ポラリス-1

温もりに冒されて

 帰りたくないなあ──
 ぼんやりとそう思う頭を窓にもたせかけ、かたんことんという電車の律動を聴く。午前零時半、いつも乗る終電。各駅停車で、私は地元まで三十分揺られる。
 同じ車両に乗っているのは、酒臭いサラリーマン、ケータイに夢中なOL、イヤホンで音楽を聴く学生とか。始発駅から乗る私は、いつも一両目の一番手前の座席の隅に座る。十二月の初め、車内は暖房がきいて、むしろちょっと暑い。
 ロングヘアはお手入れが面倒臭い。だから先月の終わりに、伸びてきた髪をいつも通りショートにした。そしたらママに怒られた。伸ばして巻いたりすればいいのに、ショートなんて子供っぽくて色気がないと。でも、上手にセットできていないロングヘアはそれはそれで文句言うんでしょと思う。
 八月に十九歳になった。九月から水商売を始めた。お金が欲しかった。一刻も早く、家を出る資金が欲しかった。でも風俗は怖い。求人誌にたくさん載っているクラブやラウンジの広告を吟味し、今働いている店に電話をかけた。
 吐きそうなほど緊張して面接を受けたら、あっさり採用された。それから三ヵ月が経った。うまくしゃべれない。お酒が飲めない。ノリが悪い。同伴しない。ママはいらいらしながら、十一月のお給料を渡すとき、私の時給を千円下げると言った。
 父親みたいな年齢のおじさんとの話題なんて、私には分からない。下ネタも処女の私には理解できない。お酒を飲めないのは未成年だから当然なのに、烏龍茶は白けると言われる。
 ああ、向いてない。
 そんなことにはとっくに気づいていても、やっぱり少しでも収入がないと、あの家から遠ざかれなくて不安だ。ママが私の「辞めます」を待っているのは分かっている。だから時給をがくんと減らされてもずるずると働いている。こういう鬱陶しい奴だから、学生時代はイジメられたんだろうなと思う。
 高校をやっと卒業して、楽になれると思ったのに。大学に行けばよかったのかな。でも、やりたい勉強が最後まで思いつかなかった。それより、働いて家を出たかった。
 時給にこだわらず、昼の仕事を探せばよかったのかな。そっちのほうが、気も楽でかえって長続きしそうだったかな。あるいは、今からでもそういう仕事を探すのも遅くないのだろうか。
 私は首をくたりと垂らし、けどもう疲れた、と着替えの入ったリュックを抱きしめる。
 ママは私に鬼みたいに厳しいけど、お姐さんには私を励ましてくれる人もいる。私がライバルにもならないザコだからだろうけど。店に入ったとき、私は化粧のやり方もよく知らなかったから、お姐さんに教わった。
 黒服の男の人も優しい。まあ女の子には優しくしておくのが仕事ではある。それでも、スカートの中に手を入れようとされたりしてるとき、助けてくれるのはありがたい。お姐さんと黒服さんがいなかったら、さすがに「辞めます」と言い出していたかもしれない。
 私は週五のフル出勤をしているから、明日も仕事だ。やだなあと目を閉じて、座席に沈みこむ。家に帰りたくない。仕事にも行きたくない。学校に行きたくなかった頃と何も変わっていない。居場所がない。
 地元に着くのは午前一時頃で、家までは歩く。道路は静まり返って、息が白くこぼれていく。空気がきんと冷え切っていて、私は赤のタータンチェックのマフラーを結いなおした。信号が黄色を点滅させている。
 吸いこむような夜空は澄んで、月だけでなく星の光まで見取れる。憂鬱な吐き気がじわじわとこみあげ、歩調をにぶらせる。少しでも遅く帰れば、あいつらは就寝しているかもしれない。それでも、十五分もすれば一軒家の家並みの中にある自宅に到着する。
 家には明かりがついていた。まだ起きているのだ。私はうんざりして、門扉の前の階段にしゃがむ。コンクリートがひやりとしても、体重をお尻にかけてへたりこむ。冷え切った空気で頭がずきずきする。膝を抱えて、早くどっちも寝ないかなあと白い息を吐く。
 すぐに怒鳴りはじめる父親。神経質にいらいらしている母親。何で私を作ったのか分からない。父親は私のことを出来損ないだと言う。母親は私と話したくもないと言う。
