Blue hour-4

もう触れられない

 抜け殻のような心を抱え、かろうじて仕事だけこなしていた。一日がひどく長く感じられるのに、すぐにひと月が過ぎて二月になった。
 まだまだ寒さが厳しいある日、仕事から帰宅すると、部屋の前に同じく仕事帰りっぽい聖空さんがいた。まじろいでいると、聖空さんも僕のすがたに気づき、少しだけほっとしたような顔を見せた。「どうしたんですか」と僕があやふやな笑みで歩み寄ると、「連絡しても既読もつかないから」と聖空さんは言う。
「あ……今、アプリ通知切ってて」
「そうなの? 既読ぐらいつけないと、みんな心配するよ?」
「みんな……ってほど、登録してる人もいないです」
「私は心配したよ。部屋にこもって何もしてないんじゃないかって。仕事は行ってるんだね」
「一応、生活はあるので」
 そう言いながら僕は鍵をまわし、「あがっていきますか」と聖空さんに尋ねる。「お邪魔してよければ」と聖空さんがうなずいたので、僕はドアを開いた。僕に続いて、「お邪魔します」と聖空さんも靴を脱ぐ。
 優空がいなくなって、家事がかなりいい加減になった。まだ優空が帰ってくると思っていた頃は、きちんとやれていたのだけど。今は料理も掃除もしないし、何とか洗濯はやっているけれど、乾燥から取り出すとたたまずにソファに投げっぱなしだ。仕事用のスーツやワイシャツは、アイロンが面倒でクリーニングで済ましている。「優空と違って、私も家事は苦手だけどね」と聖空さんは苦笑して、整頓されていない部屋をたしなめることはしなかった。
「ぜんぜん、家のほうに行けてなくてすみません」
 久々にキッチンをあさって、賞味期限が切れていないのを確かめてから、ティーバッグで紅茶を淹れた。僕のマグカップと、優空がかわいいと言って買ったまま使っていなかった、淡いピンクのティーカップ。「ありがとう」とティーカップを受け取った聖空さんに、洗濯物を退けてソファを勧めながら僕はそう言った。
「仕事に出てるなら、なかなかそんな時間もないよね」
「……まあ。おとうさんとおかあさんはどうしてますか」
「やっぱり、元気がないかな。ずっと緊張してて、気が抜けたのはあると思うけど──ショックだよね、子供が先に逝くのは」
「そうですね……」
「特に優空のことは、真永くんをいい人見つけたねえって喜んでたから」
「………、籍だけでも入れておけばよかったとは思います」
「プロポーズはしてくれてたんだよね」
「え、知ってるんですか」
「うん。あの子、早く年明けないかなあって言ってたよ」
 僕は床に座りながら、熱い紅茶に口をつけて「どこかでは」とつぶやく。
「年は越せるって、思ってました。あんな急なことになるなら、もっと早く行動しておけばよかったです。何で……まだ、大丈夫だなんて思ってたんだろう。自分が悔しい」
 言いながらまた瞳が滲み、僕はマグカップをローテーブルに置いて目をこすった。
「真永くんだけじゃないよ。私だって、両親だって、覚悟してたったって言ってもね。やっぱり、早すぎたよ。優空自身だって、あの朝に驚いたんじゃないかと思う」
「そう、でしょうか」
「うん。イヴだって元気だったじゃない? 次の日にまさかああなるなんて……誰も分からなかったよ」
 僕はうつむき、病院支給のものだったとはいえ、ケーキやチキンを食べて咲っていた優空を思い出した。でも、優空は希都に伝えていた。僕のことをよろしくと。そして希都は僕に言った──覚悟なんて見せられたら、僕が耐えられなかっただろうと。それをぽつりぽつりと話した僕は、「せめて、最後に弱音も聞いてあげるべきだったのかもしれないです」と言ったが、「それは違うと思うよ」と聖空さんはやんわりと否定した。
