野生の風色-28

精一杯の嘘

 廊下には生徒があふれはじめ、窓の先には中庭の芝生にそそぐ雨が覗けた。窓際に歩み寄って見た空は、色も重さも今の僕の気分そのもので暗い。空が哀しいと哀しくなる僕は、相乗作用で気分を低迷させかけて、芝生に目を戻した。
 窓に透明に映る僕の顔は、瞳や口元のこわばりが神経質に陰気だ。それでも、遥の落ちこんだ表情とはぜんぜん違う。僕の鬱は、雲がかかるようなもので、たぶん、心次第でどうにでも追いはらえる。
 遥は、すべてを内面で発生させるから、こもりきって自分の底に堕ちる。それで余計すくいあげにくいんだな、と僕は北側へと歩き出すと、ずっしりと息を吐き出して遥を想う。
 悪魔の息子。なぜ、遥はそんなことを書いたのだろう。天ケ瀬遥という名前が気に入らないのなら、空欄も可能だった。何かの悲鳴だろうか。遥はすべての答案用紙に“悪魔の息子”と記入したようだ。担任が名前を呼ぶのを躊躇ったのも、本当はそこに書かれていたのが“天ケ瀬遥”ではなかったからだろう。
 担任は無視したわけでも、“悪魔の息子”なんて書けば、どの教師かが問いかけてきたのは必至だ。ならばやはり、その記入には遥の聞いてほしい声がこめられていたのか──
 首をかしげて、ざわめきより雨音が濃くなる肌寒い渡り廊下を抜けると、階段をのぼって僕は教室に到着した。
「あ、天ケ瀬」
 ドアの開けられた入口に踏みこむと、そう呼ばれて顔を上げた。すると教室の大半がこちらに注目し、桐越たちばかりか、普段親しくないクラスメイトまで興味をたたえて駆け寄ってくる。その形相に圧倒される僕に、「いとこは」と日暮が後ろを覗いた。
「保健室だよ。そのまま帰るみたい」
「そっか。んじゃ、宮崎と古賀は」
「客が来る部屋で喧嘩してる」
「喧嘩」
「宮崎が自分の非を認めないんだよね。遥が悪いと思ってるみたい」
 顔を合わせるみんなをかきわけ、僕は自分の席に行った。答案用紙が広げっぱなしで、思わず頬が引き攣る。「六十五点」と桐越が言って、僕は彼をはたくと、教科書ごと答案用紙をかばんに突っ込んだ。
「ねえ、あいつって、親に虐待とかされてたの?」
 僕の席の正面に小さい軆をすべりこませ、大きな瞳で僕を覗いた成海が、率直に訊いてくる。僕は成海を見て、分かっちゃうよなあ、と心でつぶやいた。
 そうだよ、とうなずいていいものか。遥の気持ちもあるし、訳知り顔をするには僕は遥の過去を漠然としか知らない。「どうかな」と首をかたむけると、「えー」と成海だけでなく周りのみんなも声を上げる。
「知ってんでしょ」
「知りません。だって、あいつ、僕に心開いてないもん。家じゃ口もきかないし」
「そうなの」
「うん。何にも教えてくれない」
 拍子抜けたような、つまらないような、僕が嘘をついていると見るような、妙な空気が流れる。「でもさ」とつくえの脇にいる桐越が突っ込む。
「一緒に暮らす予備知識で、ある程度、どっかから聞いておいたってのはあるんじゃないか。先生たちは聞いてるんだろ」
「……ま、ね」
「あいつ、親、死んでるんだよな。まさか殺したとか」
「違うよ」と僕は日暮を向き、それはきっぱり否定しておく。
「親、はね、事件では死んだ。桐越の言う通り、さらっと教えられても、ほんとにさらっとだよ。語れるほどは聞いてない。遥のプライバシーだからって、細かいことは伏せられたんだ。遥と親が絶望的に仲悪かったとは聞いた。それだけ」
「仲悪かった」と反復し、みんなそれは真実として、遥の過去を邪推する前提にする。
「それだけじゃ分かんないでしょ」
「親に何かされて、仲悪かったんじゃないのか」
「日暮、虐待されなきゃ、親大好き?」
 みんな隣の人間と目を交わし、もちろん、とは誰もすぐには言わない。
