ミメシスの夜-4

 クリスマスや大晦日、いろいろイベントがあるけど、そこで女あさりをすることもなく、あたしは地味にお正月を迎えた。
 しかし、実家だから、帰省したすでに結婚した姉と弟の子供に、お年玉を取られることになる。「なぜ」と歯噛みしても、しきたりだから仕方ない。紫衣さんを見ることもできなくて、ただでさえへこんでいるのに、親からは「結婚」という言葉を死ぬほど突き刺される。
 四日から〈トワイライト〉が店を開けると、逃げるように逃亡し、やっと落ち着いて年明けを祝えた。そしてすぐに正月休みは終わり、やっぱりマスクだらけの満員電車にいる紫衣さんを見つけてちょっとほっとして、夜には〈トワイライト〉に向かった。
「あー、もう正月なんて疲れるだけだわ。休みじゃないわ、あれ」
 ホットのカルアミルクをひと口飲むと、あたしはため息をついて、透羽はジントニックのグラスを置く。
「ひとり暮らしすればいいじゃねえか」
「家事が末期でもできるの?」
「何とかなるだろ」
「かわいい女の子が部屋にいて、家事やってくれたらなあ。養うのになあ」
「紫衣さんはいいのかよ」
「紫衣さんのことだよ。ああっ、紫衣さんと結婚したいよ。親が結婚結婚うるさいっ」
「俺はもう、仕事がいそがしいとかで帰らねえから楽だぜ」
「透羽ひとり暮らしだっけ」
「ああ。カムすんのかなあ。向こう、衝撃受ける年代だしなあ」
「あたし、絶対しない」
「まあ、手術する気になったらカムは避けられねえな」
「音信不通になればいいじゃない」
「俺は親がそんなに嫌いじゃねえんだよ」
「あたしは紫衣さんが彼女になるなら、親とかどうでもいいや」
 透羽は肩をすくめて、ジントニックに口をつける。あたしは頬杖をつき、何となくお酒を飲むだけで沈黙になる。
 去年なら、背後が七音の声で騒がしかったけど、よく考えたらあの子は高校三年生で進路ですごいことになっているのだ。それでも、夜遅くなったら、やっぱり数時間息抜きにやってくる。だから、柳さんはきちんといつもの席で、その息抜きにつきあうためにやってきている。
 七音は柳さんに本気で懐いてきているから、最近、伊緒を見かけるのが減っていて心配だ。インフルエンザで穴が多くて、バイトがいそがしいとは言っているけれど。
 その日は数日振りに伊緒が来て、あたしと透羽は、彼を挟んで飲み直しを始めた。七音はまだ来ていなかったから、二十二時過ぎにドアが開いたとき、やっと来た七音かと思った。顔を上げた柳さんもそう思ったみたいで──
 でも、現れたのは見たことのない男の子だった。
「あら、来るの久しぶりね」
 カンナさんがそう言って、ぺこりとしたから一見ではないらしい。伊緒とも知り合いみたいだったが、伊緒への彼の白々しい態度で、ああ、とすぐ悟れた。
 この子、伊緒に妬いてる。ということは、七音目当てか。
 伊緒もそれは分かっているみたいで、うまくかわしていたけど、その子が柳さんをちらっとして嫌な予感がした。
「なあ、伊緒。あの人?」
「……まあね」
「ふうん。意外だな。せめて、もっと……」
「いい人だよ」と伊緒はケータイを取り出す。
「それ、褒めてんかよ」
 さすがの伊緒も関わりたくなくなったらしい。肩をすくめただけでケータイをいじりはじめた。あたしもその子に取り合いたいとは思わなかったし、透羽も同じだった。
 でも、それが切っかけになって、その子は「こんばんは」と柳さんに声をかけた。
「あ、ああ。こんばんは」
「今、一番、七音と仲がいいおじさんなんですよねー」
「え、いや、そんなことは」
「まあ、七音は誰でもいいって感じの奴ですしねー」
「そ……それは違うかと」
「えー、そうかなあ。俺はそう思いますよ」
 男の子は柳さんの隣に腰かけ、にっこりした。こいつ何か分かってないな、と思っていたら、次の言葉が目的だったようだ。
「だって、あんたみたいなおっさんとさえ遊ぶんでしょ?」
