ポラリス-4

泣いている子供

 奏弥さんが蒼ざめて廊下に座りこんでいた。「奏弥さん」と私が肩に触れようとすると、奏弥さんは首を横に振った。そして、「汚いから」と消え入りそうな声で言う。
 汚い、って……
「女の人、だったね」
「……うん」
「お客さん……とか?」
 奏弥さんはまた首を横に振り、「保護者だよ」とつぶやいた。保護者。……親、ってこと?
 奏弥さんは一度引き攣った深呼吸をして、それでも眉を顰めたまま「俺を親から助けてくれた人なんだ」とつぶやく。
「助、けた」
「この部屋の家賃もはらってくれてるし、生活費もくれる。その代わり……その、」
「してた、ね」
「……うん」
「無理やりされてるの?」
「俺が、お礼はそれくらいしかできないから。全部教えてもらって、してる」
「すごくつらそうだよ」
「いつかは、できるようにならなきゃいけないことだから」
 私は奏弥さんの目線にしゃがみこんだ。「シャワー浴びなきゃ」と奏弥さんは身動ぎし、立ち上がろうとする。私はそれを抑えるように奏弥さんを胸に抱きしめた。
「佳琴、」
「奏弥さんは、私が好きなんでしょ」
「う、うん」
「私は、奏弥さんがしなくてもそばにいるよ」
「………、」
「そんなことしなくても、離れていかないよ」
「佳琴……」
「できるようにならなくていいんだよ」
 奏弥さんの肩がわななき、躊躇いがちに私の背中に腕をまわすと、すぐに小さく泣き出した。「それでも、あの人にはしなきゃいけないんだ」と奏弥さんは鼻をすする。
「俺がまともな男になるまで、離れないって言ってる」
「まともな男って──」
「働いて、結婚して、子供ができるまで離れないって」
 奏弥さんの頭を撫でた。奏弥さんはしゃくりあげて、私にしがみつく。
 何だろう。その女は、奏弥さんが好きなの? お金をあげていることにつけこんでいるの? 好きなのに、奏弥さんを苦しめていることに何とも思わないの?
 どこかで子供が泣いている。奏弥さんも幼い子供のように泣いている。
 私はその背中をさすりながら、私も働くべきかなと思った。けれど、ママに言われた言葉がまだ突き刺さっている。私だって、軆を売るくらいしかできない。ふたりして、軆を切り売りして生きていくなんてつらい。
 どうすればいいのだろう。何で私にも奏弥さんにも、真っ当な道がないのだろう。必要とされず、ろくな仕事さえない。ふたりで一緒に死んだらいいのかもしれない、と一瞬かすめた。
「奏弥さん」
「ん、うん」
「私がここにいると、邪魔じゃない?」
「佳琴がいるから、俺は生きてるんだ」
「でも、お金かかる──」
「やっと佳琴をこの部屋に連れてきたんだ。離したくない」
 口をつぐみ、奏弥さんの軆にくっついた。どこか甘い香りがするのは、女の残り香だろうか。
 冷えた廊下で抱きしめあっていて、軆が冷たくなっていったけど、長いあいだ私たちは動けなかった。
 例の女は、一週間に一回くらいの頻度でこの部屋を訪ねてくるらしかった。朝に電話をかけてきて、何時頃に訪ねると伝えると、その通りやってきて、奏弥さんに行為を強いて、帰っていく。隠れている私のことには気づかなかった。
 女が帰ると、奏弥さんは過呼吸になったり嘔吐したりする。私はその付き添って、ほかに仕事になることはないのか問うてみる。奏弥さんは涙をぽたぽた落としながら、自分は役立たずだから何もできないと言った。その気持ちは私も分かるから、強いことも言えずに奏弥さんを抱きしめる。
 今年のクリスマスイヴは週末だった。イヴにあの人が来たら嫌だなあ、と何となく思っていたら、前日の二十三日の土曜日に奏弥さんのケータイが鳴った。奏弥さんは虚ろな表情で受け答えしたあと、電話を切って、「夕方に来るって」とぽつりと言った。
「大丈夫?」
 奏弥さんはそう言った私をじっと見つめて、頬に触れてきた。「明日ゆっくりできる」と苦しそうだけどどこか安心したように言う。私は頬の奏弥さんの手に触れ、「そうだね」とうなずいた。
「佳琴は、クリスマスにしたいことある?」
「普通に、ここでケーキとチキン食べたい」
「分かった。お金もらえるからできるよ」
「……ごめん、奏弥さんにつらい想いさせて」
「いいんだ。佳琴のためなら、自分のためよりずっといい」
 頬に触れている奏弥さんの手は温かい。私はその手を指で絡め取り、ぎゅっと手をつないだ。「夕方までこうしてよう」と言うと、奏弥さんはこくりとして私の手を握り返した。
 いつも通り、食事を取るとき以外はテレビに映した映画を眺めていた。十六時前にチャイムが鳴った。私はユニットバスに隠れて、奏弥さんといつもの女が部屋に入っていく音を聞き届ける。
 ヒマつぶしに買ってもらった本があるけど、このとき、結局気が散っているからいまだに読み終わっていない。指先が冷えてくると、ポケットで温めておいた懐炉を握った。何となく殺していた息に胸が苦しくなって、小さくため息をこぼす。シトラスの芳香剤が静かにただよっている。
 初めてここに隠れたときより、どんどんふたりの時間は長くなっているように感じる。終わってここを出て、部屋の壁の時計を確かめると、やっぱり一時間も経っていないのだけど。