「まあ、虐待だったかもね。けど、説教が極端だったのかもしれないし、あの捻くれ具合に親もうんざりしたのかもしれない。親が子供に暴力を振るったって、虐待とは決まってないでしょ。あいつがひとりで自分は悪くないと思ってるだけで、実は体罰されて当然のことをしたのかもしれない。……って、僕も、みんなみたいに何があったんだろって思ったんで、そういうのはいっぱい考えたよ」
 舌がもつれないのに全神経をそそいだ出任せが、みんなの耳に白々しく聞こえていないか心配だった。
 自分では、思いっきり白々しく聞こえる。彷徨わせないよう視線を定め、自分の目元や口元の引き攣りをこらえ、不安に体温が上がって冷や汗も出た。
 だが、虐待なんて身近に感じられないせいか、「そうだなあ」とさいわいみんなは僕の羅列に信憑性を感じた。
「あいつだったら、親も匙投げそうだな」
「なーんだ。もう、びっくりしたよ」
「っていっても、そこまでする親ってのもすごいねー」
「一応、やっぱ虐待なんじゃないのか」
「遥がそうされて相応の何かをしてなかったらね」
 みんな心理的に受け入れやすい活路を見つけ、だいたいがそちらに流れた。遥をかばっていると睨むようなのもいても、そのへんは勝手にさせておく。躍起に塗りかえるのも怪しい。
 僕は単純なクラスメイトが多いのにほっとするかたわら、虐待は蔓延しているわりに、事例として認識されていない事実に複雑になった。怖いことなんだろうな、と思っていると、「おい」と不意に桐越が僕の肩をたたいた。
「ん」
「『悠芽』って呼んでる」
 しめされて入口を見ると、そこにはスーツに化粧をしたかあさんがいた。「どうしたの」とみんなをよけて駆け寄ると、「遥くんの荷物を取りにきたの」とかあさんは中学生にかこまれて居心地悪そうにする。
「席が分からないの。取ってきてくれる?」
「もう連れて帰るの?」
「先生の話を聞いていくわ。あとで悠芽も聞かせてちょうだい」
「そ。ちょっと待っててね」
 僕は遥の席に行き、律儀に教科書が入った重たい通学かばんを取った。
 みんなを騙せた感触を、伝えておいたほうがいいだろうか。坂浦だと、下手に内情まで説明して、事を変な方向に持っていきそうだ。僕はかあさんの元に行くと、かばんを受け取ろうとされたのを制し、「重いんで手伝ってあげる」と教室を出た。
「授業始まるんじゃないの?」
「言っておきたいことがあるんだ」
「家でいいわよ」
「今言わないといけないの。あの担任がバカなことやるの、かあさんに止めておいてほしいんだ」
「バカなこと?」と訝ってこちらを見つめるかあさんに、僕は階段を降りていくのをうながす。
「止めておくって」
「遥にどんなことあったか聞いた?」
「電話で簡単に」
「そっか。僕、遥が親に虐待されてたってこと、みんなにははぐらかしておいたから」
「え、ほんとに」
「あの教師、知られたんでしょうがないとかって、簡単に遥の過去話しそうでしょ。そしたら、僕の苦労、台無しじゃん」
「そ、そうね。え、どうやってはぐらかしたの?」
「それは家で。とにかく、みんな遥が虐待されてたとは一応思ってない。だから、余計なこと言わないように、かあさんが止めておいて」
 一階と二階の踊り場で立ち止まり、「分かったわ」とかあさんは僕の手から遥のかばんを取り上げた。「時間でしょ」とかあさんは上をしめし、僕はうなずいて笑みを作ると、「じゃあね」と騒がしい階段をのぼっていった。
 僕の説明で、教室は遥への好奇をやわらげていた。僕に集まってくるのもいつもの三人で、「詳しいの教えられなくてごめんね」と個人的に謝ると、みんな首を振ってくれた。
 そうこうしているとチャイムが鳴り、次の授業が始まった。授業を挟んでいくごとに、みんな遥のことなんて忘れていく。そして、帰りのホームルームでも坂浦もいらないことは言わず、放課後にはいつも通り、誰も遥の空席を気にもとめなくなっていた。

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