「真永くんに最期まで咲えていたことが、優空の誇りだと思うの」
「誇り……」
「確かに、泣きたかったかもしれない。死にたくないってすがりたかったかもしれない。でも、そんなことされたって何も報われなかったでしょう?」
「………」
「遺されても生きていく真永くんのために、あの子はきっと最期まで咲っていたかったはずだよ。弱音なんて、絶対に吐きたくなかったと思う」
「僕は……優空に無理させてなかったでしょうか」
「真永くんは優空をしっかり支えてくれてたよ、大丈夫」
 僕は鼻をすすり、香ばしい紅茶を飲んで軆を温めた。暖房も入れていないことにやっと気づいたけど、熱い紅茶で体温は落ち着いている。
 そのあとも聖空さんと途切れ途切れに優空のことを話した。「もう優空が家を出て五年だったから」と聖空さんは何だかまだ優空は病院か、あるいはこの僕との部屋で生活しているような感じもすると語った。「あの子の軆が冷たくなって、骨になっちゃったのも見たのにね」と聖空さんは睫毛を伏せ、僕も柩の中で眠っているようだった優空を思い出して泣きそうになった。
「でも、優空は幸せだったよね」
「……幸せ、だったでしょうか」
「真永くんと出逢えて、一緒に過ごせたんだから。そのぶん、遺すことになるのもつらかったと思うけど」
「僕も……優空に出逢えて幸せでした。それは、優空が亡くなっても変わらないです」
 そう言った僕を、涙目で見つめた聖空さんは「ありがとう」と微笑んだ。
 聖空さんが帰り、紅茶を片づけた僕はスーツから私服になって、暖房を入れたリビングでやっぱりぼんやりとした。スマホからクラウドにいっぱいの優空の笑顔を見つめ、誇りか、と聖空さんの言葉を思い返した。確かに、優空なら迫る死を嘆くなんてしたくなかっただろう。そんなことをしたって僕が困るのも分かっていただろう。だとしたら、死を受け入れることが、確かに優空の誇りだったのかもしれない。
 でも、僕のほうはそんなに強くなれない。優空の死を想うと泣いてしまう。この途方もない喪失感に、こんなふうにソファに座ったまま、何もすることができない。何時間もぼさっと過ごし、眠気を感じはじめて機械的に寝室に向かう。
 優空が亡くなるまでのほうが、よほど彼女の夢を見ていた気がする。ひとりでセミダブルのベッドで眠ると、優空の夢を見なくなったどころか、気味の悪い悪夢を見たりした。顔面が砂嵐の人間に追いかけられる。視線を感じると思ったら生首がこちらを見ている。あるいは、それが何なのか分からないけど、焦りながら原型が分からないほど何かを壊している。夢でくらい優空に会えたっていいじゃないかと思っても、そう都合よくいかなかった。
 しかし、その日、久しぶりに優空が夢に出てきた。優空は僕のずっと先を歩いている。追いつこうと走っても、その背中に追いつけない。優空、と呼ぼうにもなぜか声が出ない。息切れが苦しくなって立ち止まってしまったとき、不意に優空が振り返ってきて、僕に笑顔を見せると「真永が大好きだよ!」と叫んできた。
 僕はその笑顔を見つめて、僕もだよ、と言いたいのに、やはり声が出ない。何で。言わなきゃいけないのに。僕も優空が大好きなんだ。伝えたいのに、声が音を持たない。泣きそうになってくる僕に、優空は微笑んで「分かってるよ」と言ってまた背を向けて歩き出した。分かってる? 本当に? 僕が今でも君を想ってること──
 はっと目覚めたときには、いつものセミダブルのベッドにひとりで、涙がぽろぽろとあふれていた。
 鼻をすすって目をこする。少し頭が痛い。短かったけど、優空の夢だった。久しぶりに見た、と頬を濡らす涙をはらう。
