ポラリス-3

生きていくなら

 髪を撫でられている感触がする。私が少しうめいて身動ぎすると、「佳琴」と名前を呼ばれた。
 知らない声。男の人の低い声。
 私は薄目を開けて、霞んだ視界の向こうに人影を認める。温かいベッドの匂いが、いつもと違う。
 しばらく考えて、ようやく自分が昨夜見知らぬ男の部屋に泊まったことを思い出した。名前何だっけ、と一瞬思ったものの、そう──
「奏弥、さん……?」
「おはよう」
 まばたきをして瞳を光に慣らし、奏弥さんがベッドサイドに腰かけて私の髪を撫でているのに気づく。「くすぐったい」と少し咲うと、「ごめん」と奏弥さんはすぐ手を引いた。
「もう起きてたの?」
「十時だよ」
「……そっか、私いつも昼まで寝てるから」
「朝ごはん、食べれそう?」
「あ……うん、食べる」
「じゃあ、仕上げて持ってくる」
 奏弥さんはベッドを立ち、廊下に出ていった。私は上体を起こして髪に触れた。髪撫でてただけだよね、と思っても実際のところは分からない。まあ服は乱れていないし、たぶん大丈夫か。
 トイレ行きたいな、と思って私はベッドを降りた。そっと廊下を覗いてみると、奏弥さんはキッチンでフライパンをあつかっていて、炒める音と匂いがしていた。
 物音に気づいたのかこちらを見た奏弥さんは、「どうしたの」と首をかしげる。私は躊躇ったものの、「お手洗い借りていいかな」と言ってみる。奏弥さんはうなずき、昨夜顔を洗ったとき入ったユニットバスのドアをしめした。
 私はそのドアの中に入ってトイレを借り、洗った手をかかっているタオルで拭く。また廊下に出ると、バターのいい香りがふんわりただよっていて、奏弥さんの手元を覗きこんだ。
 フライパンの中で、ふっくらしたオムライスができあがりつつあった。破れたりしていなくて、きつね色で、すごくおいしそうだ。
「料理うまいんだね」と昨日も親子丼がおいしかったのを思い出しながら言うと、「ずっとひとり暮らししてるから」と奏弥さんは火を弱くする。
「いくつのときから?」
「十五」
「え、高校は」
「行ってないよ」
「そうなんだ……私も、高校行きたくなかったな」
 睫毛を伏せてつぶやくと、奏弥さんは火を止めてフライ返しを置いて、私の頭をぽんぽんとした。それからフライ返しを持ち直し、オムライスのかたちを整える。
 私は奏弥さんを見上げて、「私が悪かったんだって」と言葉をつなぐ。
「イジメられたけど……それは、私がみんなみたいにできないから、それが悪いって。親はそう言ってた。話し合いで先生に謝ったあと、恥をかかせる娘だって怒られた」
 奏弥さんはオムライスをお皿に移し、「はい」と渡してきた。私はオムライスの熱が伝わって温かいお皿を受け取る。奏弥さんは冷蔵庫を開けて、ケチャップを取り出してオムライスに無造作にかけた。
 何にも言ってくれない、と何だか恥ずかしくなってさっさと部屋に戻ろうとすると、「佳琴」と呼び止められた。
「俺は、佳琴をイジメないし、怒ったりもしない」
「……うん」
「だから、一緒にここにいよう」
 奏弥さんの相変わらずマネキンみたいな無表情を見つめた。昨夜、電車で突然手を握ってきた、痴漢みたいなストーカーみたいな、怪しい男なのに。そんな男から、何だかプロポーズのような言葉を言われて、私はどこかで嬉しいと感じている。
 奏弥さんはスプーンを手にして私に追いつき、「廊下寒いから」と部屋に入るのをうながした。私は部屋に入り、ベッドサイドに座ると、スプーンを受け取ってオムライスを食べはじめた。
 中身を包むたまごも、中身のケチャップライスも、やっぱりおいしい。
 母親はいつも料理をするのが面倒だとぼやいて、しかし手料理じゃないと父親が切れるので仕方なく何か作って、いらいらしながら切ったり混ぜたりしていた。愛情なんてひとかけらもこめていないその背中を見たあとで、食べるときにおいしいとかあまり言えずにいると、母親は父親の手前文句は言わないものの、苦々しい顔をしていた。
