ポラリス-8

光に導かれて

 二月になって、春が来る前の一段と厳しい寒さが来た。二月上旬最後の土曜日の朝、奏弥さんのケータイが鳴った。私を腕に抱いてベッドに寝ていた奏弥さんは、腕を伸ばしてケータイをつかみ、電話に出る。
 私もぼんやり目が覚めて、「はい」とだけ繰り返す奏弥さんの硬い声を聞いていた。やがて会話が終わると、奏弥さんはケータイを床に投げて私を抱きしめなおした。
 私も奏弥さんの胸に顔を伏せ、「今日来るんだ」と言った。「うん」と奏弥さんは私の伸びた髪を指先にまつわらせる。
「大丈夫?」
「金がなくなるし」
「……やっぱり、私も──まともな仕事はできないかもしれないけど」
「まともじゃない仕事って? 少なくとも俺みたいなことは、佳琴にはさせたくない」
「………、私だって、奏弥さんにあんな想いさせてまで、その女を宛てにしたくないよ」
「俺は何年もこうしてきたから平気だよ」
 私はまだ何か言おうとしたものの、しょせん奏弥さんのそのお金で二ヵ月以上暮らしていて、強く文句も言えない。「無理しないで」とだけ何とか言うと、奏弥さんは優しく私の頭を撫でて「大丈夫」とささやいた。
 今日は、女はお昼に来るそうだ。朝食を取ったあと、簡単に部屋を掃除して整えて、早めの昼食を食べておいた。ドアフォンが鳴ると、つないでいた手を離して、私は冷たいユニットバスにこもる。
 待つあいだは時間の感覚が狂う。ひたすらまだかなあと思って、長く感じて、冷気と柑橘系の芳香剤の中で退屈に明け暮れる。
 今日もそうだった。でも、ふとドアの向こうでこんこんという音がして、私ははっと息を飲んだ。
 天斗だ。どうしよう、ととっさに迷ったものの、奏弥さんが近所の子供にもお金を使っているのを知ったら、女がどう思うか分からない。
 すぐ一緒に外に出てしまえば、大丈夫かもしれない。また小さなノックがして、私は立ち上がり、廊下をうかがって玄関まで行くとドアを開けた。
 天斗はぽろぽろ泣いていた。ドアを開けた私を見上げ、こちらが声を出せずにいると、軆をぶつけてぎゅっとしがみついてくる。「天斗」とかろうじて抑えた声で名前を呼ぶと、天斗は答えずにわっと声を上げて泣き出した。
 やば、と思った私は、急いで外に出ようとする。けれど、間に合わず、背後でドアの開く音がした。
「……え、」
 私も、つい振り返ってしまった。そこでタオルだけまとってこちらを覗いていたのは、やはりあのときの女だった。髪が乱れて、かなり化粧も崩れているけれど──
 私はぱっと目をそらすと、靴箱の自分のブーツを取り出し、泣いている天斗とドアの隙間から外に出た。「待って」と聞こえたけど待つわけない。「おねえさん」と手を引かれてとまどう天斗とアパートを出て、ずいぶん闇雲に歩いてから歩調を緩めた。
「おねえさん、怒ってるの?」
 怯えた様子で訊いてきた天斗に、私は笑みを作って首を横に振った。天斗はとりあえずほっとした顔を見せてから、私の手をきゅっとつかんで、「女の人がいた」とつぶやいた。「奏弥さんの仕事だから」と言うと、「ママと一緒なの?」と天斗は長い睫毛でまばたきをする。
「えっ」
「僕のママ、いろんな男の人とはだかんぼになって、あそこをくっつけるの。たまにそれでお金ももらってるよ。おにいさんも、それしてるの?」
 私が何とも言えずにいると、天斗は「おにいさん」とこぼしたきり、なぜかまたほろほろと涙を流しはじめた。
 車道沿いに出た私たちは、道端にしゃがみこむ。「天斗は何かあったの?」と気になっていたので問うてみると、天斗は大きな瞳をゆらゆら揺らしてぎこちなくうなずき、うつむいた。その反応に「言いたくないなら」と私が慌てて言うと、天斗はかぶりを振り、「今、お部屋にママがいなくてね」とぽつりぽつり語りながら私にしがみつく。
「でも、ママのこいびとの人が来たの。ママを待つってふたりでいて、おねえさんにところに行けないなあって思ってたら、こいびとの人が僕に触ってきたの」
「えっ──」
「ママが遅いから僕が代わりをしなさいって。服を脱がされて、その人のおちんちん口に入れられたの」
 息を飲みこんで、天斗を抱く腕が震えそうになった。天斗は私の胸に顔を押しつけて苦しげにうめき、「気持ち悪かったよお」と涙をいっそうあふれさせた。私はわななく天斗を抱きしめ、「そうだね」と頭を撫でた。
「つらかったね」
「うん」
「怖かったね」
「うん」
「そういうときは、逃げていいんだよ」
「に、逃げたらね、ママにお金渡さないって」
「いいの、それでも逃げていいの」
「ママが僕をたたくよ」
「じゃあ帰らなきゃいいんだ」
「え……」
「帰らなくていいの。私もそうだもん。私も家がつらいから奏弥さんといるの」
「そうなの……?」