 あたしは、さすがに振り返った。けれど、ケータイを置いた伊緒に、「あいつはいつもだから」とささやかれてしぶしぶカウンターに向き直る。
 カンナさんがめずらしく思わしくない思持ちをしていたから、それで片はつきそうだ。カンナさんは、品の悪い客に切れたら親父みたいになる。口数が減ってくる柳さんにその子が絡んで、ついにカンナさんが口を開きかけたときだった。
「ストーカーうぜえっ」
 ばたんっとドアが乱暴に開き、七音がそう叫びながら飛びこんできた。いっせいに視線を集めても気にせず、とりあえず伊緒の元に来る。
「メールサンキュ」
 伊緒は微笑んで七音の肩を押す。伊緒が七音にメールで知らせた──のか。
 七音はボックス席につかつか歩み寄ると、目を開く柳さんと仏頂面になる男の子を見下ろした。七音はかなり大きな舌打ちをすると、男の子の胸ぐらをつかんだ。
「終わった!」
 七音の第一声は、いつも唐突で意味が分からない。思わず透羽と目を交わしていると、七音は続けた。
「そんなことも分かんないのか、記憶障害か、俺とお前が終わったことが何で分かんないんだよっ」
「浮気したほうに言われたくねえなー」
「お前がそんなだからほかに行っただけだよ、お前の性悪とか束縛とかはねちっこくてうぜえのっ。嫌になるんだよっ」
「ひどいなあ。ねえ、おじさん。七音ってこういう奴なんだよ。どうせあんたも、すぐ浮気されるんだよ」
「しねえよっ。とっとと消えろ、俺は進路でいらついてんだ、ぶん殴ってもいいぞ」
「あー、はいはい。でも、俺はあきらめないからねー」
「だからって、俺とか俺の周りに近づくなっ。失せろっ」
 男の子は首をすくめ、飄々と立ち上がると、平然とした様子で〈トワイライト〉を出ていった。あんな無神経いるのか、とあたしは蒼ざめていたけど、「柳さん」と急に声を落ち着けた七音に、また背後を見る。
 柳さんは隣に座った七音を見て、やっぱり申し訳なさそうに笑った。
「七音くんは、モテるんだなあ」
「……あんなのうざいよ」
「なかなか穿ったことを言われたよ」
「は? あいつは俺のことなんて何にも分かってないよ」
「いや、僕のことだ」
「え」
「君の周りに、こんなおじさんがいちゃいけないねえ」
「………、」
「ちょっと、自分の年齢を忘れていたみたいだ。そういえば、七音くんは進路で悩むほど若いんだもんなあ。もう将来もない僕と過ごすのは──」
「柳さん」
「僕は、もう終わった男だから……」
「柳さんっ」
 七音は柳さんの腕をつかみ、怒ったようにも見えるほど真剣な顔で言った。
「俺、柳さんが好きだ」
 柳さんは目を開いた。伊緒はうつむいた。透羽は肩をすくめた。カンナさんはにやりとした。あたしはカウンターに伏せった。七音は、もう一度繰り返した。
「俺は、柳さんが好きだよ」
「七音くん……」
「柳さんといると楽しいもん。俺だけかもしれないけどさ。いろいろ話してくれるし。話させてくれるし。俺とやりたいだけの奴と違う」
「七音くん、しかし」
「好きなんだよっ。俺とつきあって。終わってないよ、柳さんは。一緒にいたいんだ」
「……しかし、七音くんには彼のほうが」
「え? さっきの奴? あんなのっ……」
「違うよ、彼だ」
 あたしは、がばっと身を起こした。柳さんが目を向けて、七音がたどったその視線の先には、はっとしている伊緒がいた。
 あたしは伊緒を見つめる。伊緒は狼狽えて七音と柳さんを見つめ、ただかすかに頬を紅潮させる。
 でも、店は薄暗いし、七音にその紅潮は見取れなかったみたいだ。ただきょとんとして、「え?」と噴き出した。
「何言ってんの、柳さん。伊緒は友達だよ。仲はいいけど、そんなんありえないよ」
 当然のような七音の言葉に、伊緒の瞳にはかすかに切り傷が走った。
 ありえない。ありえない、は──
「……言い過ぎだよ、七音」
「未桜」
 透羽の声を振り切って、あたしはもっとはっきり言った。
