野生の風色-26

許しがたい名前

「二年七組一番。どうして名前のところが、『悪魔の息子』になっているんですか」
 悪魔の息子──。刹那しんとしたあと、教室はいっせいに笑い出した。「何それ」とか「オカルトかよ」という声が上がり、だが、僕は笑えなかった。
 何で。なぜそんなことをするのか。同情を引きたかったなんて、そんな明快な解釈では済まないだろう。なのに、それをあげつらった宮崎の神経が信じられない。
 宮崎は、遥の事情を少し知っているように言った。だったら、せめて別室で問うぐらいの気遣いはできそうなのに──
 周囲の爆笑と宮崎の鋭い眼に、遥は静かにゆっくり答案に目をやった。あのたぎった感じはなくても、そこには確かに、何か宿っている。
 遥は頬杖をほどくと、宮崎を見上げた。
「だったら──」
 拍子、みんなはっと笑いを止めた。遥が教室で口をきいたのは、初めてだった。
「ほかに、何て書けばよかったんですか」
 遥の低い落ち着いた声に、答えを望みながらも無視されると予断していたのか、宮崎は無様にまごついた。考えなくてもいいだろう答えを、口ごもって考えて、「名前があるでしょう」と言う。
「どんな?」
「天ケ瀬遥じゃないんですか」
「『天ケ瀬』なんて冗談じゃないですね」
 毒っぽい声に、宮崎を含め、クラスメイトも何人か僕を見た。
「『遥』だって、何であんな奴らにつけられた名前を押しつけられるんですか」
「せ、先生は、そんなことを訊いてるんじゃありません」
「いいや、訊きました。天ケ瀬遥なんて俺の名前じゃないです。そんな名前名乗るぐらいなら、死んだほうがマシです。俺は悪魔の息子ですよ。俺の親は悪魔なんです。証拠だってありますよ? 見せましょうか。説明しろって言ったの、先生ですからね」
 神経ばかり鋭くて、人の心には鈍い女教師も、ここに来て自分が取り返しのつかない陶酔に浸ったのを感知したようだ。学ランの右袖口の金ボタンを外す遥を、「やめなさい」と焦った声で止めようとする。
 だが、遥はその手を黴菌あつかいした機敏ではらうと、立ち上がって服をめくった腕を宮崎の眼前に突き出した。白熱燈にさらされたその腕に、教室中は小さな声を上げて息を飲んだ。
 その右腕は、大きな火傷の痕に大きく犯されていた。大部分の肌が引き攣れて、肘のあたりは不気味に変色さえしている。手首の直前でかろうじて火傷は途切れて、二の腕のほうはどこまで及んでいるのか、めくられていないので分からなかった。
 何の傷だ。まるで、肘から火に腕を突っこんだような──
 こんな行動を取られると思いがけなかったのか、立ちすくむ宮崎を、遥は喉の奥で嗤って袖を戻す。
「ゆだった風呂に、頭から息子を突き落とそうとしたあの男、悪魔って呼ばなくて何ですか?」
 端的な“説明”に、雨音だけ残って、教室の心臓はひやりと止まった。宮崎は逃げも言い返しもできず、青黒くなっている。遥はそのざまを嗤い、「無理だよ」と軽蔑をこめたタメ口で言った。
「俺のことどうかしようと思ったんだろ。あんたが手出しできるわけないだろ。何うぬぼれてんだよ。バカじゃねえの」
「………っ」
「あんたなんか役立たずだし、俺どころか、どんな生徒のためにもなれない。そうだな、俺はあんたをバカにしてる。あんた、自分がバカにされないほかに、能があると思ってんのか? あんたにどうかできるなら、俺はそもそもこんな火傷持ってねえんだよ。あとからなら、何だって言えるよな。あんたみたいな大人が、肝心なときには俺を無視したから、俺はお前にはどうにもできない人間になったんだ!」
 青黒い顔を赤黒くさせた宮崎の胸倉を遥がつかもうとしたとき、僕は遥の名前を叫んで席を立った。がたんっと椅子が後ろの席のつくえに当たったが、それは構わずつくえとみんなの目を縫って遥に駆け寄る。
 学ランの腕をもぐようにつかむと、「何だよ」と遥はいらついた荒っぽさで僕の手を振り落とそうとした。
「バカ、お前の部屋で切れるのとは違──」
「うるせえ、放せっ」
「遥、」
「その名前で呼ぶなっ。俺はあんな奴の子供じゃない。あんな奴ら親じゃない。あいつらがつけた名前なんか、俺じゃないんだよっ」
「お、落ち着いてよ、もう──」
「偽善もいい加減にしろっ。こいつは殺さなきゃ分からないんだ。こういう奴が、俺をめちゃくちゃにしたんだよ。放せ、俺はお前なんかっ──」
