居場所になれるなら
天斗がうとうとしてくると、「ここならゆっくり眠れるよ」とベッドの電気毛布のスイッチを入れてあげた。天斗はもそもそベッドにもぐりこみ、すぐに温かさに包まれて眠ってしまった。
その寝顔をベッドサイドで奏弥さんと見守っていて、「何かほんとに家族みたい」と私は奏弥さんにくっついた。私に腕をまわされた奏弥さんは、「でも」と心配そうに首を傾げる。
「この子までこの部屋に住まわせる金がない」
私は奏弥さんを見上げて、「それは」と声のトーンを落とす。
「天斗を母親から奪うことも、できないことだから」
「……そっか」
「たまに、休息できる場所になってあげられたらいいと思う」
「それくらいなら、できるかな」
「うん」
私はにっこりして、奏弥さんの手を取った。指が絡んで、恋人つなぎになる。
恋人? 結婚してるの?
天斗の質問がよぎって、恋人だったら嬉しいなあ、と思った。でも、そういう間柄の確認はしたことはない。私は奏弥さんが好きで、奏弥さんも私が好きだと言ってくれるけど、これって恋人なのかな。セックスをしないからではないけど、よく分からない。
夕方になると、奏弥さんは夕食を三人ぶん作った。カレーのスパイスの香りで、天斗は目を覚ましたようだ。「おいしい匂いがする」と副菜のマカロニサラダを運ぶ私に睫毛をぱちぱちさせる。
「カレーだよ。好き?」
「食べたことない」
天斗はいそいそとベッドを這い出た。炊き立てのごはんにカレーをかけたお皿を持ってきた奏弥さんは、「辛くしてないから」と天斗にお皿とスプーンを渡す。ほかほかといい匂いの湯気を見つめた天斗は、「食べていいの?」と奏弥さんを見上げる。
「君のぶんも入れて作ったから」
奏弥さんは天斗の頭に手を置いた。天斗は泣きそうになると「あったかいごはん初めて」と言い、スプーンを握るとすくったカレーライスをぱくっと食べた。
熱かったのか口を開けて冷まし、それから味わって飲みこむ。「おいしい」と天斗が表情を綻ばせると、私と奏弥さんもほっとして、奏弥さんは私と自分のぶんのカレーも持ってきた。
三人で夕食を取ったあと、天斗は「ママが帰ってくる前にお部屋にいなきゃ」とベッドサイドを立ち上がった。「おかあさん、もう帰ってくるの?」と私が問うと、「分からないけど、今日はおねえさんとおにいさんにいっぱい元気もらったから、大丈夫」と天斗は顔をうつむけた。
そんな天斗に、私より奏弥さんが「いつでも逃げておいで」と言った。「僕、パパにぎゅっとされたことない」と天斗がつぶやくと、奏弥さんは躊躇い気味ながら天斗を両腕に抱いた。「パパ」と天斗は哀しそうに言って、奏弥さんにしがみつく。この子の“パパ”は母親が連れてくる見知らぬ男ばかりだったんだろうなあ、と思うと胸がきしむ。
それからふたりは軆を離し、天斗は私にも抱きついた。私は天斗の頭を撫でて、「天斗が来てくれるの待ってるよ」とささやいた。天斗はこくんとすると、私と奏弥さんに廊下まで見送られて、自分の部屋に帰っていった。
「奏弥さん」
「ん」
「ありがとう、天斗のこと」
「いや。大したことできなくて」
「天斗、喜んでたよ」
「そうかな」
「私も、もっと子供の頃から、奏弥さんがそばにいたらよかったなあ……」
部屋の中に戻ると、明かりの下で暖房が巡っていて暖かかった。天斗がまた泣き出したらつらいなあ、と思うけど、今のところ母親は帰ってきていなかったのか静かだ。
「天斗は……ううん、私も奏弥さんも、みんな居場所がないから、三人でいるのが居場所になったりしないかな……」
電気毛布が入ったままで、ベッドはぬくぬくしている。その温度に微睡んできた私に、「少し眠る?」と奏弥さんが訊いてきて、私はこくりとした。
奏弥さんは私にふとんをかけ、「初詣行って疲れたよね」と私の頭を撫でた。楽しかったよ、と言いたかったけど、意識が温もりに吸い取られていく。そのまま、私は眠りに落ちていた。
それから、天斗がときどき部屋を訪ねてくるようになった。少しずつ天斗に笑顔が増えていくのが愛おしかった。奏弥さんも天斗を名前で呼ぶようになり、かわいがっている。天斗は甘いお菓子が好きだったので、チョコレートやクッキーが部屋に常備されるようになった。
テレビを観ながら、天斗は私か奏弥さんの膝に座り、私と奏弥さんが寄り添い合えるようにしてくれる。奏弥さんが天斗をお風呂に入れてくれたりもした。そんな奏弥さんに天斗も懐いていった。
一月に入って二度目の土曜日、朝、奏弥さんのケータイが鳴った。奏弥さんの沈んだ受け答えが耳に触れて、私も目が覚めていった。ゆっくり身を起こすと、ちょうど奏弥さんも電話を切って、ため息をついていた。
「来るの?」
奏弥さんはうなずいて、ベッドに顔を伏せた。私はその髪に指をさしこみ、なだめるように愛撫する。「怖い」と奏弥さんは小さくつぶやいた。
トーストした食パンにたまごフィリングをたっぷり挟んだ朝食を取っていると、ひかえめなノックが聞こえた。「天斗だ」と私は立ち上がり、冷えた廊下を抜けて玄関のドアを開ける。やはりそこには天斗がいて、頬にぶたれた痕が残っていた。