「奏弥さんはね、そのためにあの女の人とそういうことしてるんだ。私なんかまで養ってるせいで、あんな……」
「……おにいさんは、おねえさんのために頑張ってるんだ」
「そう。だから、奏弥さんのことは気持ち悪いとは思わないであげて」
「ん……分かった」
「天斗もあの部屋においで。私も働けばいいだけだから」
「いいの?」
「その人にされたことはね、絶対にされちゃダメなの。私と奏弥さんが、天斗のこと守るから」
「まもる……」
「守る。天斗が傷つかないように、哀しくならないように、守るよ」
 天斗は私を見上げ、こくんとすると、再びしがみついてきた。天斗が裸足のままなことに、いまさら気づく。
 奏弥さんの部屋には、いつ頃帰ればいいのだろう。……いや、帰っていいのかな。天斗にはああ言っても、奏弥さんがあの女に見つかった私を許してくれるかどうか。
 でも、あのときノックに応えなかったら、こんなに傷ついた天斗を抱きしめてあげられなかった。仕方なかったのだ。それ以上に、ノックに女が気づいて、あの女が出迎えたよりは──
 上着も何も羽織ってこなかったから、昼間でも二月の風はかなり冷たかった。耳や指先から体温がなくなっていって、ちぎれ落ちてしまいそうに感じる。天気もそんなに良くなくて、雨まで降り出しそうではなくも、空はどんよりしている。
 歩道を歩く人が、座りこむ私と天斗を変な目で見ていく。吐く息が少し白い。そういえば、ここからどういう道順で奏弥さんのアパートなのだろう。
 やがて、一瞬で冬の日が落ちた。さすがにあの女もいないか、と立ち上がって天斗と手をつないで、迷子承知でアパートの並びの中を歩きはじめた。暗くてよく分かんない、ときょろきょろしながら生活音が転がる夜道を彷徨っていると、不意に「佳琴!」と呼ばれて私は立ち止まった。
 視線の先で私たちを見つけていたのは、奏弥さんだった。私と天斗の元に駆け寄ってくると、苦しそうな表情のまま私たちを抱きしめる。奏弥さんの体温も、もう冷たくなっていた。
 奏弥さんの匂いが鼻腔に触れ、私はその服をつかむと「ごめんなさい」と言った。腰に天斗が抱きつく奏弥さんは、私の髪を撫でて「佳琴は悪くない」とやっぱり優しいことを言った。
 暖房がきいたいつもの部屋に戻って、私と天斗は熱くて甘いココアを飲みながら、一緒にふとんに包まった。女はいない。
 時刻は十八時になりそうだった。けっこう外にいたんだな、と思う。凍え切ってしまうはずだ。
 奏弥さんは私たちが温まるように、野菜がたっぷり入ったポトフを作ってくれた。野菜が優しい香りを漂わせ、ココアとふとんで体温が回復してきた私と天斗は、それを食べてようやくほかほかしてきた。
 お腹がいっぱいになって軆も温まった天斗は、ベッドで幸せそうな眠りに落ちてしまった。私がベッドサイドでその頭をそっとさすってあげていると、食器を洗った奏弥さんが隣に腰かけてくる。
 私は奏弥さんを見上げると、今度こそちゃんと話さないと、と心に決めたことを切り出す勇気を絞った。
「奏弥さん」
 天斗に毛布をかけていた奏弥さんは、「うん」と私に目を向ける。
「私、やっぱり働く」
「えっ」
「天斗もこの部屋にいさせてあげたい」
「……天斗も」
「奏弥さん、天斗のぶんのお金はないって言ってたでしょ。じゃあ、私が働けばいい」
「それは、」
「天斗がね」
 言いかけて、勝手に言っちゃっていいのかな、と一瞬躊躇っても、言わないときっと奏弥さんを納得させられない。
「母親の恋人に……その、性的なことをされたみたいなの」
「えっ──」
「ママの代わりをさせろって、脅されて。どこまでされたのかははっきり分からなくても、私、そんなの絶対ダメだと思う」
 奏弥さんは私を見つめる。どこか表情が蒼ざめている。
「私と奏弥さんで、天斗を守ってあげたい。だから私、働きたいの。まともな仕事を見つけられるように頑張るよ。お願い」
 奏弥さんは私の瞳を見つめた。そのあと、深くため息をついてまぶたを伏せた。私はそんな奏弥さんの横顔をじっと見つめる。
 奏弥さんは眉間を寄せてずいぶん沈黙していたけれど、ふと目を開けると、「佳琴はもっと早く俺がいたらよかったって言ったけど」と低くつぶやく。
「俺も、もっと早く佳琴がいたらよかったのかもしれない」
「え」
「佳琴が俺を助けてくれたなら、助けたのが先生じゃなかったら、こんなことにはなってなかった」
「先……生?」
「あの女だよ」
「え、……えと」
「俺の中学生のときの担任なんだ。化粧してると若く見えるけど、だいぶおばさん。俺の家庭のことを知って、助ける代わりに俺を全部くれって言ってきた。いつかちゃんとセックスができるようにとか言われるけど、どうせ全部嘘なんだ。先生は俺を所有物にしたいだけ」
