聖なる夜に
私はやや考えてから、「名前は何て言うの?」とその子に訊いた。「天斗」とひと言返ってくる。一考したのち、「部屋、来る?」とまた訊くと、天斗はこっくりとした。私は裾をつかむ天斗の小さな手を取ると、包むように握って部屋の前に連れていった。
「天斗って、女の子?」
「……男」
「そうなんだ」
「おねえさんのこと、初めて見た」
「私、ここに来て一ヵ月くらいだから」
「いっかげつ……」
一ヵ月の長さが分からないのか、首をかしげた天斗に、「こないだ来たばっかりなの」と私は言い直した。すると、今度は天斗は納得したようにうなずいた。
私は廊下を素早く確認してから、開けたドアの隙間に天斗を潜らせた。
「僕は、赤ちゃんのときから住んでる」
そう言う天斗は裸足で、私は冷蔵庫に吸盤でくっつくタオル掛けにあったタオルで、天斗の足をぬぐった。
「今、何歳?」
「六歳」
「小学生?」
「来年。行かせてもらえるか分からない、けど」
「……そっか」
部屋に上がった天斗は、「お部屋があったかい」と天斗はまばたきをした。そしてむずがるように身動ぎしたあと、「普通のおうちみたい」と初めて笑顔を見せる。普通のおうち。それは違うけどな、と思ったものの何も言わず、私と天斗はベッドサイドに腰を下ろした。
天斗は部屋をきょろきょろした。「ここはおねえさんだけの部屋?」と問われて、「男の人が一緒に暮らしてる」と私は答える。すると、「ママも男の人と暮らしてる」と天斗は長い睫毛を伏せた。
「僕よりその人が好きなんだって。だから、僕はいらないんだって」
「……そんなの、ママじゃないよ」
「えっ」
「ママと思わなくていいんだよ」
天斗はびっくりしたようにまじろいだものの、「ママじゃない」とつぶやき、しばし考えてからこくんとした。
「じゃあ、おねえさんがママでいい?」
「………、まあ、今だけなら」
「うんっ。それなら、いいこいいこして。僕、いい子にするから、いいこいいこして」
私は天斗の頭に手を置いて、そっと撫でた。髪の手触りがあんまりよくないのが、逆に愛おしかった。
お風呂に入れてあげたら、さらさらになるのかな。でも、さすがにそこまでしてあげると、この子の母親が住人を怪しむ──
「天斗!」
突然、そんな金切り声が廊下から響いた。天斗がほぐれていた軆を一気にこわばらせる。私もつい息を飲みこんだ。
「出てきなさいっ、あんたがいないと役所の連中に説明がつかなくなるじゃないの!」
足音が部屋の前を通り過ぎて、外でわめきはじめる。天斗は顔を伏せ、無言でベッドサイドを降りた。「天斗」と呼び止めると、天斗はすがりつくような目で言った。
「ママが……寝てるときとか、いないとか、また、来てもいい?」
ここは私だけの部屋じゃない。そんな約束はできない。それでも、うなずいてしまった。
天斗はもう咲わなかったけど、涙はこらえたまま、走って部屋を出ていった。「ママ」という声がした途端、外の母親のわめき声が止まって、すぐに天斗の悲痛な泣き声にすりかわった。
その悲鳴が痛々しくて、私は耐えられなくて耳をふさいでしまった。私はたたかれて育ったわけではない。あくまであいつらは精神的な苦痛しか与えなかった。それでも、天斗は私と似ているのかもしれない。愛されない子。いらない子。涙がこみあげてきて、耳を両手で抑えてひとりで泣いていた。
不意に誰かの腕が私を抱き寄せる。濡れた頬が胸に当たって、その匂いに私はしがみついた。
「奏弥さんっ……」
「……あの子、いつも泣いてる子かな」
顔を上げて、「どこに行ってたの」と私は奏弥さんの服をつかんだ。奏弥さんは私の泣き顔に首をかしげたあと、「それを買いにいってた」と私の足元をしめす。「え」とそこを見ると、ふくろに入ったホールの白いケーキと、チキンの香りがもれる箱があった。
「明日買いにいきたいからって少し多くお金もらったら、明日なんてなくなってるから今日のうちに買えって言われて」
「……あ、」
「明日はケーキとチキンって、佳琴が言ってたから。なくなってたら、俺も困ると思って」
そこまで説明されて、胸で鬱血していた不安が溶けていく。ため息をついて、奏弥さんの胸にまた顔を埋める。
何だ。よかった。デートじゃなかった。私のために行ってきてくれたんだ。
「ごめん、何も言えずに出かけて」
「……怖かった」
「うん」
「いつまでひとりなのかなって」
「ごめん」
「奏弥さんに見捨てられたら、私は行くところがないよ」
奏弥さんは私の頭を抱き、癒やすように髪を撫でてくれる。「大丈夫だよ」と奏弥さんがささやき、私はうなずく。「俺も佳琴がいなくなったら生きていけない」という言葉にまたうなずいて、奏弥さんの背中に腕をまわした。
冷えこみが残っていた奏弥さんの軆が温まっていく。生き返っていく。私の涙も止まって、それでもくっついているのが心地よくて、私たちはしばらくそのまま抱きしめあっていた。
