ミメシスの夜-5

 七音は狼狽えていて、あたしはぽかんとしていて、透羽は言葉を失っていたけど、ひとり冷静だったのは伊緒だった。見たことがない厳しい表情で、すりぬけようとした柳さんの腕を強くつかむ。
「あんたっ……」
 柳さんは、いつものあの申し訳なさそうな笑みを伊緒に向けた。
「分かってる、分かってるよ。こんなのひどいね。でも──」
「七音に言え」
 伊緒のきつい口調に、柳さんは口をつぐんだ。七音の目からは、ぽろぽろと雫があふれて、泣くほど本気だったのかとあたしは息を詰める。七音の涙を見た柳さんは、うなだれて笑った。
「やっぱり、傷つけてるね」
 言われて慌てて七音は涙を拭いたけど、止まらないみたいで幼くうめいた。
「今の台詞はずるいぜ」
 透羽も厳しい口調で切りこみ、「そうだね」と柳さんは無気力に否定しない。あたしは七音と柳さんを見較べ、焦れったく舌打ちした。
「何? わけ分かんないんだけど。柳さんは七音のこと遊びだったの?」
「遊びってわけじゃ、」
「遊びじゃん! 話相手でも、じゅうぶん七音の気持ちを利用してたってことじゃん。そんなの、」
「……いいよ、未桜」
「七音」
「俺がどっかで、うぬぼれてた。若い男だから、……きっと、喜んでもらえるって」
「七音くん、僕はね」
「ごめん、柳さん。俺、最低だ。軽蔑されるよね。だって、俺も柳さんをおっさんと思ってナメてたのかも。好き、なんて、大人の柳さんには迷惑──」
「迷惑なわけないだろう!」
 再び、店内は静まり返った。何、とあたしは柳さんを見つめた。このおっさん、何が言いたいの? 七音をどうしたいの?
 すでに、伊緒と透羽の目は険しい。でも、その視線に負けずに柳さんは静かに七音の元に歩み寄ると、優しく……本当に、そうっと七音を抱き寄せた。
「柳さ──」
「結婚、してるんだ」
「……えっ?」
「妻もね、子供もね、いるんだよ」
 七音がどんな表情をしたかは、柳さんの腕の中にいて分からなかった。伊緒と透羽は、目を見開いている。
 あたしは、毒を刺されたような、言い知れない麻痺を感じた。麻痺しないと、あたしはその痛みを知っていた。いや、予想がついた。こんな片想いをしていたら、考えるに決まっている。
 ああ、紫衣さん、彼氏いるのかなあ──
「左遷される前はこんな時間まで働いて、家庭を顧みなかった。顧みたくなかった、仕事を言い訳にして普通の家庭を逃げてきた。でも、その仕事もなくなった。家にはいたくない。だから、思い切ってこういう界隈に来てね。妻たちは左遷されたことも知らないよ……でも、そろそろ打ち明けなきゃいけない」
 柳さんはゆっくり七音の軆を離した。くたびれたネクタイはびしょびしょだった。
「そして、今からでも家庭を顧みて、妻や子供たちを幸せにしないと」
「っ……」
「僕が幸せにするのは、七音くんじゃないんだよ」
「そんな……そんなのっ。柳さんは? そんなの、柳さんは幸せなの!?」
「それは……」
「柳さんが幸せなら俺はあきらめる、でもノンケの皮被ってまた苦しむなら許さない! 柳さん、苦しんできたんじゃんっ。学生の頃から、ひとりぼっちだって……何でそんなので苦しむんだよ、どうして偽物の自分作って苦しむんだよ!」
 偽物の自分。それは、ここにいる人間みんなに重く響いた。
 七音は構わず泣きじゃくっている。
 あたしも。透羽も。伊緒も。きっとカンナさんも。ここでしか本物の自分をさらせない。夜にしか素直になれない。光の下にいるときは、みんなばれないように擬態している。