 私が大学に進むよくできた娘だったらよかったのかな。思い通りのいい子じゃない私なんか、いらないんだろうな。私もあんたたちなんかいらないし。どうしたらいいのか分からないとき、せめて家が居場所だったらよかったけど、私は家にいるのも息苦しい。
 鼻水をすすって、かじかむ指でケータイをいじっていた。バンドや漫画家の公式アカウントばかりのTLが流れていく。
 たまに家の中から大声が聞こえてくる。そのときは私は目をつぶり、嫌悪と恐怖が混ざったものがこみあげるのに耐える。幼い頃は、切れる父親が本当に怖かった。それから守ってくれない母親に不安が募った。
 父親は恥知らずに怒声を上げるから、母親が道端を通りかかると、近所の人がひそひそ話をする。それに気づかないふりをしつつ、腹では母親はまたいらついている。
 小学生のとき、「おうち、大丈夫?」と私も近所の人に声をかけられたことがある。私は顔を伏せ、「大丈夫です」と早口に言うとその場を駆け出した。
 ──どのくらい、そこで待っていただろう。門燈がふっと消えた。私は顔を上げ、家の明かりがいつのまにか落ちているのに気づく。やっと寝た、とゆっくり立ち上がり、固まった膝や腕をさする。
 眠くなってきた。化粧だけ落としたらさっさと寝よう。シャワーは明日の昼間、父親も母親も仕事に出ているときでいい。
 門扉を抜けると庭を横切る。うまく動かない手先で鍵を取り出し、玄関をそうっと開ける。
 音はしない。光もない。隙間から家の中を覗き、誰の気配もないのを確認する。
 軆をドアにすべりこませ、音を殺して閉めたドアに鍵もかける。長年住んでいる勘で、明かりがなくても靴を脱いで家に上がれる。外よりだいぶ寒くないものの、それでもかすかに震えながら、一気に目の前の階段で二階に上がって部屋にこもった。
 職場でも家庭でも、私は必要とされていない。それがとても苦しいけれど、どうしたら人が私を受け入れてくれるのか分からない。だから、もうひとりぼっちでいいと思う。
 自立して、自分で食べていきたい。ママには怒られてばかりで、うまくできていないけど、人一倍、働いて自分の居場所を持ちたいとは思っているのだ。職場で貯金して、家庭を離れて、あとは細々と生きていけたらいい。誰にも関わらず、ひとりで。
 化粧を落とすとベッドに倒れこみ、ワンピース着替えなきゃ、と思っても軆が動かなかった。頭がぐらぐらして眠たい。暖房が軆にじんわり染みこんで、解凍された肌が今度はほてってくる。まぶたが重くて、眼球がきしむ。
 たまに風が強く吹いて、雨戸まで閉めきった窓を揺らす。まくらに顔を伏せ、もういいや、と意識を取りこぼしていく。物音がうるさかったら、あいつらが何か言ってくるかもしれないし──すぐに私は、電気も消さずに睡魔にさらわれていた。
 翌日、いつも通り昼過ぎに起きてシャワーを浴びた。冷蔵庫から適当に朝ごはんを食べて、十五時半頃に支度を始める。十六時半を家を出て、十七時三分の電車に乗って、終点まで出る。地下鉄に乗り換えて、歓楽街の真ん中の駅に向かう。見るからに水商売の女がちらほらしはじめ、中には同伴らしく男と一緒だったりする。
 今日は金曜日だ。同伴しなかったのを、またママになじられるだろう。雑居ビル五階の店に到着して、「おはようごさいます」と黒服さんとお姐さんに挨拶して二十時前にタイムカードを切る。
 金曜日なのに、今日はあまりお客さんが入らなかった。店で待機せずに一階のバーで飲んで、ときおり様子を見に来るママは、みるみる機嫌を損ねていく。「同伴しない子がいるから」と毒々しく吐き捨て、こちらをぎろりと睨んできた。
 気づかないふりをして接客していたものの、話題を振られても何度も言葉につまずく私に、お客さんはいらだってきて、ついには「帰る」と言い出した。お姐さんたちが「寂しいよお」なんて言って引き止めようとしたけど、「こいつがいるから酒がまずい」とそのお客さんは私を睨んで、ママに支払いをして店を去ってしまった。