 今、奏弥さんは女を抱いている。そのことにもやもやしている自分もいる。奏弥さんに愛されているのには私なのに。私はセックスそのものをまだ知らない。奏弥さんは、どんなふうにその女に触れて、キスして、分け入っているのだろう。何で私がそれを知らないんだろう。
 いや、奏弥さんは働いているのだ。しかし、だとしたらどうしてだろう。なぜこんなかたちでしか、私たちは生きていけないのだろう。社会からはじかれて、奏弥さんは軆を売るようなことをして、私は何もできなくて。何でこんなにまともじゃないのだろう。
 また本のページをめくる手が止まっていると、不意に廊下で物音がした。「早くしないと」と急かすような女の声がして、「はい」と奏弥さんの抑揚のない返事が続いた。何だろ、と聞き耳を立てていると、ヒールの靴を履く音がする。やっと帰るのかとほっとしていたら、がちゃっとドアを開ける音、そしてまた靴を履く音がした。
 え、ととまどうと、そのままふたつの足音は出ていって、鍵のかかる音がした。私は息を飲みこみ、そうっと廊下に顔を出す。誰もいないのを確認してから、ユニットバスを出た。
 誰もいない。奏弥さんもいない。玄関を見ると、靴がひとつもない。私の靴は、もちろん隠してある。
 奏弥さん、あの女と出かけたの? どこに? 出かけるなんて聞いていない。女との時間が終わったら、あとはふたりだと思ったのに。
 取り残された不安が押し寄せて、部屋に戻って奏弥さんのメモとかないか探してみる。ない。あるわけないか。女の前で書き置きなんて残せるはずがない。それでも、何か残してくれないと、私だけ置いていくなんて怖くなってくる。
 すぐ帰ってくるのかな。分からない。いつ帰ってくるの? それくらい分からないと落ち着かない。
 つけっぱなしの明かりの下に突っ立っていると、視界が滲んできた。明日はクリスマスイヴで、もしかしてデートとかに行ったのかな。奏弥さんの気持ちはともかく、女は奏弥さんを私物みたいに縛っているみたいだし。
 私はふらりとベッドサイドに腰かけた。そういえば、明かりもそうだけど、暖房はかかったままだ。いや、単に帰宅して室内が冷えるのを避けたのかもしれない。
 どうしよう、と夕闇のような気分が暗くなってくる。どのくらい、ひとりで待てばいいのだろう。
 膝に目を落とし、こらえきれなくてぽろぽろと涙をこぼしてしまう。奏弥さんが帰ってくるとき、また女も一緒かもしれない。それなら私は、まだ冷たいユニットバスでじっとしておくべきなのかもしれない。分かっていても、奏弥さんの手に手が届かないことにひどい不安を感じて、持ち上げた膝を抱えて丸くなってしまう。
 そのときだった。いつも通りどこからかぼんやり聞こえていた子供の泣き声が、突然ひときわ大きくなった。「ごめんなさいっ」という悲鳴まで混じったので動揺に身をこわばらせる。ドアをばたんと開け閉めする音がして、「ママ、寒いよお」という泣き声がはっきりと聞こえてきた。
 私は少しのあいだ硬直していたものの、子供がわんわん泣いて、力なくドアをたたいている音に、思わずベッドを立ち上がった。
 玄関に行くと、いっそう子供の痛ましい泣き声がくっきり耳に届いた。鍵を開けて、ドアノブに手をかける。ドアの隙間から廊下を見渡すと、ひやりとした空気が入りこんで、奥の部屋の前で幼稚園くらいの子供がしゃがみこんで泣いていた。
 訝るように顔を出している人は、私以外にはいない。その子はドアに顔を押しつけて、「ママあ、ママ、開けてえ」と泣きじゃくっている。明らかに虐待なのだけど、誰も何とも思わないのか。
 まあ、私が勝手に住み着いてることもたぶん流されているようなアパートだ。ちょっと考えて、映画を観ながら食べるために買ったチョコチップクッキーの箱を見つけた。私はそれを持ち、廊下に誰もいないのを確かめて、靴箱に入れていたブーツを取り出して部屋を出た。
 泣き過ぎてえずくその子は、私の足音にびくんとして顔を上げた。ぱっちりした瞳と長い睫毛で、一瞬男の子なのか女の子なのか分からなかった。髪はぼさぼさで、服も皺が寄って汚れている。
 私はゆっくりその子のそばにしゃがむと、「ん」とクッキーの箱をさしだした。その子は大粒の涙をまだこぼすまま、私をじっと見つめる。
「泣いてたら、たぶん、入れてもらえないよ」
 その子は眉を寄せて私の言葉にまた泣きかけたけど、「これおいしいから」と私にクッキーの箱を押しつけられて、そろそろと受け取る。つたない指先で取り出した個装を破くと、やはりお腹が空いていたのかひと口で頬張った。
 鼻をすすりながら、口を動かしてクッキーを噛み砕き、こくんと飲みこむ。それから、ひと箱のクッキーをあっという間に食べてしまった。そのあいだに涙も引っこんだその子は、ようやく私を見つめて言った。
「あ……ありがとう」
 私は小さく咲ってうなずくと、立ち上がって部屋に引き返そうとした。すると、くいっとパーカーの裾を引っ張られて、ん、と振り向く。その子も立ち上がり、私の服をつかんでいた。

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