教師のそれぞれ
消毒液のにおいがする保健室では、保健医と数人の不良がテーブルでお茶を飲んでいた。「どうしたんですか」と三十台で女の保健医は、いつもと勝手の違う患者に目を開いて椅子を立つ。「精神的に参ったことがあったみたいでして」と古賀は遥をベッドに休ませるよう頼み、保健医は急いで窓際のベッドを整えた。
遥は僕と古賀に支えられて重心を失くし、宮崎は入口でいたたまれなさそうに萎縮している。そんな教師を不良たちは見較べて、「どしたの?」と茶髪の綺麗な女の先輩が訊いてくる。僕はただ、曖昧に咲った。
窓際のベッドは、晴れていれば木漏れ日が柔らかに暖かかっただろう。が、今日はあいにく雨で寒く陰り、僕は遥の鬱の闇を怖がる性質を懸念する。ベッドに横たわった遥は、保健医にふとんをかぶせられると、うつぶせでもぐりこんでしまった。
「何があったんですか」
保健を担当しているだけあって、保健医は遥の心が悲惨に陰っているのは察知したようだ。愁眉を向けられ、「僕もまだ詳しくは聞いてないんですが」と古賀はベッド越しに僕を見る。僕は黙って、小さくなっている宮崎に瞥視をくれた。
「天ケ瀬たちの担任は誰だ」
「坂浦です。国語の」
「そうか。──じゃあ、宮崎先生、もし職員室にいたら坂浦先生と、彼の親御さんを呼んでください」
「……え、親御さん、ですか」
「今は学校にいさせても仕方ないでしょう。自宅で休ませたほうがいいと思いますが」
「そ、そうですね」
しょげた宮崎の背中は、こんな深刻な気分でなければ、いい気味だったなとつい思ってしまう。
僕は遥を見下ろし、目を焼いたあの火傷を思う。それで遥は、学校でも家でも長袖を着ていたのだ。ゆだった風呂に頭から──息づきの動きしかない遥をじっと見ていると、保健医にうながされて、僕はベッドのそばを離れた。
「彼の親は、天ケ瀬の親でもあるんだよな」
保健医がカーテンをかけるベッドを見やり、古賀は不良がおもしろそうにしているテーブルの脇で足を止める。
「ま、法的には」
「法的か。じゃあ、おかあさんたちには、帰宅後に改めてお前からも説明してもらえるな」
「……はい」
「一応、俺も話を聞こう。お前は三時間目もあるんだし、坂浦先生やおかあさんには、俺がざっくり事情を伝えるよ」
「先生は授業いいんですか」
「俺は空きだから見まわりをしてたんだ。次も空いてるよ」
僕がうなずくと、古賀は保健医に、宮崎が戻ってきたら客間に来るよう伝言を頼み、ドアに向かった。カーテンの引かれたベッドを見返る僕に、「大丈夫よ」と僕の瞳を汲み取って保健医が微笑む。僕はぎこちなくうなずき、「ばいばい」と笑んできた茶髪の女の先輩にはちょっと頭を下げ、古賀に続いて校長室の隣の客間で教室での経緯を語った。
つけられた電燈の下、僕は事実だけたどって、個人的な私情は語らなかった。が、テーブルをはさんだ向こう側のソファに座る古賀は、僕の背後のドアに開く気配がないのを確かめると、「天ケ瀬はどう思う?」と尋ねてきた。
「え、どうって」
「宮崎先生が、彼にやったこと」
僕はしばし口を迷わせて、雨音の沈黙を置いたのち、「広田先生のこと知ってますか」と訊いてみる。
「数学のか」
「はい」
「少し聞いたよ」
「あれから、何も学んでないなあって」
古賀は噴き出し、「お前は意外と言うよなあ」と笑いを噛む。
「遥がどう感じたかは分かんなくても、はたから見て、僕は宮崎先生はひどいと思いました。遥のこと、見世物にしたみたいじゃないですか。遥を追いこんだのは、あの人ですよ」
「……まあな。何で彼は、“悪魔の息子”なんて書いたんだろうな」