「そんな……のって、」
「俺は確かにちゃんとしたセックスができないと思うけど、そんなところまで先生に心配されなくていい。でも、先生に逆らったら俺はあの家に戻るしかない」
「………、奏弥さんの家って」
「父親も母親もいる。よくできる兄もいる。兄は昔から両親には見えないところで、俺のこと気持ち悪いって殴ってた。でも、中学生になって性的な興味が出てきた頃、俺で試すようになった」
「試す……」
「たぶん、天斗がされたことと同じだ」
 目を開いた。こぼれる呼吸がおののく。
「先生は家庭訪問したときに現場を見て……気にしてくれるようになったのは嬉しかったし、中学を卒業したら面倒見るから家を出なさいって言われたときもありがたかった。でも、先生も同じだった」
「………、」
「働けばいいって分かってても、その気力がもうなくて、死にたいばっかりで。いつも駅のホームとか踏切とか、そういうところふらふらして。しかも結局、死ぬ勇気は出ない。自分がみじめなばっかりで、このまま生きていくのが怖かった。その中で佳琴を見つけた。佳琴を見るのだけが、楽しみになった」
 奏弥さんはこちらを向いて、そっと私の頬に触れた。私はその手に手を重ねる。奏弥さんは弱々しく咲った。
「ほんとに、俺は気持ち悪い」
「……そんなことないよ」
「気持ち悪いよ。ストーカーだし、声かけずに手を握るなんて、痴漢だし。『大丈夫ですか』って言うとか、何でできなかったんだろう」
「いいの、そんなこと。初めは確かに少し怖かったけど、今はそんなことない。奏弥さんが優しい人だって、分かってる」
「優しい……」
「優しいよ。奏弥さんが私のこと助けてくれた。私を初めて必要としてくれた」
「……佳琴には、もしかしたら俺より、」
「私は奏弥さんがいい。私にも奏弥さんが必要なの」
 奏弥さんは弱い瞳で私を見つめる。顔を近づけてきて、唇が触れ合いそうになる。でもやっぱり、耐えられないように奏弥さんは顔を伏せた。
「奏弥さん」
「……無理だ、やっぱり」
「できなくていいんだよ。それでも私は奏弥さんのそばにいたい」
「……俺も佳琴と一緒にいたい。天斗も、そんなことされたならなおさら守ってあげたい」
「うん」
「先生、今も教師だし、結婚してるんだ。だから、平日とか夜にはここに来れないんだけど」
「……そうなんだ」
「もしかしたら、明日は日曜日だから、昼にいきなり来て……佳琴にひどいこと言うかもしれない。天斗にも。それだけは嫌だ」
 奏弥さんは息をつめて、黙りこんだ。私は奏弥さんを見つめる。奏弥さんはゆっくりそれを見つめ返すと、息を吐いた。
「先生に……頼るのを、やめよう」
「奏弥さん──」
「この部屋も、全部、先生のものだから。出ていかなきゃいけないけど。それでも……佳琴と天斗が一緒なら」
 私は奏弥さんにぎゅっと抱きついて、何度もうなずいた。「ほんとについてきてくれる?」と不安そうに確かめた奏弥さんに、「どこにでもついていく」と私はきっぱり約束した。
 私と奏弥さんは、最低限の荷物をひと晩でまとめた。朝、目を覚ました天斗に、一緒にこのアパートを出ていくかどうか問うた。天斗はびっくりしていたけど、「おにいさんとおねえさんが一緒なの?」と訊いて、「もちろん」と答えると「一緒に行く」と言った。「部屋から持ってきたいものとかある?」と確認したものの、天斗は首を横に振った。
 朝食には三人でオムライスを食べた。奏弥さんのオムライスは、初めて食べたときからおいしい。
 午前七時にもならないうちに私たちは部屋を出た。靴がない天斗のことは、奏弥さんが抱き上げてくれた。天斗は奏弥さんの首を腕をまわして、すごく嬉しそうだった。
 昨日と違い、今日はよく晴れていた。空気は朝の冷えこみでも、陽射しはほんのり暖かい。
 分かっている。こんなの、本当に異常だ。何もかもおかしい。でも、この三人でいることが私の光だ。
 駅のホームで少し待つと、アナウンスが流れて電車が舞いこんできた。
 行き先。お金。ケータイ。何もない。でも、奏弥さんがこちらを見たら、私はうなずく。扉に向かって歩き出す。
 ここじゃないどこかに行く。そこで私たちは、今度こそ居場所を見つける。
 三人にとって、温かい安らかな場所。心置きなく「ただいま」と言える場所。愛おしい人たちがいる場所。
 どんなに周りが移ろっても、揺るぎなく灯る光。やっと光ったその北極星がしめす、私たちの居場所を目指す。
 ラッシュ前でまだ電車は空いていて、私たちはシートに腰かけることができた。
 車窓の向こうがエンドロールのように流れ去る。私たちのそれぞれの物語が終わる。三人でひとつのかたちになって、これから、新しい未来が始まっていく。

 FIN

error: