切れては落ちて
日曜日、飛季はひとりでぼんやりと過ごした。
昨日受けた衝撃が大きかった。きらびやかなネオン、煙たいざわめき、地下で混ざり合う男女、そして、柚葉との行きずりの行為。
柚葉のことは、変な感じだ。初対面の彼女とあっさり関係してしまった。ショックで麻痺して、大胆になっていたのだろうか。
一日、食事や仕事以外では、ベッドにいた。実摘は来なかった。よかったと思う。拗ねに近かった。柚葉と別れた直後に覚えた、実摘への愛おしさは、人に酔って帰宅するあいだに消えた。
考えれば、飛季をあんな場所に連れ出したのは実摘なのだ。しかも、連れ出したのに飛季を放置して、ほかの男といなくなった。飛季が年上でも、あの場所で大人と呼べるのは、実摘のほうだった。野暮だった飛季も悪いかもしれないが、このショックに実摘の非がないとは言えない。
だらだら考え、日曜日は終わった。明日の仕事が、普段に増して憂鬱だった。記憶喪失になって出勤したい。けれど、土曜日の記憶において、誰を殺せばいいのか分からなかった。
鬱々と眠りにつき、翌日の月曜日の早朝、飛季は鳴り響くチャイムに起こされた。薄くまぶたを上げると、室内は蒼い。重い軆は、動こうとすると頭痛でシーツに沈む。チャイムはひと息もつかずに連打されている。
実摘に違いない。飛季は肉体に逆らうと、ふらついて玄関に行った。
ドアを開けると、果たしてそこにいたのは実摘だった。飛季は声を発するのも億劫で、霞む目をこすって彼女を見つめた。実摘は瞳を暗く澱ませて、頬を硬くさせていた。黙って飛季の横をすりぬけていく。飛季は息をつき、ドアを閉めた。
リュックをおろした実摘は、飛季のベッドにもぐりこんだ。突っ立っていると、実摘は怪訝そうにぱんぱんとシーツをたたいてみせる。添い寝しろと言いたいらしい。
眠たい飛季は、おとなしく従った。隣にすべりこんだ飛季の胸に、実摘はしがみつく。匂いを嗅いで頬をすりよせて、そうすると、彼女のこわばった頬はやわらいでいく。何となくその様子がかわいらしくて、飛季は実摘の華奢な背中を撫でた。
実摘は飛季に上目遣いをする。澱みが晴れていた。飛季は表情をやわらげる。実摘はくすぐったそうに飛季の胸に顔を埋めた。飛季は彼女を抱きしめて、実摘も飛季に軆をくっつける。
やがて実摘の寝息が聞こえてくると、飛季は頭をかきたくなった。実摘が素直に甘えてきただけで、あっさり怒りが鎮火している。自分の意志の弱さに苦笑し、とりあえず、足りない眠りをおぎなった。
熟睡はしなかった。七時までの一時間半、ただ微睡んだ。寝入る実摘を想い、うるさい目覚まし時計はすでに解除していた。七時になると、飛季は実摘とそっと軆を離して起床する。
実摘を気遣って、静かに朝の支度をする。まばゆい朝陽を吸いこむガラス戸は、カーテンで閉ざすままにしておく。朝食を作るついでに、実摘の食事も用意する。
八時前になっても実摘は眠っていたから、飛季はデイパックをあさり、レポート用紙にメモを残した。まくらもとにそれを置くと、デイパックを肩にかけて部屋を出た。
いつからか、実摘を部屋に残しても愁えなくなった。彼女が留守中に出かけていくのがなくなったわけではない。ただ、出かけていくなら合鍵をドアポストに入れてくれと飛季は彼女に諭した。あんがい、実摘はその言いつけは守ってくれている。
部屋が荒らされていたり、服がなくなっていたりはした。最初は唖然とさせられても、こうして彼女と接していて、その非常識な行動にも慣れはじめていた。
事務所でのミーティングでは、内心緊張した。誰も飛季の土曜の夜のことなど知らない。興味もないだろう。分かっていても、自意識過剰になる。実摘と歩いていたのを、あの街を出入りしたのを、あの通りで柚葉といたのを、誰かに目撃されなかったか。
ミーティングを終えて家を訪問するのも苦痛で、生徒のほうを直視できなかった。教科書の内容を説明しながら、柚葉との刹那的なセックスが脳裏によみがえる。自分のあの週末を、もし見透かされたら。根拠のない妄想に喉がからからになった。
何だか、しばらく羞恥に余裕を奪われる日々が続きそうで、憂鬱になる。
誰を怨めばいいのだろう。いや、簡単だ。実摘だ。でも、飛季は彼女を憎めない。それどころか、目覚めて飛季の不在に泣いていないかと心配してしまう。
以前、帰宅するとめちゃくちゃの部屋に実摘が座りこんでいたことがあった。実摘はわめきちらして飛季を罵詈したあと、「飛季がいなくてびっくりした」とぐずった。飛季はあきれながらも、彼女の背中をとんとんとあやしてやったものだ。
飛季がいなくてびっくりして泣く。それは何回かあった。飛季は彼女をなだめつつ、不思議な気持ちになる。そういえば、実摘が自分をどう想っているかを、飛季は知らない。飛季は実摘を──変な子だな、と認識している。実摘には、飛季はどうなのだろう。
ふと、実摘にたどりついている所思に決まり悪くなった。あの子はだいぶ、飛季を侵蝕している。彼女に出逢う前は、社会に対する悪態ばかり思っていた。飛季の内的なものが、実摘によって変化しつつある。
帰宅すると、ベッドでブランケットが人ひとりぶん盛り上がっていた。デイパックを床に投げていると、ブランケットが蠕動する。もごもごと現れた頭は、もちろん実摘だ。
何秒か見つめ合うと、実摘はだるそうにブランケットを這い出る。腹にくしゃくしゃの緑色の毛布を抱えている。
「あのね」
「え」
「おかえり」
「………、ただいま」
実摘は満足そうにした。実摘は、こういう形式的な挨拶が好きらしい。
「飛季の手紙、読んだよ」
「あ、ああ。朝、ちゃんと食べた?」
「うん」
「あっためた?」
「うん」
「そう」と返して、何となく実摘の頭を撫でてやった。実摘は嬉しそうにする。彼女は頭を撫でられるのが好きみたいだ。「いいこいいこ」と繰り返して、飛季の提げるビニールぶくろを覗く。
「ごはん」
「炊くよ。待ってて」
実摘はこっくりとする。飛季はまず、実摘が食べたきりにしている食器を洗った。
最初少し使ったものの、その後ホコリをかぶっていた炊飯機具が、役に立ちはじめている。「あったかいごはんが食べたい」と実摘が言ったのが切っかけだ。飛季も食べたくないものではなかったので、無洗米を買うようになっていた。
米に水をそそいでいると、背中で実摘がやもりのようになってくる。飛季はちらりと見返る。実摘は飛季のワイシャツをくんくんとして、眉をひそめた。
「変な臭い」
「え」
「煙草」
「ああ、今日の生徒かな」
「悪い子?」
「捻くれてるだけかも」
実摘は飛季の腰に腕をまわす。彼女の体温が背骨につたう。
「飛季は、どうして先生なの」
「は?」
「どうして、先生になろうと思ったの」
「……なれて、ないけど」
「なりたいとは思ったの」
どう、なのだろう。自分は教師になりたかったのだろうか。教職を取ったということは、一応、自分にできるとは思ったからなのかもしれないが──
「どんな先生になりたいの」
「……どうせ、なれないから」
「なれるなら」
「別に、どうでも」
「どうでも」
「忘れていってほしいかな」
実摘は軆をよじらせ、飛季に密着する。
「飛季は、憶えてる生徒いる?」
「生徒って、家庭教師した子?」
「うん」
「誰も憶えてないよ」
「何で」
「みんな同じだから」
「同じ」
「そう」
「おなじ……」
実摘がふらっと飛季の背中を離れた。不意の行動に、飛季は実摘を振り向く。実摘の脚はおぼつかず、酔ったみたいに頭がぐらぐらしていた。音を立ててベッドに崩れ、緑色の毛布を頭にかぶり、ぶるぶるとおののきはじめる。
悪いことを言ってしまったのだろうか。飛季は彼女に歩み寄った。声をかけようとした瞬間、実摘は空間を鉤で切り裂くような叫び声を上げた。
びくっとした飛季に、実摘は手当たり次第に投げつけてきた。ブランケット、時計、まくら──
「実摘、」
「うるさいっ。思い上がるのもいい加減にしろ、このくそったれっ」
飛季は後退る。また来た。何度来ても、この実摘には慣れることができない。
「ちきしょう、同じだって? 同じだって言ったろ、ふざけんじゃねえっ。どれだけコケにするんだ、てめえに誰かを判断する資格はないんだよ。何様なんだよ、なあっ。聞いてんのか、てめえに言ってんだよ。その気取った顔どうにかできねえのか、ムカつくんだよっ。何でてめえは、こっちをいらつかせる能しかねえんだ。死んだほうがいいんだ。とっとと死んじまえ、このカスっ」
とてもあの実摘だとは思えない。飛季に絡みついて、心地よさそうに目を細める実摘とは別人だ。
「てめえだって同じなんだ。平凡なくせに。お前だってみんなと一緒だ。ゴミだ。根暗だしな。根暗は何にも残せないクズなんだよ。お前の存在は犯罪なんだ。根暗は犯罪だ。地球のクズだ。とっとと死んじまったほうがためになるんだよっ。死ねよ。ここから失せろ。早く! てめえは死刑なんだ。地獄で腐っちまえ。てめえはそこにいたって、荷物にしかならねえ──」
唐突に悲鳴が耳を裂いた。高い声すぎて、鼓膜がはじくのを拒んだ。だからよく聞こえなかった。飛季は茫然としていたが、ぐらついていた視覚を正確にした。見ると、実摘はおろおろとしている。
「にら」
目を落とす。実摘の膝が、緑の毛布を踏んでいた。
実摘は焦って膝をしりぞけ、毛布を助け出した。みずからが踏んだところを震える手で撫でて頬を寄せる。その頬は、大量の涙にぼろぼろになっていった。「ごめん」「ごめんね」と彼女は繰り返す。毛布に染みが広がっていく。
飛季は張っていた肩を緩めた。どうやら、“僕にいない僕”は去ったようだ。ベッドに丸くなった実摘は、鼻をすすって毛布に謝りつづけた。飛季はあえて彼女を無視して、キッチンに戻った。今の彼女には、毛布がすべてだ。毛布が“許して”くれない限り、ああして謝罪しつづけるのだろう。
米を注いだ釜を炊飯器に入れて、スイッチを入れた。床に落ちていたビニールぶくろを拾って、中を覗く。おかずのハンバーグは無傷だった。
実摘はひたすら謝っている。飛季はなかばあきれて、実摘が投げたものを拾い集める。それぞれを元の場所に置くと、普段着に着替え、洗面台で髪をおろした。
その隙に、ベッドに実摘がいなくなっていた。彼女はカーテンの閉まっていない窓辺に座っていた。床に流した毛布を愛撫している。許してもらえたらしい。実摘は分離した世界にいて、飛季は立ち入らずに仕事を始めた。
【第十九章へ】