「さあ。宮崎先生が言ってた、同情を引かせようとか、簡単な理由ではないと思います。もっと、複雑というか」
「宮崎先生は、彼について表面で判断しすぎたのかな」
「何も考えてなかったんじゃないですか。切っかけは遥にあっても、あの仕返しは心理的にきつすぎます。もう遥、教室にいられないじゃないですか。みんな、きっと分かっちゃいましたよ」
「うん」と唸るように古賀がうなずいていると、おとなしい雨のほかは静かだった室内に、ノックが割りこんだ。顔を出したのは宮崎で、後ろ手にドアを閉めるすがたは、すっかりしおらしい媚の態勢を整えている。
「どうぞ」と古賀は僕の隣をしめし、げ、と僕は右に座った化粧っぽいにおいをさせる宮崎に、左に寄った。
「親御さんは」
「いらっしゃるそうです。坂浦先生は授業に出てるので」
「そうですか。今、ひと通り、天ケ瀬に聞いたんですが」
宮崎はこちらを見て、僕は居心地の悪さに、ほとんど持ち帰らず汚れている上履きを見る。「あんなに追いこんだつもりはなかったんです」と宮崎は練習してきたような胡散臭い口調で言った。
「私なりに、彼を想って訊いたんです。知らないふりをするのも、贔屓になると──」
「宮崎先生が、彼に悪意がなかったのは分かります。が、彼の場合、多少の気遣いはしないと。ほかの生徒より、だいぶ敏感なところがあるわけですし」
「彼ひとりだけ大目に見るんですか」
「そうは言ってません。注意するにしても、生徒たちの前でなく、呼び出して訊くこともできたでしょう。彼、このあと、どんな顔で教室で過ごせばいいんですか?」
「………、私は、そんな、昔のことまで話せとは。“悪魔の息子”の意味でなく、そんなのを書いた理由を訊いたんです」
「何も変わりませんよ。普通に訊けばそんな微妙な質問でなく、意味を訊いていると思うでしょう。こんなときのために、私たちは彼の過去を前もって聞いておいたんですよ」
赤い口紅をつぐむ宮崎の、古賀への反感が感じ取れる。
古賀が去年、受け持つ生徒をイジメで不登校に至らせたのを、ほかの教師たちが偏見しているのは有名だ。「あの先公はわりとよくやったよね」と当のイジメられっこの希摘は認めていても、助けてやろうという気はないようだ。
古賀がほかの教師より理解があるのは、ひとえに、希摘のことで悩みまくり、生徒には教師こそ立ち入ってはならない領分があると悟ったせいだと思う。だから、教師たちには不評な反面、生徒には古賀は受けがいい。
「広田先生のことはご存知でしょう」
「え、ええ」
「彼のことを探って、私たちで問題を片づけられるならまだいいんです。彼の心に負担をかけ、実質的に手をわずらうのは、この天ケ瀬やご両親です。そういうことはお考えに?」
「心に負担をかける気なんてなかったので。私は本当に、彼を苦しめる気は」
「じゃあ、彼が悪いと」
「そうとは言っていませんが──過敏な彼に細かくつきあっていても、キリがないんじゃないでしょうか」
僕はぎょっと宮崎を見た。古賀も唖然ととっさに言葉を返さず、宮崎の眉はそんな僕たちに本気で怪訝そうにする。
この女、何ということを──遥は、宮崎のような大人のせいでこうなったとわめいていた。あれは、あながち口任せでもなかったのかもしれない。
古賀と宮崎は、僕という生徒の手前やんわり口論して、ときに飛び出す宮崎の言葉に、僕は気分が悪くなった。
もしかすると遥は、僕が今感じている宮崎の無神経を、一気に見抜いたのだろうか。確かに、この人の無恥は耐えがたい。遥はその嫌悪を極端に表しただけで、あんがい普通の感覚で切れたのかも──
そんなのを思っているとチャイムが鳴り、僕は教室に帰ることになった。
【第二十八章へ】