Blue hour-6

あの海に

 今年のゴールデンウィークは十連休で、喜ぶ人もいれば嘆く人もいた。僕の会社は、週休二日ではあるけれど、一階の店舗と連動していて土日祝だから休みということはない。連休は店舗に駆り出される人が多くて、そのぶん裏方の仕事は人が少なくていそがしい。僕も在庫を見ながら発注する本の部数を決めたり、お客さんの予約や取り寄せを出版社に注文したりながら、特典ペーパーやキャラクターのしおりを本にはさむ作業も手伝う。五月三日がオフの予定で、その日に会えそうだと希都には伝えていた。
 僕は飲める場所とかあんまり分からないから、会う場所は希都に任せた。夕暮れがゆったり降りてくる十七時に落ち合い、希都は自分の勤める会社の駅前にある居酒屋に連れていってくれた。
 ちなみに希都は出版社で編集者の仕事をしていて、締切が前倒しになる進行とやらで、ゴールデンウィークとお盆と年末年始はちゃんと休める。それ以外は、作家さん次第で大変なようだけど。フェアのときには、サイン本を調達して僕の勤める会社の店舗に置いてくれたりもする。
 そのへんの礼も言いつつ、開店したばかりでまだ静かな居酒屋のボックス席に着いた僕たちは、ウェイターにまずドリンクを注文した。
「ずっと既読さえつかなかったから、心配してたよ」
 お通しのトマトのマリネをつつきながら希都が言って、「ごめん」と僕はお冷やをひと口飲みこむ。五月に入って、急激に気候が初夏になって今日もちょっと暑かった。
「既読ぐらいつけろって、聖空さんにも言われたんだけど」
「聖空さん、って優空ちゃんのおねえさんか」
「うん。優空のご両親の様子も教えてくれる」
「ご両親も、やっぱ落ちこんでるよな」
「そう、だね。僕は挨拶にも行かなきゃいけないんだけど」
「まあ、気力ができたときでいいだろ」
「……うん」
 僕も割り箸を割って、玉ねぎの乗ったトマトを食べる。冷たくて、黒胡椒が効いている。
「今日も無理はしてないか?」
「大丈夫。そろそろ、友達に会うとかはしないと」
「そっか。早いな。来月でもう半年か」
「半年……そんなになるね」
「仕事はちゃんと行けてる?」
「はは、仕事しかちゃんとやってないよ」
「真永は家事とかもよくやってたほうだろ」
「今はぜんぜんできてない。洗濯をやってくるくらいだよ」
「てか、まともに食ってなくね?」
「食べないか、食べてもインスタントとかコンビニで適当に買った奴かな。料理は何もやってない」
「それで仕事だけはやってると、いつか倒れるぞ」
「……そうだね。気をつける」
 そのとき、注文した僕のレモンサワーと希都のカシスソーダがやってきた。とりあえず僕たちは乾杯して、ドリンクに口をつける。「何か食えそうなの頼むか」と希都はメニューを開き、「食欲がないってわけじゃないんだけど」と僕も覗きこむ。
「食べるのが億劫というか……普通に、お腹は空くんだ」
「じゃあ今日は食いなさい。おごるから」
「いや、割り勘でいいけど。ここ、何がおいしい?」
「豚の角煮かな」
「じゃあ、とりあえずそれは食べるよ」
「よし。あとは何だろ、もつ煮込みか。軟骨のからあげもいい」
 メニューをめくって吟味してくれる希都に、変わらないなあ、と僕は小さく笑ってしまう。
 希都は親友だけど、その前に近所で育った幼なじみでもある。社会に出てからは優空が僕を気にかけてくれたけど、学生時代までは希都が引っ込み思案な僕をよく守ってくれた。同じクラスだった期間も多く、孤立しそうになった僕の手を引っ張っていたのは、いつも希都だ。家の中のことは話していなくても、そこで僕があんまりくつろげなかったことは知っていて、そのぶん家の外ではストレスを感じないようにしてくれた。同い年なのだけど、面倒見のいい兄のようで、昔から周りにも頼りにされていた。もちろん女の子にもモテて、今も瑞奏みずかちゃんという年下の恋人がいる。
 僕が奥手で、女の子と仲良くなるのが下手なのを希都はよく知っていたので、初めは優空を紹介しても若干警戒したりしていたのだ。それもこれも、僕が照れて無口になっていたのが悪いのだけど。「無理に押し切られてるとかじゃないな?」とか確認されて、僕は慌ててずっと優空が好きだったことも優空が僕を支えてくれていることも話した。それを聞いて希都はさいわい納得し、「真永をよろしく」と優空に頭を下げていた。
 疑われたような優空はむくれていたものの、僕が希都に懸命に説明した想いに機嫌を直して、「任せてください」とにっこりしていた。そのうち、希都の担当作家さんの作品を優空が読んだことがあるのが発覚して、次第にふたりは打ち解けてくれた。
「何か笑ってるし」
 料理を注文した希都に言われて、「希都に優空を紹介したとき思い出して」と僕は素直に答えた。すると希都はばつが悪そうになり、「あのとき、優空ちゃんを警戒したの、かなりあとまで言われたよな」と頬杖をつく。
「僕と優空をさらっと祝福しなかったの、希都くらいだから」
「何だよ、それ。だって、真永っていつも告られても一番に俺に相談してただろ」
「そんなに何回も告白されたわけじゃないけど」
「好きな子がいる話も聞いてなかったしさ。聞いてたら、ちゃんとすぐ『おめでとう』って言ってたぜ」
「あの頃、僕も希都もまず仕事が大変で、そんなに連絡取れなかったし」