 僕の制止を引きちぎって、遥が宮崎の服をつかんだとき、「何やってる!」と入口に男の声がした。振り返ると、ジャージを着た教師──僕の一年のときの担任の古賀がいた。
「先生」と入口のそばの生徒が遥をしめし、目を開いた古賀は、こちらに走ってきてやや乱暴に遥を宮崎から引き離す。背中を取り押さえられた遥は、大人の男にはかなわず、暴れてもがくのと毒づくのが精一杯になった。
 宮崎は乱れた胸元を抑えて、教壇の上に下がり、教室のみんなは息を詰めて異常な光景を凝視していた。「落ち着け」と古賀は遥のばたつく手足やねじれる肩を抑えつけ、強引な力で何とか廊下に引きずりだす。
 宮崎は黒板にもたれて喪心している。みんな席を立って廊下を覗いたり、僕の友人なら教卓にもたれて息を抜く僕のそばに来たりする。
「何、あいつ……」
 日暮が茫然とつぶやき、「……何だろね」と僕は脚に体重を戻して、引っぱたかれた腕をさする。
「お前は知ってんだろ」
「知ってても、分かんないよ」
 日暮が桐越や成海と顔を合わせていると、「天ケ瀬くん」と女子がふたり、僕のところに駆けてきた。
「古賀先生が呼んでるよ」
 彼女たちは廊下を指し、僕は三人といったん見合うと、質問したそうなクラスメイトをかきわけて廊下に出た。薄暗い外に、廊下にも白熱燈がつき、半袖の腕に触れる空気はひんやりとしている。そこで遥は、古賀に抑えられていても、もう激しくは暴れていなかった。
 周囲の教室でも、何事かと教師が顔を出しているところがある。遥は古賀に背中を取られながら、憎しみにひずんだ目を、こわばった視線で廊下に刺していた。「宮崎先生はどうしてる?」と僕のすがたを見て古賀は訊き、「え」とそんなのは知らない僕は、教室を見返る。「どう?」と入口にたかっているクラスメイトに訊くと、数人がかえりみて、「ほぼ気絶してる」と言った。
「だ、そうです」
 僕は古賀を向き、「そうか」と古賀は渋い眉で遥を抑える力を緩めた。遥は虚脱に古賀の腕を抜け出して、廊下にぐしゃりとへたりこむ。「大丈夫か」と声をかけられても、答えずにうなだれ、しかし、瞳は依然として傷口をはらんでいる。
「何があったんだ」
 古賀は、やっと怪訝を浮かべる余裕を持てた顔を僕に向け、僕は教室を見た。桐越たちもこちらに来て、不安と興味を入り混ぜて様子をうかがっている。
 僕は古賀を向いた。
「宮崎先生が、そいつの昔のこと、わざとつついたんですよ」
「宮崎先生が、か?」
「そいつもちょっと、答案用紙に変なこと書いたんですけど。それをいちいち、僕たちの前で説明させたんです」
 古賀は僕を見つめ、「天ケ瀬が言ってるの、本当です」と入口にいるクラスメイトたちが念を押してくれる。
 古賀は参った息をつくと、遥を見下ろし、「それが癪に障ったのか」とかたわらにしゃがむ。遥は何も言わず、肩にかすかに力を残している。
 古賀は立ち上がると、教室の入口に来て、「みんな席に着け」と僕以外の生徒を各自の席に追い立てた。
「この時間は、自分たちで試験の答えを確認しあっておくように。友達とやってもいいが、静かにやるんだぞ。──あと、宮崎先生」
 宮崎ははたとこちらを向き、古賀は「話聞きたいので、ちょっと」と言う。宮崎は胸元を正し、よろめきかけたのを制して、歩み寄ってきた。
 二年になって、僕の英語教師は古賀ではなくなり、彼は担任を離れて以来の僕を見下ろす。
「代議員より、お前に聞いたほうがいいかな」
「今ですか」
「見直したい点数だったのか」
「……六十五点」
「宮崎先生は──社会か」
「はい」
「じゃあ、あとでほかの社会の先生に解答用紙のコピーをもらおう。彼を保健室に連れていくのを手伝ってくれ」
 見ると、遥はおとなしくそこにぐったりと座りこみ、瞳も憎悪の気力を見失っていた。暴れ狂った熱が抜け、何かに取り残された感じだ。お高さを剥奪された宮崎を見ても、虚ろな鬱状態に落ちこんでいた。
 古賀に言われて、火傷のあった遥の右腕を取りながら、みんな遥が親に何されてたか分かっちゃっただろうなあ、と僕はくたびれたいとこを保健室に連れていった。

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