私は無意識に廊下を確認してから、天斗をドアの内側に招き入れる。裸足はタオルで拭ってあげて、「頬っぺた大丈夫?」と心配すると、「へーき」と天斗は私の服を裾をつかんで嬉しそうに咲った。
「朝ごはん食べた?」
「ううん。昨日のお昼にみかんひとつ食べた」
私は部屋に戻る前に冷蔵庫を開けて、食パンの残りを見つけると取り出した。
「バターとチーズ、どっちがいい?」
「ん、ちーず」
スライスチーズを一枚拝借し、食パンに乗せるとレンジでトーストにした。ベルが鳴ると、お皿に乗せたふわりと匂うチーズトーストを天斗に渡す。まばたきして受け取った天斗は、「一緒に食べよう」と私に手を引かれると、とことことついてきた。
暖かい部屋に戻ると、たまごサンドを食べていた奏弥さんが目を向けてくる。天斗は長い睫毛をしばたかせ、「おいしそう」と奏弥さんに駆け寄った。「少し食べる?」と奏弥さんが訊くと、天斗は首を横に振って「おねえさんが作ってくれたよ」とチーズトーストのお皿を持ち上げる。「作ったってほどでもないけど」と私は天斗を膝に乗せて奏弥さんの隣に座る。
「佳琴」
「うん」
「……あの人、昼に来るって言ってたから」
「えっ。あ──」
「天斗連れて、散歩にでも出てたほうがいいかも」
「あ……そう、だね」
天斗はチーズトーストをおいしそうに食べている。奏弥さんが私じゃない女の人とふたりきりになるのは、天斗もショックだろう。どうしてそれでお金になるのかもよく分からないと思う。天斗の前では、「仲良しのパパとママ」でいたかった。
十一時半くらいまで部屋で三人でゆっくりして、それから天斗に大きすぎる服を重ね着させると、私もコートを着て部屋を出た。「おにいさんは?」と手をつないだ天斗に首をかしげられ、「奏弥さんは少しお仕事」と私はあやふやに咲った。
天斗はじっと私を見て、「お仕事のときは、一緒にいられないんだね」とつぶやいた。「お仕事だからね」と私が言うと、「でも寂しいな」と天斗はうつむいた。
アパートを出ると、曇り空から冷たい風が吹きつけてきて、首をすくめてしまった。散歩、と言われても、私はこのへんのことをよく知らない。一応お金は持ってきたし、レンタルショップでも行こうかな。借りるには会員証がいるけど、観たいものに目星をつけるくらいならできる。
「天斗、観たいアニメとかある?」
私の質問に、天斗は私もタイトルだけ知っている人気のアニメを一度観てみたいと言った。「今度、会員カード持ってる奏弥さんと借りておくから、どれ観たいか教えてよ」と言うと、「いいの?」と天斗は瞳を開いて笑顔になった。
周りにアパートが並ぶ小道を天斗と話しながら歩いていると、正面から歩いてくる人に気づいた。緩いウェーヴのセミロング、睫毛が伸びてぱっちり明るい瞳、色白で細身で──落ち着いた雰囲気があっても、まだ、三十代にはなっていないように見える。
その人はすれ違いざまに天斗ににこっと微笑み、私にも感じよく会釈した。ヒールの音が耳に名残る。そして、緩やかに残る甘い匂い──
……え。
もしかして。もしかして、今の。
振り返った。その人は私や天斗が暮らしているアパートに入っていった。私があんまりそれを凝視するので、天斗もそれを見て「あの人見たことない」と言った。私は天斗とつなぐ手に力をこめ、黒くざわめくみぞおちに落ち着かなくなる。
「保護者」なのに、お金と引き換えに奏弥さんとセックスしている。けれど、そんな後ろめたい雰囲気はなくて、さっぱりした感じだった。いや、あの人かどうかなんてきちんと分からない。しかし、奏弥さんを縛る女がいるのは事実で、これからふたりは──
何度も何度も考える。その女は、奏弥さんの何なのだろう。どこで知り合って、何でそんな間柄になったのだろう。奏弥さんが、行為のあとあんなに苦しんでいることは知っているの?
「おねえさん」
「……え、」
「大丈夫? どこか痛いの?」
懸念を浮かべる天斗を見て、笑顔をかたちづくると、私は首を横に振った。「アニメ見に行こ」と歩き出すと、天斗は私の手をぎゅっと握った。
奏弥さんのお仕事は分かっているつもりだ。しかも私はその収入で生きている。文句なんて絶対に言えない。でも──
不意に木枯らしが強く吹いた。思わず目をつぶりながら、一緒にこぼれそうになったものをこらえた。
年末年始の安穏は終わって、また女が週に一度訪ねてくるようになった。
天斗がいるときに来るようだったら、私はユニットバスに隠れず、天斗と散歩に出た。天斗がいないときは、相変わらずユニットバスに隠れて寒さに震える。
女の金で暮らしているのは分かっていても、来なきゃ幸せなのにな、なんて考える。奏弥さんが隣にいて。天斗がお菓子を食べて咲って。
女が帰ると、奏弥さんはフラッシュバックでも起こしたように苦しげにうずくまり、抱きしめる私に抱きついた。私がまともに働いたら、奏弥さんも楽になれるのかな。そう思って、時には口にもしたけど、「佳琴はここにいてくれたらいい」と奏弥さんは私にしがみついた。
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