 七音のほうが、〈トワイライト〉を駆け出していった。柳さんは哀しそうにつらそうにうつむき、胸元の水分に触れた。カンナさんの大きなため息がやっと沈黙を破って、「柳さん」と穏やかな声でカンナさんは言う。
「きっとね、もうあなたは夫にも父親にもなれないわ。いまさら何よ。とっくに失格だわ」
 柳さんはカンナさんを振り返った。カンナさんの瞳は、言葉と裏腹に優しい。
「……そうだ。嫁もガキも、バカじゃなきゃ、あんたのことなんかもう鬱陶しいだけだぜ」
 透羽は肩をすくめ、伊緒も柔らかな瞳を取り戻して言った。
「仮に騙してもらっても、何も幸せじゃないですよ」
「そうだよ」
 あたしは柳さんに駆け寄って、その気弱そうな目に力強く伝えた。
「でもね、柳さんにはこれから幸せにしてあげられる子がいるの」
 柳さんは一度目を伏せたけど、あたしの目を再び見て、やっぱり申し訳なさそうに、うなずいてくれた。そして、柳さんも〈トワイライト〉を出ていって、あたしたちは──ここではありのままでいられるあたしたちは、笑みを交わした。
 ──七音は、ぱったり〈トワイライト〉に来なくなった。
 そわそわするあたしたちに、閉店前になると、柳さんが見つけられなかったと報告しにくる。七音はあたしや透羽どころか、伊緒のメールにすら返信しなくなった。
 あの子に限って、逃げたか。こんなに、あっさりざっくり切るなんて。若い子って怖いけど──
「伊緒まで切るとは思えないなあ」
「……気持ち、知られたとしたら」
「あいつなら、平然と振るだろ」
 そんなことを話していると、一月が過ぎて二月も終わり、三月に突入した。柳さんは、相変わらず七音の消息を追っている。
 とはいえ、あたしたちは昼間のお互いをはっきり知らないから、あの子がどこに住んでいるかすら知らないのだ。遠くから通っていたのもありうる。
 というか、今は正直、昼の仕事で四月から新人の教育が来るのが憂鬱だ。最近の子分かんないよ、と〈トワイライト〉のドアを押すと、「あ、未桜だー」とのんきな明るい声がして、あたしは反射的にいらっとした。
「っさいわ、七音──」
 ……え?
 薄暗いジャズの店内にぱっと顔を上げ、にやにやしたカンナさんの手前に、ブレザーの制服を着た小柄な少年のすがたを見つけた。
 え。嘘。
 何、嘘でしょ?
 思わず立ち尽くすと、「あははー」と間違いなく七音である制服少年は、ころころと笑った。
「未桜って、やっぱ一番リアクションいいですよねー」
「ほんとねえ。飽きないわ」
「あー、これおかわりです」
「卒業祝いにほかのも飲んでみなさいよ」
「オレンジジュースしか飲めないです」
「ミモザなんてどう? これもオレンジジュースよ。もっとも贅沢なオレンジジュース」
「マジっすか。じゃあ、飲んでみようかなー」
「卒業……」
「あー、ねえ未桜、ドア閉めてよ。まだ寒──」
 あたしはそのすがたに駆け寄って、頭を引っぱたいてみた。「痛っ」と声が上がる。手応えもある。しかも、くるくるの目がうるうるとゆがむ。
「うえー、何だよお。俺、何か……」
「じゅうぶんやっただろうがっ、この行方不明野郎があっ」
「はあ!? 死にかけの受験生だっただけじゃんっ」
「ああん!? 受験のどこが……受験?」
「まだ結果も出てないんだよー。ほんと心臓に悪いことしないでよ。卒業はできたけどさ」
「あ、制服だね」
「ふふ、写メる? つか、ここでも写メってよ。学校でも死ぬほど写メったけど」
「男の写メはいらないけど……え、何? まさか、あんた受験で来なかっただけ?」
「そうだよー。なのに、透羽も伊緒も問い詰めてきた。メールもほんと、拒否しようかと思ったよ。ノイローゼになりそうなのにさ。俺のプライベートも察してよ」