 私は奏弥さんをちらりと見た。奏弥さんは私を見つめて、私の口元のケチャップを指先でぬぐうと自分で舐めた。
「奏弥さん」
「うん」
「私のこと、ほんとに好き?」
「うん」
「あいつらから、私を守ってくれる?」
「守るよ」
「もう私は、ひとりじゃないの?」
「俺がそばにいてあげる」
 私はお皿を膝に下ろすと、奏弥さんの肩に少しだけもたれてみた。私もそうとう異常だと思ったけど、今はこの体温に寄りかかりたいと思った。
 オムライスを食べ終えると、奏弥さんは私が使った食器を洗って部屋に戻ってきた。二十三歳、だっけ。そして、十五歳からひとり暮らしをしている。「仕事には行かないの?」とそろそろと訊いてみると、奏弥さんは一瞬虚ろな瞳を見せたあと、「うん」とうなずいた。
「サボるの?」
「家でするから」
「内職?」
「似たようなものかな」
「……ふうん」
「仕事のときは、人が来るから」
「え、そうなの」
「その人が帰るまで、ユニットバスにいて」
「何時間も?」
「三十分くらい」
「……分かった」
「なるべく早く終わらせるよ」
 奏弥さんは私の手を握った。私はその手を握り返し、「嫌な仕事?」と訊く。奏弥さんは「嫌だけど、ほかに才能ないから」と顔を伏せた。私の手を強く握りしめてくる。
 その日は、別におもしろくもないテレビを眺めて、奏弥さんと手だけつないで過ごした。昼ごはんにはピザトースト、夜ごはんにはごはんと白身の焼き魚を出してもらった。
 何かされるかなあ、とも思ってたまに奏弥さんを盗み見たけれど、手を握っているだけだった。もしかしてこの人もセックスなんてしたことないのかも、と思い当たり、そんな気がしてきた。処女くらいあげてもいいけどな、といい加減なことを思っていたとき、昨日の夜から放っていたバッグの中でケータイの音がした。
 どきんと肩をこわばらせる。とっさに手を伸ばせずにいると、「ケータイ」と奏弥さんが首をかしげた。
 親……から、とか、あるかな。部屋にこもっていると思っているだろうとしても、靴がないとかで気づくかもしれない。あるいは、ママが月曜から来るなと釘を刺す連絡をよこしたとか。
 私が動けずにいると、奏弥さんが代わりに私のバックに手を入れ、ケータイを取り出した。画面を見た奏弥さんは、「大丈夫だよ」と私にケータイを持たせた。私はこわごわと点燈している画面を見る。
『残り3%
 充電してください』
 一気にほっとして、心臓が吹き返し、その安堵に帰るなんていう選択肢がなくなっている自分に気づいた。
 怖かった。本当に怖かった。またあの生活に引きずり戻されるのかと、怖くてたまらなくなった。
 ぎゅっと唇を噛みしめると、そのままケータイの電源を切った。これで、また充電して電源を入れない限り、誰が何を送ろうと何も届かない。私は充電器を持っていないから、受け取れなくて仕方ない。これでいい。
 私がケータイをバッグに戻すと、奏弥さんはまた手をつないだ。その手の感触に集中して、奏弥さんに寄りかかった。「大丈夫だよ」と奏弥さんは繰り返して、向こう側の右手で私の頭をぽんぽんとした。
 そうして、ずっと前からそうしていていたように、私は奏弥さんの部屋で暮らしはじめた。服は奏弥さんのものを借りて、下着はコンビニで買った。食料がなくなると、一緒に近くのスーパーに買い物に行った。
 奏弥さんは私が食べたいものを訊いてくれて、私はハンバーグとかグラタンとかお子様なメニューを答える。奏弥さんはケータイで材料を調べて、レシピを見ながら私がリクエストした料理を作ってくれた。
 一日中テレビを観ていてもつまらないので、近所のレンタルショップで一本百円の旧作の映画を借りてふたりで観た。私は奏弥さんの肩にもたれて、奏弥さんは私の手を握る。土日が終わって月曜日になってもそうだったし、一週間くらいあっという間に過ぎた。