 いくら走っても、優空に追いつけなかった。それは、優空が手の届かないところにいるからだったのだろうか。夢の中でくらい、また隣に並んで手をつなぎたかった。大好きと言ってくれた優空に声も出なかった。僕が何も言えなくても、「分かってるよ」と優空は言ってくれたけれど、本当にこの大きな喪失感と痛切な思慕が伝わったのだろうか。亡くした今でも、優空を愛していることを分かってもらえたのだろうか。
 充電するスマホで時刻を見ると、午前三時になる前だった。道理でまだ真っ暗だ。今からまた寝れるかな、と頭痛がきしむ額を抑え、ベッドに仰向けになる。
 隣に優空がいないのがつらい。でも、優空と眠ったこのベッドを捨てて、シングルベッドに買い替える思い切りもできない。
 優空が最後にこのベッドで僕と眠ってくれたのはいつだっただろう。去年の秋だろうか。三日くらい一時帰宅して、優空は家事やら何やらはできず、休んでいるのがほとんどだったけど、それでも僕は部屋に彼女がいるのが嬉しかった。夜は優空が壊れないようにそっと抱いて眠った。
「真永」
 温かい軆を抱いてうとうとしていると、不意に優空が名前を呼んでくる。
「うん?」
「あの、……気になってたんだけど」
「うん」
「ずっと……してなくて、大丈夫?」
「えっ」
 僕がまばたきをして、それから少し頬を染めると、優空はうつむいて自嘲気味にくすりとして、「風俗くらい行ってるか」と言った。僕は首を横に振って、「ずっとしてないよ」と言った。
「ほんと?」
「うん」
「自分でも?」
「自分……も、回数に入る?」
 優空は笑って、「真永のそういうとこ好き」と言った。そういうところ、って自分で処理するところだろうか。よく分からずに首をかしげていると、「真永が嫌じゃなかったら」と優空は僕の手をつかんだ。
「私のこと、触ってくれる?」
 優空の右胸はもうなかったけど、彼女はそこに僕の手を当てた。僕はそうっとそこに触れ、それからそろそろと優空の服を脱がせて、直接縫合のあとにキスをした。「気持ち悪いよね」と哀しそうに言った優空に、「この傷のおかげで、今、優空は生きてるんだよ」と僕はささやいて彼女の細くなった軆を探った。優空も僕の軆に触れて、服を脱がせた。
 僕は普段からそんなに激しく行為をしないけど、そのときはよりいっそう優しく優空を抱いた。何度もキスをしながら、深くつながって快感をたぐりよせた。ゴムはつけていたから、優空の中で出した。優空も腰を浮かせて小さく痙攣していたから、達してくれたのだと思う。つながりをほどいてからも、僕たちは抱き合ってほどよい疲労感の中で眠った。
 あれが優空と最後に愛し合ったときでもあった。三日で優空は病院に戻り、その直後にまた再発が見つかって、数時間に及ぶ手術になって、悪性腫瘍が見つかった。それ以降はばたばたで、ここに帰宅してまったりするヒマもなかった。それでも僕は、クリスマスの朝まで、何の根拠もなく優空とまたこのベッドで眠れることを信じていた。
 優空にもっと触れておけばよかった。キスしていればよかった。優空に触れると、肉の弾力でなく骨のかたちを感じて切なかったけど、それでもその感触を鮮明に覚えておけばよかった。細くなった髪を梳いて、こけた頬に頬ずりをして、リップで顔色をごまかす唇に口づけて。何でしっかり優空を吸収しておかなかったんだろう。彼女が消えてしまうことを、きちんと直視しなかったんだろう。
 優空の残り香が僕から喪われていく。遠くなっていく。追いかけて触れようにも、二度と触れられない。彼女を愛している気持ちは強く焼きついているのに、その熱を届ける優空がこの世のどこにもいなくて、僕の心は虚しく空を彷徨っている。

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