いいの? あれ」
 先日こそっと伊緒に聞くと、伊緒はいつもの仕方なさそうな笑みを見せた。
「七音は、話の合う人と過ごすのが好きだしね」
 それでも、伊緒の目は不安そうだった。
 伊緒も、普段との違いを感じ取っているのだ。何というか、七音は柳さんといちゃいちゃしているわけではない。いつも恋人とはいちゃいちゃするくせに。ただ、柳さんといるのが嬉しそうなのだ。
 そんな七音だ。気を持たせても仕方ない。柳さんは七音には心を許してはじめていて、自分の話を打ち明けたりしている。
 七音の歳の頃に自覚して、でも、認められなくて。あえてそういう場所も情報も、避けて生きてきたこと。詳しいことは声を抑えられるから聞き取れないけど、聞き取れないということは、そのぶんふたりは顔を近づけて話していて──
 また七音のはしゃぐ声が収まったと思ったら、柳さんの話に七音は相槌の声を低くしている。
 あたしはかぶりを振り、ついに透羽が小声で答えを出した。
「あれ、気があるな。お互い」
「伊緒。伊緒が不憫すぎる」
「お前、年の差をどうこう言えねえだろ」
「年の差というか、いや、あんなぽっと出の人に。伊緒はさー」
「それはもう、告らねえあいつが悪い」
「告るってそんな大事なの?」
「伝わるもんも伝わらねえよ、実際」
 あたしはうめいて、テーブルに伏せる。そのとき透羽のケータイが鳴った。その着信音は月那ちゃんだと知っているから、邪魔できなくなる。
 透羽はメールを作文しはじめ、あたしは背後をちらりとする。ぼそぼそと何か語る柳さんに、七音は真剣な表情をしている。そして、たまにこくこくとうなずいたり、「そうだよねえ」と納得したりしている。七音に肯定されると、柳さんもほっとした様子で微笑んでいる。
 それは、恋以上の絆も感じさせて、伊緒すら追い越すのではないかとあたしはもどかしくなった。
 その次の日、あたしはめずらしく定時で仕事が終わって、いそがしくて買いにいけなかった、冬物の服を買いに出た。あっという間に、クリスマスまであと五日だった。
 赤と緑の彩りとクリスマスソングの中で、どいつもこいつも男女でいちゃついている。どうせあたしは女子大生に片想いするおばさんですよ、と曇った寒空に舌打ちしたくなる。
 紫の服があると、紫衣さんを思い出した。似合いそうだなあ、プレゼントしたいなあ、と思っても、きっと叶わない。年末年始は紫衣さんを見れないのか、とがっくりしながら、二十時ちょっと前に〈トワイライト〉に来た。
 まだ照明も落とされていなくて、ジャズもかかっていなかった。ドアは開いていたのに、カンナさんもいない。何で、と狭い店内を見まわし、ちょっと口元がこわばった。
 いつものボックス席の隅に、柳さんがいた。七音はいない。「こんばんは」と言われて、あたしは少し突慳貪に「どうも」と短く答えてマフラーをほどく。やや臆した空気が伝わってきて、大人げなかったかと、あたしは今度は自分から話す。
「カンナさんは」
「あ、ああ。おつまみを買いにいきましたよ。そのあいだ、留守番をしてくれと」
「いつもこんな早い時間に来てるんですか」
 柳さんは気弱そうな笑みを浮かべて、小さな声で言った。
「左遷、されましてね。残業も何もなくなったんです」
 あたしは柳さんのちょっとくたびれた印象を一瞥して、悪いけど分かる気もした。というか、リストラされてもおかしくないほど、切れ味を感じない。
「でも、毎日ここに飲みに来れるお給料なんですね」
 そんなことを言ってしまうと、柳さんはやっぱり申し訳なさそうに答えた。
「いやあ……実は、ほとんど烏龍茶なんですよ。もともとお酒に強くなくて」
 マジか。烏龍茶でこんな店に来てんのか。あたしならちょっと恥ずかしい──
 いや、あたしは、だ。ちょっと割安でも、烏龍茶にも一応チャージ料はかかる。しかし烏龍茶の客をよく通わせるな、と思っても、カンナさんなら分かる気もする。それでも、高校生の七音でも飲んでいるのに。
「今日は、七音は来てないんですか」
「あとで来るそうですよ」
「……何で知ってんですか」
「え、あ、電話があって」
 ぎょっと柳さんを見た。電話。電話って。せめてメールではないのか。
 あたしのそんな驚きが見取れたのか、柳さんが慌ててつけくわえた。
「いや、最近のメールは僕がよく分からないから。七音くんが合わせてくれてるんですよ」
 メールが分からないって。四十にもなるとそうなのか。
「七音と仲いいですよね」
「愚痴を聞いてもらってるだけですよ」
「でも、七音は柳さんといると楽しそう」
「そんなことは」
「柳さんには、七音はホスト感覚?」
「いやっ、そんなふうには思ってませんが」
「じゃあ、何なんですか」
「え……」
「七音が好きなんですか?」
 柳さんはぽかんと目を開いた。そして、見る見る顔を染めて、おどおどと視線を彷徨わせる。
「そ、そんな……」
 それでも、きっぱり否定しない。
 どうして。否定してよ。何で否定しないの。七音は、七音には──さらり、と脳裏にあのメッシュがよぎった。
 そして、それを感じ取ったのかは分からないけれど、柳さんは顔を上げて咲った。泣きそうな笑顔だった。
「七音くんには、きちんとボーイフレンドがいるじゃないですか」
「えっ」
「あの……髪に色を入れた、端麗な」
 軽く目を開いたあと、うつむいた。気づいていたのか。殊勝だなんて思わない。むしろ、気づいていたのに、それでも七音を隣に置いていたなんて──
 何か言おうとしたときだった。おかしなことを言いそうだった。ドアを開けたのは、ロングコートの透羽だった。
 あたしに挨拶しかけたものの、すぐにいつもと違う空気を敏感に感じ取った。眉を寄せて、あたしと柳さんを認める。そして、すぐに透羽は、あたしの腕を引っ張って柳さんに頭を下げた。
「すみません、こいつ、失礼なこと言ってたんでしょう」
「えっ、いや、ぜんぜん──」
「こいつもね、もやもや溜まってんですよ。自分の恋がうまくいかなくて」
「ちょ、透羽っ」
 透羽は切れ長の横目であたしを睨んだ。
「お前な、自分には重ねんな」
「えっ──」
「あいつは告れないんじゃない。告らないんだろ。友達として」
 あたしは透羽を見つめた。告れない。告らない。そう、なのかもしれないけど──
 カンナさんがスーパーのふくろと帰ってきて、あたしは透羽にスツールに座らせられる。仏頂面でファジーネーブルをあおっていると、まもなく七音がやってきた。
 不機嫌なあたしを「何ー?」と覗きこんできたけど、「今日は紫衣さん見れなかったんだと」と透羽が適当な嘘でごまかしてくれる。「単純すぎ」と七音はけらけらしたあと、「あ、柳さん、俺今日ねー」とやっぱりボックス席に行ってしまった。
「ほんとに彼女のこと?」とカウンターのカンナさんが青いアイシャドウの目を細め、「そういうことにしてやってください」と透羽は肩をすくめた。
 七音は柳さんに楽しそうに話しかけている。確かにあたしは、紫衣さんにそんなふうに話ができない。そして、伊緒もそうと思ったけれど、伊緒はあたしとは違うのか。
 伊緒は告らない。あたしは告れない。
 確かにあたしは、臆病に過ぎない自分が、悔しいだけなのかもしれない。

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