「春に出逢って一年半くらいつきあってなかったんだろ。話す機会あったと思うけどなー」
「う……それまで自分は恋愛と無縁だろうなと思ってたし。二十年くらいそうだったんだから、いまさら恋愛相談とか恥ずかしかったんだよ」
「俺、何にも聞いてなかったもん。ほんと何も知らなかったもん。告られても『怖い』とか言ってた真永が、いきなり彼女連れてくるとは思わないじゃん」
 僕は苦笑いして、「優空もそのへんはあとで分かってたから」とレモンサワーの瑞々しい酸っぱさを飲みこむ。希都は頬杖をついたまま、「だからさ」と言葉をつなげる。
「結婚って言ってきたら、絶対『おめでとう』ってすぐ言おうと思ってた」
「そっか。ほんとは、プロポーズしてたんだよね」
「そうなのか? また言われてない……」
「いや、亡くなる何日か前に言ってたんだ。指輪も用意してなかった。年が明けたら退院できそうって話だったから、そしたら籍を入れようって」
「退院できそうだったのか?」
「あの一週間前に危篤にはなったけど、そのあとは落ち着いてたし。年明けまでこの調子だったらって」
「そうか。癌だよな。どうなるか分かんねえもんか」
「クリスマスっていうのも、ショックだな。絶対忘れられないし」
「忘れたい?」
「そういうわけじゃなくても、もう、一生クリスマスはしんどいかなって思う」
「……そうだな」
 そんな話をしていると、料理が運ばれてきた。蕩けそうな豚の角煮や味噌が香ばしいもつ煮込み、たけのこの炊きこみご飯、僕は久しぶりにきちんとした食事を取った。何かを食べて、おいしいと思うのも久しぶりだ。そう言って「やっぱ誰かと食べるのは違うな」とつぶやくと、「またいつでも飯くらいつきあうよ」と希都はにっとしてくれる。そんな希都に「瑞奏ちゃんとは順調?」と訊いてみると、「あいつは今、俺よりも二十代ラストを満喫してるな」と希都は笑いを噛む。
「三十までに結婚してほしいとか言わない?」
「むしろ、『今、結婚してるヒマない』って言われる」
「変わった子だよね」
「もしかして浮気も楽しんでないかって言う奴もいるけど、それはなさそうなんて自由にさせてる」
「自由か。希都って過保護なほうなのにね。僕にもそうだけど」
「過保護って。面倒見がいいんだろうが」
「瑞奏ちゃん、見た目は確かに希都のタイプだなあと思ったけど。性格がだいぶ今までの子と違う」
「そう、見た目はな。おとなしいお嬢様なんだよな……見た目は。でも中身は男にエスコートされるの興味なしというか、『あたしについてこい』というか、かなりイメージ裏切られてばっかなのに、俺は瑞奏以外ちょっと無理くらいになってる。何で?」
「好きなんだね」
「お嬢はお嬢でも、マフィアの娘かよってなる……」
 愚痴のようでそれだけ惚れこんでいるのろけだと思うので、僕は微笑ましく聞いている。希都もそれに気づくと照れたように笑ってみせて、「そういえば」と思い出した顔になる。
「その瑞奏がさ」
「うん」
「夏の海に真永のこと誘おうって言ってるんだけど」
「海」
「優空ちゃんが病気になるまでは、夏によく一緒に海行ってたじゃん。近くのペンション泊まって」
「あー……、でも、あの海は」
「優空ちゃんとの初めてのデートで、しかも告られた場所」
「……まあ、そういう想い出が」
 炊き込みご飯を食べながら視線を下げると、「俺もそれ瑞奏に言ったけど」と希都はもつ煮込みの小さな鍋に杓子をもぐらせる。
「瑞奏はさ、自分が死んだら、想い出の場所は避けるより通ってほしいって言ってたよ」
「避けるより、通う」
「通うというほど行かなくてもいいんじゃねとは思うけど。避けてるあいだは、忘れてるってことだろ。でも、想い出の場所にいるあいだは、優空ちゃんのこと考えてるってことじゃん。確かに、優空ちゃんもそっちのほうが嬉しいのかもしれないって俺も思う」
 優空のことを考える。……考えて、いいのだろうか。考えても、僕は泣いてしまうだけなのに。それは優空にかえって心配をかけないだろうか。そうぼそぼそと伝えると、「泣けるときに泣いておいたほうがいいよ」と希都は僕の肩をたたいた。
「泣きたくてもうまく泣けなくなる日が、来ると思うからな」
「……それ、は」
「誰かが死んでも、自分は生きていってるってことは、そういうことだと思う」
「……忘れるってこと?」
「強くなるんじゃないかな。にぶくなるって言う奴もいるかもしれないけど」
 僕はうつむき、事あるごとに優空を想って泣いている自分を振り返る。そして、確かにいずれ、こう毎日優空に浸ることはなくなっていくのだろうとは思った。だとしたら、優空の存在が僕の心で生々しい今だから、想い出の場所も訪ねて、思い切り泣くのはいいことなのかもしれない。
「じゃあ、海……行こうかな」
 僕がそう言うと、希都は僕を見て微笑み、「おう」と答えた。
 そこに行って、僕はまた泣くのだろう。あのとき腕の中に抱きしめた優空が、もういないことに愕然とするのだろう。それでも僕は優空との想い出に会いにいこう。そうすることで、優空の魂が報われるのなら、僕はあの金色から深い青になる時間に、またあの海を見よう。

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