「ありえないなんて、そんなのひどいよっ。伊緒はっ──」
「やめろ、未桜!」
 透羽の強い声に、あたしの言葉の続きはかき消された。七音はぽかんとしていて、柳さんは心苦しそうにうなだれている。
 伊緒はかたくなに顔を伏せていて、「伊緒」とあたしに呼ばれても応えない。もっと何か言いそうになったあたしは、立ち上がった透羽にぐいっと腕を引かれた。
「透羽、」
「ちょっと、こいつ外に」
「絞りなさい」
 カンナさんにそう言われた透羽は笑って、あたしはまだ燻っているのに、透羽に寒い外に引っ張り出された。透羽はあたしの腕を振りほどいたけど、すぐにその手で頭をはたいてきた。
 あたしは頭を抑え、上着も着ていないから寒くて震え、何だか心も冷めてくる。どんどん目線を落とすあたしに、透羽は真っ白なため息をついた。
「お前な、だったら紫衣さんに告れよ」
「……それは、関係ないよ」
「ある。気持ち黙ってるから、伊緒に間違った同情してんだよ」
「間違った?」
「伊緒はお前とは違う。七音が大切なんだよ」
「………、」
「お前はビビってるだけだ」
「そんな、」
「だから、もう紫衣さんに告れ。すっきりしろ」
「……無理だよ」
「でも、はっきりさせない限り、」
「無理! あたしなんか気持ち悪いもん、どうせ迷惑に決まってるっ」
「伊緒はそんな理由で気持ちを黙ってるのか?」
「っ……」
「違うよな。七音が“友達”だからだ。哀しいけどな。あいつらはあくまで“友達”なんだ」
「そんなの……」
「お前は臆病なだけだ」
 あたしは唇を噛み、返す言葉がなくなって、肩を落とした。透羽はあたしの頭を、今度はぽんぽんとした。
「分かるけどさ、臆病になるのも。まだ、そんなに理解は浸透してねえし。俺だって、どんだけのあいだ、月那を騙してたか」
「……紫衣さんもビアンなんて、そんなのは奇跡だよ」
「まあな。まあ、告れは俺も極端すぎた。ごめん」
「紫衣さんに嫌われたくない」
「分かってるよ」
「嫌悪も軽蔑も拒否も、されたくないの。終わりたくないから、始めたくないの。打ち明けたら、紫衣さんは別の車両に乗るようになっちゃうの」
 泣きそうなあたしの肩を、透羽は抱き寄せて「分かってる」と言った。
 あたしは目をつぶり、何でこいつに胸があるんだっけと思った。あたしは透羽を男としてしか見ていない。肩が丸いのも、腕が柔らかいのも、変な感じだ。透羽にとっては、この“変な感じ”は絶望的に重い違和感なのだろう。
 あたしは震えて鼻をすすり、「寒い」とつぶやいた。「戻れるか」と透羽に問われて、うなずいた。透羽はあたしと軆を離し、冷たくなった手であたしの背中を押した。
〈トワイライト〉に入ると、視線が集まって、あたしはうつむきながらだったけど「ごめん」と言った。「未桜」と七音が駆け寄ってきて、あたしは気まずいながらも、そのくるくるの目と目を合わせた。
「俺──」
「……忘れて」
「………、伊緒にも言われた」
「……うん」
「俺が柳さん好きなの、反対?」
「……ばればれなことに、反対しても──」
「無理だ」
 あたしの言葉をさえぎるように、重い声が割って入った。あたしも、七音も、みんな驚いてそちらを見た。
 そんな強い声を出すのは、初めて聞いた。声の主は、柳さんだった。
「僕は、無理だ」
「えっ……」
 声を震わせたのは七音で、あたしも信じられなくてまじろぐ。
「僕は、七音くんを幸せにできない」
「し、幸せってっ……」
「傷つけるだけだ」
「どうして、別に、俺は今まで通り──」
 柳さんは席を立ち、お代をテーブルに置くと、顔を伏せてこちらに向かってきた。
 まさか、このまま七音を振るのか。相手にしていなかったのか。親子みたいに思っていたのは、七音のほうではなく──

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