晴れない心
六月の席替えで、僕はこんな時期にそうなっても仕方のない窓際の席になった。正確には窓際から二番目だ。というのも、窓に接した席は女子列なのだ。
遥の席は、廊下側の最後列という彼方に移った。
その日も蒸した雨が降りしきり、頬杖をつく僕は、夏になって空の機嫌が直るのを願いながら、黒板の英文を眠たく眺めている。
六時間目の英語の授業で、遥のすがたはすでになかった。午後に遥が残っているなど、この雨がやむより稀な事態だ。
あの日以来、遥は教室にいっさい来ない──ということは、思いのほか、なかった。むすっと席に着き、好奇を向けられても無頓着にしている。
来てもすぐ消えてしまうのは、あれを境に増えた。不良ともつるんでいるようだ。家ですれちがったとき、僕は遥に確かに煙草の匂いを嗅いだ。
そんな遥に僕は何もできず、余計なことだけしたのかなあ、とあの日の自分の落ち度に気づいたりしている。
一面観の配慮だったかもしれない、と思うのだ。遥はあえて自分の過去をさらし、教室をなじんでみようと、最後のあがきをしたのかもしれない。
考えすぎだろうか。あの遥に、そんな打算をする余裕はなさそうだった。とはいえ、正当化したい保身が働いた視点かもしれない。
何せ、こんなうやむやな悩みで判明するのは、僕が依然として遥の心をちっとも知らないということだった。
六月になって良かったことは、道端に飛散していた毛虫の死骸を、土砂降りが一掃してくれたことだ。おかげで、桜通りを通るときの細胞から硬直する恐怖から解放された。が、毛虫がいなくなったら次はなめくじで、今はなるべく壁を見ないように生活している。
こんな女々しい感覚を植えつけた元凶の奴も、そろそろ時期が来る。夏になったら、蝉や蚊も出る。ほんとやだな、と憂鬱になっている放課後、僕は水色の傘をさして友達と連れ立って学校を出た。
「君のいとこってさ、家にはちゃんと帰ってんの?」
桐越と成海とは校門で別れても、大通りに近い団地に暮らす日暮とは、けっこう並行できる。
あたりには、冷たい雨のせいで土や草木の匂いがむっと立ちのぼっていた。蒸しているのに、肌に触れる外気は冷えこんでいる。地面を裂くような音で、車が濡れた道路を行き交い、周囲には色とりどりの傘が咲いている。
傘の迷彩柄を透かして顔色に映す日暮は、地面にはりつくチラシを蹴って、僕にそう訊いた。
「まじめには帰ってこなくなってるかな」
「六組の波沢とかとつるんでんだろ」
「名前は知らなくても、ピアスした人ね」
「俺、一年のとき波沢と同じクラスだったけど、やばいよ。あいつ、卒業したその筋の先輩の親戚で、一年のくせにやたら立場強くて。いろいろ乗せてもらって、腕に注射の痕あったのも見た」
「注射」
「お病気じゃないと思うなあ」
どう返せばいいのか、僕は銀のとばりに無彩色な景色を眺める。傘に出逢ってははじける雨粒は、その強さゆえ大きな音を引っきりなしに立てていた。
注射。希摘との冗談半分だった話が思い返る。
桜の木も街路樹もびっしょりで、空では灰色の雲が目に見えてうごめいていた。
「天ケ瀬、ほんとはあいつが虐待されてたかどうか、知ってんだろ」
水溜まりをよけながら、さりげなく言った日暮に、僕は雨越しに彼を向く。
「言わなくていいよ。俺が知ったってしょうがないし」
「……殊勝」
「姉貴にちょっと話してさ、そう言われたんだ。そりゃ、野次馬で気になるけどさ。俺が知ってどうなるものでもないよな」
僕は小さく微笑み、「あんまり幸せではなかったんだよね」と傘をはみでて濡れているナイロンの通学かばんを肩にかけなおす。
「そっか……。じゃあ、だったらますますやばくないか。そういうのから逃げたくて、ヤクとか手え出すかもしれない。ファッションじゃなくて」
「……うん」
「波沢たちとつるんでるなら、手に入れられるんだぜ。止めないのか」
「止めるほど、僕は遥に誠実じゃないよ」
「誠実」
「僕が遥について知ってるのは、表面だよ。内面はぜんぜん知らない。ぜんぜん知らずに、『いけないことだから』って善意だけで止めるには、僕はすれてるよ」
「そうか?」
「そうです。遥がしたいならさせておくしかない」
日暮はいつにない目で僕を観察し、「けっこうクールなんだな」と雨に紛れてつぶやく。
「あいつ、親が死んで、すぐこっちに来たのか?」
「しばらく孤児院にいたよ」
「そこではグレてたのかな」