 土曜日の朝、奏弥さんのケータイの着信音で目が覚めた。ぬくぬくしたベッドから霞んだ目でそちらを見ると、すでに起きた奏弥さんはめずらしく電話に出ていた。小さな声で「はい」とだけ繰り返している。
 私がじっとそれを見ていると、「待ってます」と最後にぼそっと言って奏弥さんは電話を切った。私の目にようやく気づくと、少し疲れたような表情を見せて、「昼から人が来るから」と私の髪を撫でる。
「仕事?」
「うん。ユニットバス、寒いと思うけど」
「大丈夫。人に見つかったらまずいもんね」
 私が起き上がると、奏弥さんは息をついて私の手を握った。
「佳琴と暮らしていけるように頑張るから」
「……うん」
「俺を嫌いにならないで」
 奏弥さんを見つめて、好きだよと言っていいものか迷ったので、「奏弥さんのそばにいる」と言った。奏弥さんは上体を折って、私の膝に頭を預けた。私は躊躇ったものの、いつもしてもらっているように奏弥さんの頭を撫でた。奏弥さんは目を閉じて、しばらくそうしていた。
 朝ごはんにフレンチトーストを食べて、奏弥さんは部屋を軽く掃除した。チャイムが鳴ったのは、十二時前だった。私はユニットバスのドアの中に隠れた。鍵を開ける音がして、ドアを開く音に「奏弥くん、元気にしてた?」という女の声が続いた。
 女、とつい胸にざわりとしたものを感じつつも、「普通です」という奏弥さんのかぼそい声には張りがない。「奏弥くんはいつもそれだなあ」と女の声は気にした様子もなく咲い、ふたつの足音が廊下を抜け、室内に入っていったのが聞こえた。
 私はふたを閉めたトイレに座り、女とは思わなかった、と膝に頬杖をついた。訊かなかったけど、仕事って何なのだろう。やってきた女が仕事を持ってくるみたいだけど、内職とかなら私も手伝うのに。
 というか、女なんてどこから湧いてきたのだろう。ただ仕事を持ってくるだけにしては、奏弥くん、と親しげだった。奏弥さんは高校にも行っていなかったと話していた。高校よりもっと前の知り合い? 幼なじみとか。いや、そういう女の人がいるなら、私なんかよりその人を好きになるか。
 私はドアを見つめて耳を澄ました。そうすると、相変わらず泣いている子供の声が聞こえる。どこの部屋の子だろうなあ、とか思いながら、しばらくはじっとトイレのふたの上に座っていた。
 でも、そんなに経たずに退屈になってきた。思っていた以上に冷えるし、手持ち無沙汰だし、本とか持ってこればよかった。ため息をついて、ぼんやりシトラスの芳香剤の匂いを嗅ぐ。
 部屋からの物音は何も聞こえない。何やってるんだろ、という疑問がふくれあがる。ふたりで黙々と作業しているの? ちらりと隙間から覗くくらいなら、気づかれないかな。せめて、ドアに耳を当てて、音を聞いてみるくらいなら。
 そう思いはじめると、おとなしく座っていられなくなってくる。躊躇したものの、ドアノブに手をかけて廊下に出てみた。冷え切っていた爪先が歩くとじんと痛む。忍び足でドアまで廊下を進むと、ぼんやり話し声がした。どんな会話かまでは聞き取れないけれど、代わりにはっきり聞こえた音に目を開いた。
 ベッドが、きしんでる──
 え。えっ? 何? 奏弥さん、その女としてるの? 何なの。それが仕事? どういうこと。訳が分からない。まさか、奏弥さんは女の人と寝ることが仕事なの?
 湧き起こる不安に侵されて、トイレのふたの上で背を丸めていた。ふと「じゃあまた来るからね」とさっきの女の声がした。はっと顔を上げると、足音が通り抜けて靴を履く音が続く。
 奏弥さんはそこにいるのかな。分からない。
「たまに外に出かけるように」
 女の声に「はい」と返事があって、奏弥さんがドア一枚の向こうにいるのを察する。がちゃっとドアを開ける音がして、「何かあれば連絡してね」と残して女が出ていったのが分かった。
 ドアが閉まって、その途端にどさっと倒れこむような音がしたので、私はおそるおそるドアを開けた。

第四章へ

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