 それでお客さんが店内から途切れてしまった。ママは私を一階のバーに連れ出して、延々と嫌味をぶつけてきた。私は怒るより疲れてきて、「辞めろってことですか」と投げやりにつぶやいた。するとママは、「何であんたはそんなに根暗なのっ」と頭痛でも感じているみたいに歯軋りした。
 私はマスターが出した烏龍茶に手もつけず、その水面を見つめた。
「しゃべれない、飲めない、咲わない。あんたなんか、ソープで脱ぐしか才能がないわよ」
 ママを見た。「言いすぎだよ、ママ」とマスターが言う。けれどママは煙草を吸って謝らない。私はため息をつくと、腕時計をちらりとして、「終電なので帰ります」とスツールを立った。「せめてアフターまでつきあえないものかしらね」とママは言っていたけど、無視してバーを出た。
 帰り道、ママに言われたことを思い返していた。思い出すほど、なぜそこまで言われなくてはならないのかと思う。でもどこかでは言われたことが正しいのも分かっている。私は同伴が嫌だし、暗いし、ろれつがまわらないし、性玩具にでもなっておくしかない。いや、きっとソープ嬢でも最低限の愛想や技巧は必要だ。
 本当に、何の才能もない。生きている価値がない。
 地下鉄の終電に乗って、いつもの零時半発の電車の手前の座席の隅に座る。ぐったり手すりにもたれ、まるで酔っぱらっているみたいに首を垂らす。その体勢のまま、自分がろくでなしだとひしひし感じていると、喉に切り傷ができたみたいになって、呼吸のたびに涙があふれてきた。電車が動き出しても、そのまますすり泣いていた。
 つらい。苦しい。もうやだよ。死にたい。私は生きてる資格がない。
 そのときだった。手すりにかかっていた手に何かが触れた。こわばった私の手を、その知らない手はつかんで、握ってくる。
 いつのまにか、私のかたわらに立ってドアにもたれている人がいることに気づいた。大きな手は、おそらく男の人の手だと思った。
 何? 誰?
 ……痴漢?
 そう思い当たったのに、不思議と恐怖はなかった。なぐさめてくれてるのかな、とすら思って、私は手から力を抜いた。言葉はかかってこない。ただ伝わってくるのは知らない体温で、なのに嫌悪感もない。
 誰かが私の手を取ってくれたことに、ほっとしてしまった。その人は背を向けたまま動かないし、私も泣いていて顔を上げられない。どんな人かは分からない。でも手は確かに温かくて、私の手を包んでいる。
 ああ、私、変だな。寂しくて、つらくて、おかしいよ。他人にいきなり手を握られて、気持ち悪いどころか安堵してしまうなんて。
 かたんことん、と何駅か通り過ぎていった。つながる手に熱を感じる。この人がどこで降りるかも分からないし、このままではいられない。私の最寄り駅に着いてもこうだったら、さりげなく手を振りはらって降りるしかない。
 そのとき、顔くらい見たほうがいい? 見ないほうがいいかな。電車を降りたら、きっと二度と逢うことはない。せっかく、私の手をつかんでくれたのに。
 どこかの駅のホームが近づいて、電車がゆっくり減速する。私の最寄り駅じゃない。涙は止まったけど、睫毛は水気で重い。緩くため息をついたとき、停車した電車の扉が開いて、冷気がすうっと車内に入ってきた。
 そして、不意につないだ手が私をぐいと引っ張った。
「……え、」
 思わず声をもらすと、答えるように男の人の声が降ってきた。
「降りよう」
 低い声だった。顔を上げた。黒いコートの背中と、短髪の後頭部。こちらは見ない。でも、つないだ手は、私の手をもう一度引っ張って──
 私はふらふらと座席を立ち上がると、その背中を追って見知らぬ駅に降り立っていた。
 改札付近以外は周りの明かりもない、真っ暗で静かな駅だった。びゅうっと厳しい寒風が吹きつける。最終電車が動き出し、闇に溶けていく。
 これで、今夜は帰れない。ううん、帰らなくていい。私と手をつなぐ男の人は、心許ない街燈の下まで歩いてから、私を見下ろしてきた。

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