ケーキとチキンはひと晩我慢して、ちゃんと翌日のクリスマスイヴに食べた。「クリスマスにちゃんとケーキとか食べるなんて初めて」と私がわくわくしながら言うと、「俺もクリスマス祝ったことない」と奏弥さんは香ばしいローストチキンをほぐしてくれる。
切り分けたケーキに乗っていた瑞々しいいちごを頬張り、天斗にもケーキあげたいなあと思った。でも、私から天斗の部屋を訪ねるのは、たぶん怪しい。
「ケーキって何日くらい冷蔵庫で持つかな」と訊くと、奏弥さんはケーキの入っていたパッケージで賞味期限を確かめて、「翌日までに食べてくださいって書いてある」と記載をしめした。「そっかあ」と私が残念そうにすると、「一気に食べれない?」と奏弥さんは首をかしげる。私はかぶりを振り、「食べる」とケーキの甘い生クリームを口の中で蕩かした。
たくさん食べて、夜遅くまで映画を観て、日づけが変わってクリスマス当日になった頃、私と奏弥さんは今日もベッドと床に別れて寝ようとした。「床寒くない?」と奏弥さんに訊くと、「慣れてきた」と返ってくる。私の足元は早くも電気毛布でぬくぬくしつつある。「電気消すよ」と奏弥さんが言って、私は「あのね」と奏弥さんをじっと見つめた。
「私、奏弥さんだったらいいよ」
「え」
「ベッドで一緒に寝るくらいならできる」
奏弥さんも私に目を向ける。驚きが浮かんでいる。「奏弥さんが嫌かな」とあの女とのあとを知るせいで言ってしまうと、「そんなことはないけど」と奏弥さんはぼそぼそと言った。「じゃあ」と身を乗り出すと、奏弥さんはとまどった顔を見せてからうつむいた。
やっぱり嫌だったかな、と後悔がちらついていると、「佳琴が嫌じゃなかったら」と奏弥さんは顔を伏せたまま言う。
「私は──」
「抱きしめてから眠りたい」
「えっ」
「……嫌だろ?」
「い……やじゃないよっ。ぜんぜん。私も、奏弥さんに何かしてあげたいもん」
奏弥さんは私を見て、「そっか」と言ったものの床を立ち上がろうとはしない。
私はいったんベッドを出て、奏弥さんの手に手を伸ばした。体温が共有されて、柔らかくほてる。奏弥さんは私の手を握り返し、「佳琴はそんなふうに男と一緒に寝たことある?」と訊いてきた。私は首を横に振る。
「俺も、……ない」
「あの女の人は?」
「やるだけだから」
「あっ、べ、別に、そういうことしようって意味じゃないよ? ほんとに、その、何というか……」
頬を染めてしどろもどろになった私に、奏弥さんはようやく静かに立ち上がると、ベッドサイドに腰かけた。つないだ手からどちらからともなく引かれあい、ぎゅっと抱きしめあう。
奏弥さんは私の髪を撫で、「佳琴とこうするのはすごくほっとする」とささやいた。私は何だかどきどきしながらも、こくんとする。
「初めて佳琴を見たとき、こんなに近くなれるとは思わなかった」
「電車?」
「そう」
「そういえば、電車なんてどうして乗ってたの? 普段乗ってないよね」
「自殺しようと思った」
「えっ」
「でも、飛びこむ勇気が出なくて。ただ電車に乗るのを、何度もやってた」
「……そう、なんだ」
奏弥さんは私を抱きすくめて、「生きててよかった」とつぶやいた。私は小さく咲うと、「私も」と奏弥さんにしがみつく。
「ほんとに、俺、何もできないけど」
「いいよ。私、そういうことのために奏弥さんのそばにいるんじゃないから」
「佳琴は優しい」
「奏弥さんも優しいよ」
「……ずっと、そばにいてほしい」
奏弥さんは、しばらく心地いい体温で私を抱きしめていて、ふと少し軆を離すと、「寝ようか」と言った。私がうなずくと、奏弥さんは明かりを消す。
部屋が暗闇に包まれて、手探りでふとんにもぐりこんだ。電気毛布でふとんの中はぽかぽかしている。その熱の中で奏弥さんは私をもう一度抱きしめ、私の頭をさすってくれる。
「奏弥さん」
「うん」
「言ったこと、なかったけどね」
「うん」
「私も、奏弥さんが好きだよ」
「え」
「奏弥さんのことが好き」
真っ暗の中で視界が慣れると、奏弥さんの瞳が少し濡れているのが見取れた。私は恥ずかしくて、奏弥さんの胸に顔を埋めてしまう。奏弥さんは私をぎゅっと抱いて、「俺も佳琴が好き」と言ってくれた。
私はいらない存在だった。でも、この人は私を抱きしめてくれる。正直、出逢い方は異常だった。それでも私は、この人に出逢えてよかったと思う。
奏弥さんの温かい腕に軆を預け、意識がうとうとと溶けてくる。「眠たい」とつぶやくと、「おやすみ」と奏弥さんは答えてくれる。私はこくりとして、目を閉じて力を抜いた。
温かい。気持ちいい。あんな行為をしなくても、私は奏弥さんとつながっている。
そんな考え事も霞んでいって、クリスマスの夜、私はとても幸福な眠りについた。
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