「いや、厳しいとこだったみたいだし」
まさか、病院だったとは言えない。
「何かさ、ほっとかれて、あいつ、どんどんやばいほうに流れてない?」
「構ってどうにかなるかな」
「家に帰らなくて、何やってるかとか考える?」
「その、波沢、とかいう人たちといるんでしょ」
「波沢たちと何してるか」
「……ろくなことやってないんじゃない」
「何だかねえ。ま、俺は天ケ瀬以上に、あいつがどうなろうと関係ないんだけどさ。問題起こして、同じ学校とか同じクラスとかで、巻きこまれたりすんのはやなんだな。俺、非行を否定はしなくても、勝手にやっとけとは思うよ」
非行かあ、と僕は正面を向く。同じ非行でも、遥は落ちこぼれというより、逸脱しているという感じだ。つるむ不良は、髪を染めたりピアスをしたりと自己主張がすごい。遥にそういうのはない。
「あいつ、学校来なくなってるし、巻きこまれるのは大丈夫じゃない?」
「家で暴れたりはしないのか」
「帰ってこないのが増えてるし。いても部屋にこもってるよ」
「帰ってこないの、親も放ってる感じ?」
「訊いても答えてもらえないんで、持て余してるかな。ひと思いには、しかれないみたい」
「ふうん」と日暮が視線を放った先に、別れ道が現れた。「じゃあな」と笑んだ日暮は、強くなっていく雨脚の下、団地へと駆けていく。ひとり黙々歩いた僕は、横断歩道の赤信号にたたずむ。
雨を浴びた車は水溜まりを蹴散らし、歩行者に飛ばっちりを食らわせている。排気ガスは、雨の匂いにいくらかかきけされていた。湿ったスニーカーの爪先で歩道をにじると、靴底とアスファルトが、砂利にねばついた音を立てる。
ひと思いにはしかれない。
何気なく日暮に言った、自分の言葉を思い返しながら、僕は停まった車で信号が変わったのに気づき、住宅街へと渡った。
僕の両親は、遥に追求したり叱責したりしていない。ぶっちゃけ、他人行儀なのだ。
僕が夜遊びなどしたら、両親はなぜそんな行動に走ったかまで掘り下げ、そんなのはやめろと言い聞かせるだろう。遥が夜遊びで危険な目に遭っていいとは思っていなくても、心配の度合いに他人事感覚の浅さはあるのは否めない。
遥がここに染まらないのは、いろんな隠微が絡みあっていることを思うと、別段おかしいことでもないのかもしれない。両親はよそよそしく、僕は偽善的で、教師はにぶくて、クラスメイトは敬遠している。
僕たちと遥は、お互いに取っかかりがないのだ。希摘も言っていた。完璧に接するのは、無視と同じだ。僕たちは完璧にやろうと思うあまり、遥をないがしろにしていないだろうか?
こういう考えてることを行動に表せないのも悪いんだよな、と僕はかばんがはじく水滴をはらい、鳥もいなくて静かな電線をくぐって、家に到着した。
たたんだ傘は紐で留めずに外に置くと、「ただいま」と僕は玄関に肩をもぎそうな荷物をおろした。垂直の雨に傘が活躍してくれたけれど、肩や足元は濡れている。
遥の黒いスニーカーはなかった。昨夜はついに帰ってこなくて、今日学校でも逢わなかった。どこ行ってんだか、と靴を脱いでいると、物音を聞きつけたかあさんが駆け足で顔を出す。
「あ、何だ。悠芽──おかえりなさい」
「何だって何」
「遥くんかと思って」
「帰ってこなかったの?」
「ええ。学校で見た?」
「ううん。友達といるんじゃない?」
かあさんは僕に顰蹙を向けた。先日の呼び出しで、かあさんは教師に、遥が素行の悪い生徒とつきあっているのを知らされている。必然夜遊びにも筋が通り、両親は遥を咎めるべきか思案している。
かあさんが持ってきたタオルで水滴をはらうと、かばんも拭いて、二階にあがった。制服を着替えるとシャツは洗濯に出し、りんごジュースの缶を連れて部屋に戻る。
ヘッドホンで音楽を聴いて宿題を始めても、気だるさが集中力をたゆませて、手先が導き出す答えが頭に染みこまない。
缶を取ってプルリングを開けると、ジュースは甘ったるい匂いがしたけど、味は酸っぱかった。
窓の向こうでは、灰色の雨が続いている。僕はシャーペンを放って、本棚から選んだ空の本を広げた。
遥には、こういう気が休まる趣味もないのだろう。何か見つければいいのに、と思っても、それが暴力や薬になれば終わりだ。
僕はページをめくって、心をまとめようとしたけれど、気持ちはどうしてもその美しい夕映えより窓の陰気な雨だった。
【第三十章へ】