「察せるか。ってか、あんなことのあとに華麗に受験モード? ひと言挨拶とか、」
「あのことがあったからだよ」
「え」
「あのことがあったから、やっと俺、進路決まった」
「……まだ決めてなか──」
「決めてなくて悪いですかっ」
「いや、さすがにない。遅すぎる」
「そうだよ、だから必死に勉強だよっ。それを、みんな人が薄情だったみたいに」
「薄情だし」
「むー」と七音をそっぽを向き、カンナさんが笑いをこらえている。あたしは深いため息をつくと、スプリングコートを脱いで、七音の隣に座った。
「透羽と伊緒は? いないじゃん」
「伊緒はケーキを買いにいったわ。透羽はお花だそうよ」
「えー……」
「俺の卒業祝いと大学合格祈願だよー。みんな未桜と違って神だから、そういうのおごってくれるんですー」
「……何か殺したい。いろんな意味で殺したい」
「未桜は何おごってくれるの? 俺はねー、いよいよ来るか現金みたいな」
「カンナさん、ファジーネーブル」
「うわ……ヒくよ……」
「あんたの発言のほうがヒくわ。で、何なのよ」
「ん? 現金」
「欲しいもんじゃなくて、何の大学に進むのよ」
 七音は頬をふくらませ、あたしはその頬をたたいてつぶした。七音はすべすべだったその肌に触れたあと、小さな声で「教育学部」と言った。
「は?」
「教育学部だよっ」
 あたしは七音の真顔を見つめ、どうしても噴き出してしまった。「うわあっ」と七音はカンナさんを向いた。
「笑った! カンナさん、この人ひどいですよね? 人の夢を、こんな、踏みつぶすかのようなっ」
「あたしも笑ったわ、未桜」
「ですよね? えー、七音が? 何でまた。先生になって学校戻って、モラトリアム?」
「違うっ。ほんとに、先生になるのっ。教員免許取るのっ。それで……柳さんみたいな想いしてる子を、受け入れる人になる」
 あたしは笑いを止め、まじめな七音を見つめ直した。七音は照れたように天井を向いた。
「柳さんのこと」
「好きだよ」
「………、だったら」
「だったら?」
「……合間を、縫うとか、………」
 自分で言いながらしっくり来なくて、あたしはこないだ切ってボブに戻った髪をくしゃくしゃにした。
「……いいんだけどさ」
「ん?」
「でも、あんたそうとうやったよ」
「俺だってやられたからね」
「……気にしない?」
「ショックはあったけど。辻褄は合ったし」
「……そっか」
 あたしがそうつぶやいたきり、あたしはファジーネーブル、七音はミモザで沈黙になった。カンナさんはのんびりミネラルウォーターをすする。
 透羽たち遅いなあ、とケータイを開きかけたときだった。突然、ばたんっと大きな音を立ててドアが開いてびくっとした。
「いっ、伊緒くんからメールが──」
 でも、すぐその声にほっとして、言葉にはちょっぴり切なくなる。
 バカだなあ。あの子は結局、この人とも友達になってしまったのか。
 七音はもちろん、席を飛び降りて、ドアに駆け寄る。遅いと思っていた透羽と伊緒の笑い声も、向こうから聞こえる。
 あーあ、あたしもそろそろ、違う車両に乗ってみようかな。
 紫衣さん。好き。大好き。でも、やっぱり立ち入れない。
 始まらない恋だから、終わらない。それでも、終わらせなくてはならないのだろう。少なくとも、いつまでもこのままではいられない。
 幸せになりたいのなら、あたしもこの擬態をほどける相手に出逢わないと。そして、始まる恋をする。
 背後でやっと強く抱きしめ合う、このふたりの恋が色鮮やかに始まるように──

 FIN

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